2章
第1話 まつりとすみれ
「まつり、まつり」
うーん。
「起きて、まつり。まつりってば」
なんだ? 誰だ?
私は一人暮らしのしがない女だ。誰かに起こされる筋合いなんてない。
昨日の夜は、たしか飲み会をした。副店長と
もやもやと、私を酔わせた犯人の正体が脳裏に浮かぶ。真っ赤な髪をしたヤンキーだった。
まさか私は酔ってそのまま誰かに抱かれたのだろうか。自分の純潔に執着なんてないけれど、それはそれで面倒だ。
真意を確かめるべく目を開けると、私の部屋だった。ひとまずホッとする。
「朝だよ、まつり」
「あ?」
男の声でも、白雲さんの舌を巻いた声でも、副店長の上品な声でもない。
窓の外で鳴く鳥のようにか細い声が、私を呼んでいた。
「まつり、おはよ。まつり、まつり」
私の体の上に、女子高生が乗っていた。
水玉模様のパジャマはおよそ高校生のそれではないけども。年齢的にはどうにもそうらしい。
私は先週から、
「お腹すいた。まつり」
「ぐえ」
まとめてお腹も押し潰されそうだった。
澄玲は私を馬とでも思っているのだろうか。ぐわんぐわん、上で揺れる。それでも景色が変わらないということは、きっと夢じゃないのだろう。
「えっと、キミ、誰?」
「まつり、ごはん」
「あれ、そもそも私は誰?」
「ご~は~ん~」
飯のことしか頭にないのかこいつは。
「はぁ」
起きて数分。記憶喪失のフリをしてもしょうがない。そろそろ現実と向き合おう。
諦めて体を起こした私を見て、澄玲がにへらと笑う。
「おはよ」
「あー、おはよう」
「ごはん」
「その前に顔洗わせて」
冬の冷水は身に染みる。
おい夢よ、覚めるならこれが最後のチャンスだぞ。
「洗った?」
「・・・・・・うん」
タオルで水気を取り、明瞭になった視界に澄玲が映る。ぴょんと跳ねて、私の手を引いた。
力の入りきらない体で卵を割って、炊いていたご飯にかける。最後に卵かけご飯用の少し甘めな醤油をトッピングしてやると、澄玲は目をキラキラさせてお椀を持って行った。
「なんか、懐かれてしまったな」
私は特になにかをしたわけではないのだけど、いつからか澄玲は私を名前で呼ぶようになり、それからよく喋るようになった。
コミュニケーションが取れるのはありがたいが、少々距離が近すぎる気もする。当然一人になりたい時もあるわけで、そういう時はやや窮屈だ。
「まつりも一緒にたべよ」
「へいへい」
テーブルをばんばん叩いて私を呼ぶ。
ボサボサのままの髪が、枯れ木のように揺れていた。
「ほんと卵かけご飯好きだよね。なんで?」
「はじめて作ってくれたやつだから」
「あそ。覚えてないや」
なんだか感動的なセリフを言われた気がしたが、いちいち卵かけご飯を作ったことを覚えている人間などこの世にいない。そもそも卵かけご飯って作るっていうのか?
