サッカ台

あべせい

サッカ台


「はい、もしもし……どちらにお掛けですか?……」

 しばらく沈黙が続く。

 受話器を持つその家の主、赤戸青二(せきとせいじ)は、掛かってきた電話に対しては、自分の名前を言わない。いつもの癖だ。ところが、電話の相手も、「コクセキ」と名乗ったきり、だれと話したいのか、相手方の名前を言わない。

 声の主は男性だ。「コクセキ」は社名なのか、個人の名前なのか。

 青二は、相手が1分近くたっても、無言のまま答えないため、静かに受話器を降ろした。

「あなた、どこから?」

 青二の妻希子(きこ)が、廊下にいる青二に寝室から尋ねる。

「わからない。何も言わないから、いま切ったところだ」

 青二は、電話の相手が「コクセキ」と名乗ったことを、わざと妻には教えないでいる。それは電話の相手が、私立探偵ではないかと疑っているからだ。「コクセキ」は探偵社の名前なのだろう。

 青二の浮気を調査している探偵がいる……。そんな入れ知恵をした同僚がいたからだ。しかし、亭主に聞かれては困る大事な電話なら、妻のスマホにかけてくるはずだ。メールをしてもいい。だから、青二の思い過ごしだろうが、彼は用心深い。

「そォ、だったら、間違い電話でしょうね」

 2人は結婚して、もうすぐ8年になる。こどもは、小学1年の娘がひとり。結婚するときからの約束で、2人は共働きをしている。

 青二は、出版社勤務。出版社といっても、辞書や医学書を出している会社なので、勤務時間は9時―5時と比較的きっちりしている。妻の希子は、都内で3ヵ所のイベントホールを管理する会社の社員だ。青二の会社も創業記念パーティの催しで、妻が勤務する会館を利用したことがある。

 夕食と入浴はすでに終え、娘は隣の部屋に寝かしつけた。あとは、自分たちが寝るだけだが、希子はベッドの横のドレッサーで顔の手入れをしている。

 青二はパジャマに着替え、ベッドに横になり、雑誌を読もうとしていた。そこにかかってきた電話だ。

 受話器は寝室を出たすぐの廊下にある。電話の内容は、よほど小さな声で話さない限り聞き取れる。しかし、互いにスマホを持っているから、固定電話にかかるのは、勧誘の電話くらいだ。

「あなた、明日はどうするの?」

 希子が顔に化粧水を振りながら尋ねる。明日は土曜だ。もう予定は組んである。桃味とドライブだ。邪魔はさせない。

「前に言ったろう。茶谷とゴルフだ」

「じゃ、帰って来るのね」

 希子はドレッサーの鏡のなかから、夫の顔を見ながら話す。青二はウソが目付きに出る。だから、青二は雑誌で顔を隠している。

「当たり前だ。夕食は外ですましてくるが、午前さまにはならないよ」

「そォ。前から気になっているンだけれど……」

 こういうときの希子には、注意が必要だ。時々、ワナを仕掛けてくる。

 青二は、ことさらリラックスしている風を装う。

「なに?」

「最近、茶谷さんって、あなたの話によく出てくるけれど、同じシマなの?」

 青二の会社では、各部のことをシマと呼んでいる。同じシマとは、青二が属している国辞部、すなわち国語辞典部を意味する。

「ことし入って来た新人だ。この前、夕飯を食う機会があって。そうしたら、妙にウマが合ったンだ」

「女の子って、わけじゃないでしょうね」

「なッ、なにを言うンだ。男だよ」

 青二は慌てた。

「下の名前は?」

「エーッ、確か、茶谷モモ……エモンだったかな」

「モモエモンさん? ヘンな名前……」

 妙で当たり前だ。いま思いついたのだから。字面も考えておかないと、「桃右衛門」にでもするか。

「それは失礼だろッ」

 青二は、第一関門を突破したと思い、胸を撫で下ろす。

「あなたのアドレス帳に、『CM』とあるのは、その茶谷モモエモンさんのこと?」

「エッ!」

 青二は「アドレス帳」と言われて、頭をフル回転させる。固定電話の電話台の引き出しにアドレス帳があるが、CMなんて名前の書き込みはない。残るアドレス張は、青二の部屋だが、知られて困るようなものは書いていないはずだ。そうかッ! 青二はようやく思い至った。

「おまえ、何か勘違いしているンじゃないか。CMなンて知らない」

「そォ、だったらいいわ。お休みなさい」

 青二は妻がカマを掛けてきたのだと悟った。そして、うまくかわすことができた。明日は桃味と熱海の温泉だ。日帰りだが、存分に楽しむゾ。

 希子はベッドに入ると、横になって青二に背中を向けた。希子のいつもの寝姿だ。結婚以来、希子は夫のほうを向いて寝たことがない。

 ベッドはシングルだが、2つのベッドは、上に照明スタンドが乗っているナイトテーブルで隔てられている。その間、60センチほど。新婚当初は、この隔たりを煩わしく思ったが、いまはありがたい。青二はそんなことを思いながら、雑誌のページを繰った。

