第2話 一人増えた部屋

 疲れきった足でなんとか階段を登り、自分の部屋へと辿り着く。


 酒とたばこの臭いが染みついた服をハンガーにかけて、靴下を洗濯かごに投げた。


「そうですか。分かりました。ありがとう、ございます・・・・・・」


 大きな落胆を合図に電話を切った。


 二人暮らしなんて認めていない! なんて啖呵を切ってくれれば楽だったのに、大家さんは事情を話すと快活に澄玲を住ませることを許してくれた。それどころか心配までされてしまって、私も心にもないお礼を言わざるを得なかった。


「入れば」


 開いたままの入り口を見て、重く呟く。


 勝手にのそのそとあがりこんでくれるものなら諦めもつくのだが、当の本人は靴を履いたまま玄関に立っているだけだ。どうして私から招き入れなければならないのか。拒んだはずなのに、どうにも矛盾している。


「・・・・・・・・・・・・」


 目が合うと、その小さな肩を震わせた。


 彼女の名前は桃山澄玲。肩まで伸ばした黒い髪に艶はなく、右耳の横でピンと跳ねた毛がどうにもアンバランスで彼女の不安定さを表していた。


 小さな背丈は頼りなく、歩き方もぎこちなければ口数も少ない。というかほぼ喋らない。まさか寝てるのでは? けど目は開いている。ただ、開いているだけだ。その琥珀色の瞳は何かを見ているわけではなさそうだった。


 第一印象、終わり。


 これ以外、私は澄玲のことを何も知らない。


 澄玲は靴を脱ぐと、屈んで靴の向きを揃え始めた。一度、二度、三度。何度も何度も揃え直して、満足したように立ち上がるもさほど整頓されているようには見えなかった。不器用か。


「とりあえず荷物はそこにおいて。トイレはそこ。喉渇いたら台所にコップがあるからそれ使って」


 澄玲は部屋には入らず、入り口の前で立ちすくんでいた。


 さすがに私は二度も招き入れることはせず放っておいた。拾ってきた猫がいきなりこたつの中に潜り込むことはない。警戒心、のようなものがあるのかもしれないし、寄り添ってあげるほど私もお人好しじゃない。


 澄玲の足はしばらくしてから震えだし、身体がゆらゆら揺れ始めた。顔にも疲れが見え、俯いたままゆっくりと部屋に入ってきたのでほっとする。自分が連れてきたのが実は幽霊なのではないかと心配だったのだ。


 ん、と指を差すとその場所を目指してとぼとぼ歩く。その足取りは雛鳥のようにぎこちない。


 澄玲は背中からリュックを下ろして、葬式の時と同じように、足を抱えてちょこんと座る。膝に顎を乗せて、その表情は前髪に隠れてよく見えない。


 ピンク色のリュックは高校生にしては幼すぎるな、と一瞥する。チャックに付いた温泉まんじゅうのキーホルダーも、問うこと自体が面倒になるくらいには意味不明だった。


「風呂、先に入るから」 


湯船が充分温かくなったことを確認し、浴室からリビングに向けて言うも返事は返ってこない。


 ・・・・・・なんなんだ。


 幽霊ではないが、幽霊と変わらない。直接的な被害はないくせに、気まずい雰囲気だけを作るのは、誰もが邪険にする理由なのだなと今になって理解する。


 温かいお湯をかぶって、汚れを落としてしまうとそれは排水溝に流れて消えていく。湯船に浸かると、今日のことを忘れられた。


 物事に固執しない、薄っぺらい人間であることがここにきて役に立つ。人並みの悩みしか持たない私もきっと、幽霊のようなものなのだろう。怨念で形成された身体でないだけ、百倍マシだ。