「パジャマ汚すなよー」
必死にかきこむ澄玲に注意すると、頬を膨らませたまま頷いた。ポロ、米粒が落ちる。本人は気付いていないようで咀嚼を続行した。
「なんふぁ大人ってふぁんじ」
「なにが」
澄玲が食ったまま喋る。
「お酒のにおい」
言われて自分の息を嗅いでみる。くっさ。
私は思わず顔をしかめて手のひらを睨んだ。澄玲はそんな私を興味深そうに覗き込む。
「酔ってるまつり、すごかった」
「すごかったってなにが? 色気か?」
「うーん・・・・・・おしえない」
自分から話題を振っておいてなんだそれは。朝ぼけしている頭がこいつの自由奔放さに耐えきれずぐわんぐわん助けを求めていた。
時計を見ると朝の八時。本当は昼まで寝ているつもりだったのだけど、澄玲に叩き起こされたせいで普通に寝不足気味だった。
そもそもなんでこいつがいるんだろう。制服もハンガーにかかったままだ。
「学校は休み?」
「うん。創立記念日」
「へー」
「まつりは? お仕事?」
「仕事だったらこんなのんびりしてないから」
「木曜日なのにお休みなんだ?」
「創立記念日なんでね」
まったくのウソだけど、澄玲は「同じだぁ」と嬉しそうに目尻を下げる。
私の務める『花盛舞』は木曜日と日曜日が定休日となっている。従業員はほとんどが子持ちの女性で、木曜日は学校の授業参観などの行事が多いためあらかじめ休みにしているとのことだ。あとは市場が日曜日はやっていないということも理由の一つだが、説明は澄玲には不要だろう。こいつは理屈や原理を追い求めるタイプではない。あとめんどい。
「ねぇ、私の首筋にキスマークとかついてないよね」
「ついてないよ、なんで?」
「いや・・・・・・昨日の記憶とかないからさ。まさかと思って」
「うーん?」
最初はなんのことか分からなかったのかきょとんとしていたが、やがて問いの意味に気付いたらしく顔が赤くなっていく。茹でダコみたいな顔を隠しながら、澄玲は部屋の端っこまで飛んでいった。
「き、昨日はふくてんちょーさんがまつりを届けてくれたんだよっ!」
「あ、そうなんだ」
だからといって私の貞操概念が守られたということには繋がらない。まだ副店長に体を捧げたという可能性が残っている。明日あたりにでも直接聞いてみようか。
コクンコクン! と首が取れそうなほどに激しく頷く澄玲を見て、私もさっさと朝飯を済ませてしまうことにする。
そのあとキッチンで食器を洗っていると、澄玲がひょっこり顔を出した。
「まつりって恋人いるの?」
「いるよ」
「そ、そうなんだっ!」
ほー、へー、と私のつま先から脳天まで澄玲の視線が撫でていく。
「ど、どんな人? かっこいい?」
「すごく包容力があって、ずっと一緒にいたいって思うような人」
「ひゃー」
またもや顔を真っ赤にして足をバタバタと忙しなく動かしている。
「会ってみる?」
「い、いいのっ!?」
「よし、ちょっと待ってな」
洗った食器の水気を取って、リビングに向かうと部屋の真ん中で澄玲がぼーっと突っ立っていた。
私はスリッパを脱いで、まだ乱れたままの布団にダイブした。
「これが私の恋人」
「え?」
「だから、これが私の恋人だって。もう一生一緒、離れられないね」
そう言って私はもぞもぞと体を埋めて、目を瞑った。
「おやすみ」
「もー、まつり!」
また上に乗っかられて、ゆさゆさ揺れられる。なんだなんだ人の恋人に不満でもあるのか。
見ると澄玲は、頬をこれでもかというくらいに膨らませてこちらを睨んでいた。
「恋バナをしたいなら他をあたってください」
「そうじゃなくて、今日どこか遊びにいこ」
懐かれた弊害がここで出た。
喋るようになって、距離も近くなって、なんだか仲が良くなったように錯覚してしまうが私はそんなつもり微塵もない。澄玲に対して抱く感情など、初めて会ったあの日からなにひとつ変わってなどいないのだ。
「やーだね。今日は一日寝てるって決めたんだから」
「むー」
するともぞもぞと、澄玲が私の布団に侵入してくる。なんだこれ。暑苦しい狭い邪魔。
「あんたってさぁ、ほんとに高校生なの?」
「高校生だよ」
ほら、とハンガーにかけてある制服を指さす。
「いや、小学生がコスプレをしているという可能性もあるし」
「この前一緒に学校いったよ」
「あれが夢だという可能性もある」
「現実という可能性もあるよ」
「寝てみれば分かる」
ぐう。
枕に顔を埋めて目を閉じる。
「どう? 分かった?」
ふかふかの弾力が微睡みの世界へ誘ってくれるようで、沈んでいく意識に体を預ける。
「ねぇねぇ」
ああ、休日の昼寝ってどうしてこんなに気持ちいいんだろう。触れる毛布の感触もいつもより柔らかくて甘美だ。
「すみれも寝よ」
ちっこい体が背中に抱きついてくる。まるでふくよかなものがない。壁が押し寄せているようだった。あと女子高生だと言い張るのなら自分のことを名前で呼ぶな。信憑性が薄くなる。
「はぁ」
なんでこうなったかなぁ。
思い返せば、葬儀の日に母親に頼まれた時点で断ればよかったのだ。
どれだけ周りが蔑んだ目で私を見ようとも、今感じている苦痛に比べればなんてことはない。絶対無理。死んでも嫌。そうやって子供みたいに泣き叫べば、よかったのかもしれない。
簡単だ。小さい頃はそうやって我が儘を通していたのだから。物を欲しがるのも、何かを拒むのも、泣いて大声をあげれば全部なんとかなった。
いや? しかし、とそこで私は疑問に気付く。
そういえば私、最近いつ泣いたっけ。
まずい、記憶にないぞ。
さすがに泣いたことがないなんてはずはない。母親の股から顔を出したときにおぎゃあと一泣きしたはずだ。いやそれはカウントするのか?
「んー」
隣でもぞもぞ動く童顔を眺める。
本気で寝入るつもりなのか長まつげを伏せて小さく呼吸を繰り返している。なにも知らずに生きてきたような無垢な顔だが、こいつは数週間前に母親を亡くしているのだ。
人通りの盛んな場所に置かれたベンチで、声を出して泣きじゃくっていた澄玲を思い出す。
弱く、脆く、儚い。そんなように、涙を流し、誰かに縋る。なにが悲しくて、なにが切なくて、なにが悔しかったのか。
私はほんの少しだけ、この小さな女の心情が気になっていた。
「・・・・・・映画でも見るか」
「えっ?」
私の声に反応して、澄玲がガバッと起き上がる。
「すみれ、恋ロワみたい! クラスの子みんな見たって言ってた!」
「じゃあ一緒に見ればよかったじゃん」
「う・・・・・・」
図星だったようで澄玲は一瞬たじろぐも、鼻をふんと鳴らしてない胸を張る。
「ちゃ、ちゃんと友達だっているんだから。修学旅行の時一緒の部屋になってくれて、お、おしゃべりだってしたんだから」
「いや聞いてないし。しかもそれ友達か?」
「友達じゃないの・・・・・・?」
澄玲が不安そうな上目遣いでこちらを覗き込む。
まぁ、私もその辺りは無頓着だし人にもの申せるほど幅を利かせているわけではない。最悪自分に返ってくる可能性だってあった。
友達の定義についてはとりあえず置いておいて、先週録画しておいた映画を再生する。
映画の内容は好きになった恋人が実は昔助けた子猫だったというものだ。ファンタジーなのかSFなのか、なんとも判断しがたい内容に首を傾げていると、『あの時と、それから、今まで。ありがとう』と吐き捨てて恋人が姿を消した。走り回って探すも見つからず、最後に主人公の足下を野良猫が横切ったところでエンディングを迎える。見た後の印象としてはそんなような映画だった。
隣を見ると澄玲は鼻をぐずぐずと鳴らしながら涙を流していた。
対して私の涙腺は、蓋でもされているのか、そもそも貯蔵がないのか。水分の気配すら感じない。
「うぅ・・・・・・ブルームぅ・・・・・・」
ブルームというのは猫の名前、だった気がする。途中寝かけたので鮮明には覚えていない。
「ふむ」
感動的な映画でも泣けないということは、私は本当に涙を流せないのかもしれない
・・・・・・冷めてるの次は枯れてるときたか。
いやまだ分からない。そもそ大人とはそうそうに泣かないものなのかもしれない。澄玲のような涙腺ゆるゆるの泣き虫と比較すること自体間違っていたのだ。
ただ縁がなかったたけで、私だって感動的な場面に出くわせば、きっと泣けるはずだ。
「他のも見てみるか」
「恋ロワー!」
「友達」
「うぐぐ」
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