 タオルで髪を乾かしながら部屋に戻ると、澄玲の存在を思い出して顔をしかめる。いつもならしばらく寝転ぶのに、自分以外の存在に気を遣って先に下着を身につけた。


 すでに面倒くさいという感情が胸をうずまく。さっさと出て行ってくれないかな・・・・・・。


 そもそもいつまで預からなければならないのだろう。肝心なことを聞き忘れた。一週間だったらまぁ我慢できるけど、一ヶ月ともなれば私のほうが先に折れそうだ。


「風呂、入って」


 少し尖った言い方になってしまったかもしれない。・・・・・・家でまで言葉選びはしたくないなと開き直ることにする。


 私の言葉を聞き入れてから十秒ほどして、澄玲は顔をあげる。いちいち反応が遅い。脳みそから伝わるのは電気信号ではなく、ドロドロとしたなにかなのかだろうか。


「ちょっとちょっと着替えはあんの?」

「・・・・・・・・・・・・」 


 手ぶらで立ち上がったものだから聞いてみると、澄玲は無言でふるふると首を振った。


「はぁ、じゃあそのリュックの中身は・・・・・・まぁいいか」


 疑問形で始まる会話はどうせ繋がらないなと途中で切り上げた。


「私の服貸すから、とりあえずはそれ着て過ごしな」

「・・・・・・・・・・・・」


 こくりと頷く。・・・・・・頷いたんだと思う。


 それからタオルを受け取ると、澄玲は逃げるように部屋を飛び出した。いきなり機敏に動くな。


 ・・・・・・変な子だなぁ。


 年頃の女の子が親を亡くしたら、それ相応に悲しむだろうに。澄玲の顔には影という影が見えない。変か、よほど強いかのどちらかだ。心臓に毛が生えていたとしても、うちにカミソリは置いていない。


 まいったまいったと独り言を溢しながら広くなった部屋を使っていると、風呂場の扉が開く音がした。


 シャンプーがどれか分からなかったとかだろうか。とりあえず立ち上がって様子を見に行こうとするが、リビングの戸を開けたところで澄玲と出くわして「うわっ!」と声をあげる。怖いわ。


「上がるのはやくね?」

「・・・・・・・・・・・・」

「いいけど」


 一時間以上入る人間だっているのだ。風呂の入り方なんて十人十色だろう。その色が鮮やかかどうかというだけで、多種多様なのだ。


 タオルで水気を取っただけの髪がボサボサと揺れる。枯れ木のようだ。


 私の貸した服も見事にサイズがあっていない。紐を締めていないのか、歩く度にズボンがずり落ちそうになっている。


 そうして澄玲は部屋の隅へと腰を下ろした。定位置なのだろうか。


「あぁ、ドライヤーのコンセント抜いたわ。使うならもっかい挿して」


 しーん。


 放置するか。


 これ以上世話を焼いていられない。コミュニケーションも取れないのなら尚更だ。一人でずっと騒ぐ問題児も嫌だが、これはこれで苛立ちを覚える。


 私が寄り添ってやってもこれなら、きっとこの関係は良好なものには進まない。そう考えるとそっぽを向くのも苦ではなかった。


 私は私でさっさと歯を磨いて明日の準備をする。目覚ましをセットして、布団に潜った。


 ふと澄玲を見ると、いまだに膝を抱え込んでじっとしている。さすがにそのままでは私が困る。神経質なのだ。睡眠はできるだけ良質なものにしたい。


「ほら」


 押し入れから布団を放り投げる。


「悪いけど枕はないんだわ、今夜は我慢して」


 すると澄玲は自分のリュックをくるくる巻き始めた。


 ははぁ、中身は空ですか。


 どうやら枕代わりにするつもりらしいが、頭を乗せると潰れて床と水平になった。


 寝づらそうだが、それがいいのだろう。びちゃびちゃと半乾きの髪が気になったが、多少のスルースキルは持っていないとこの先辛いだろうから見なかったことにした。思いやりをなくせばいいだけの話だから、難しいことではない。


「明日仕事だから、もう寝るよ」 


 電気を消して、目を瞑る。


 色々あった日だなぁとぐるぐる。微睡みモードの脳で記憶のパズルゲームを堪能する。


 命を見送って、命を預かる。なんだか大層なことをしている気がした。


 澄玲を見ると、やたらごろごろ転がっていた。床が硬いのか。それとも寒いのか。悪いけど、それが人様の家に泊まるということなのだから我慢してもらう他ない。


 これから、どうなるんだろうなぁ・・・・・・。


 とりあえず、今まで通りの生活は送れないんだろうなぁとため息をつく。ため息が、寝息のようなものに変わりはじめるとお腹が一定間隔で膨らんで凹んでを繰り替えす。


 だいぶ部屋も静かになる。これからのことは、これから考えるしかない。


 寝よう。


 身体の力を抜いて、柔らかい布団に体重を預ける。・・・・・・私は家主だ。それに明日は仕事。ふかふか布団を占領する権利はあるはずだ。


 誰が死のうが、誰が生きようが、喜びも悲しみも、私には関係ない。


 癒やす力も受け止める器もない私は、なるべく早く、澄玲がマトモな大人に引き取って貰えることを祈るばかりだ。


 それくらいしか、私にできることなどないのだから。

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