「あなた……」

 希子が青二とは反対側の壁のほうを向いたまま言った。

「エッ?」

「わたしが明日どうするか、聞かなくていいの?」

 そりゃそうだ。ウッカリしていた。しかし、青二は軽くいなす。

「いつもの、通りだろ?」

「いつもの通り、って?」

「だから、家にいて、テレビを見て、こどもの相手をして、掃除をしたり、洗濯をしたり……」

 青二はそこまで言ってから、妻が気の毒になった。夫は外で浮気をしているのに、妻は育児と家事労働に追われる。いつからこんなことになったのだろう。

 3年前。青二は初めて希子に隠れて、若い女性とデートした。いまの桃味は2人目だ。

「明日は、わたしも出かけるわよ」

「エッ!?」

 妻のいきなりの申し出に、青二は面食らった。いままでになかったことだからだ。

「聞いていないゾ」

「言ったわよ」

 それなら、いい加減に聞いていたのか。

「どこへだ?」

「湯河原……」

 熱海に近い。

「何しに行くンだ。ゴルフじゃないだろうな」

 希子はゴルフをしない。

「まさかッ。大学時代の友人が湯河原で銅婚式をするというので、そのお祝いに行くの」

「銅婚式、って?」

 青二は聞いたことがない。金婚式なら知っているが……。

「結婚7年の結婚記念式よ」

「へーェ、おれたちはやらなかったよな」

「あなたが無関心だから。わたしは知っていたわよ」

「娘はどうするンだ?」

「母が来てくれるわ」

「お義母さんか」

 義母は車で5分ほどのところでひとり暮らしをしている。青二には苦手なひとだ。気が強くて、口うるさいだけだの女性だと思っている。

「母に頼み事でもあるンじゃないの」

「あるわけがない。じゃ、お休み」

 青二はスタンドの明かりを消し、雑誌を閉じた。希子の話が面倒な方向に行きそうに感じたからだ。話を遮られた希子の反撃は怖いが、もういい。

 青二は目を閉じたまま、再び、こんな夫婦になった原因を考えた。

 最初の女性は、同じ職場とはいえ、総務課勤務だった。青二の国辞課は4階、総務は2階。本来はそんなに顔を合わす機会はないはずだが、昼食に入った洋食屋で出会い、急速に接近しあった。

 名前は亜衣。5つ年下で、入社2年目だった。

 と、突然、闇の中から、

「あなた、明日のゴルフ場はどこ?」

「エッ」

「あなた、今夜は『エッ』が多いわね。そんなに驚くことかしら?」

「いつも聞かないことを聞くからだ」

「あなたの行くゴルフ場って、打ちっぱなししか知らないもの」

「打ちっぱなしは、近所だろう。いつも行くコースは……」

 青二は都内のゴルフ場を思い浮かべた。希子はゴルフ場を知らない。どこを教えても同じだ。しかし、万一ということがある。都内はまずい。

「小田原だ」

「小田原? あなた、いつもそんなに遠い所に行っていたの? ウソでしょ」

 小田原は課長の黒石(くろいし)に誘われてゴルフをしたことがあるが、一度きりだ。

「遠くない。小田原は高速に乗れば、都内から2時間弱だ」

「そォ……運転、気をつけてね……」

「あァ……」

 それきり、希子の声はしなくなった。希子の最後の声は、気のせいか、弱々しかった。青二は、いつも以上に罪悪感に襲われた。


 亜衣との関係は半年続いた。初めての浮気は、青二にとって刺激が強過ぎた。

 希子は呑気というのか、夫の帰宅が遅くなっても、全く気にとめない。夕食の有無だけを忘れずに知らせれば、帰宅が何時になろうと、責めることはない。

 夫にとって、こんなに有り難い妻はいない。希子は、仕事帰りに、学童保育に預けている娘を迎えに行き、スーパーで夕食の買い物をする。夕食は休日を除き、買って来た惣菜や冷凍品に少し手を加える簡単なものだが、希子はこんな日々を繰り返している。とりわけ、娘の送り迎えは、真夏の酷暑の日も、極寒の雪の降る日もある。娘が小学校にあがるまでの保育園の送り迎えは、もっとたいへんだったはずだ。

 青二は夫として申し訳ないと思う反面、結婚は望んでしたことではないという、ずるい気持ちがどこかにある。

 希子が病気にでもなれば、この家はたちまちエンスト状態に陥る。しかし、幸い、希子は丈夫なのか、これまで寝込んだことがない。青二はそこにつけこみ、勝手放題をしているといえる。

 亜衣は、無邪気な女だった。父親が中古車販売会社を経営していて羽振りがよく、亜衣はおっとり育った。青二は当初、中古車を安く買う目的で、亜衣に接近したが、試乗の際、亜衣と一緒に遠出して、彼女の肉体の魔力に負け、抱いてしまった。

 亜衣は一時の気まぐれだったのだろうが、青二は夢中になり、その後もしつこく誘った。結局それが亜衣の機嫌を損ね、亜衣は会社をやめ、青二に別れを告げた。

 だから、青二は、桃味に対しては慎重だった。桃味は、青二の職場と同じビルの地下にある喫茶店のウエイトレスだ。年齢は、青二より2つ下の32才。

 シマの会議で、桃味の店にコーヒーの出前を頼んだのがきっかけだった。

 青二が桃味の店に出かけ、一緒にコーヒーの入ったポットと人数分のカップを持ってエレベータに乗ったとき、桃味が話しかけてきた。

「一度もお店に来られませんね」

「エッ……」

 最初は、彼女が何を言っているのか、わからなかった。つきあい出してからわかったのだが、桃味は通勤電車で青二とよく一緒になっていたのだという。当然、職場まで歩く2人のルートは同じ。桃味はそんなことから、青二の勤務先を知った。なのに、青二は地下の喫茶店に来たことがなかった。

 青二は、以前、桃味の店に入ったことがあるが、半年前桃味が店に勤めだしてからは一度も利用していなかった。青二が行かなくなった理由は、コーヒーがまずくなったからだ。

 会議でコーヒーの出前をとると課長が言ったとき、青二は反対した。しかし、課長は執拗だった。

「もう注文してある。だから、もらってくればいいだけだッ」

 4月の異動で大阪支社から栄転してきた課長の黒石は、青二と反りが合わない。

「課長さんから、デートに誘われて困っているンです。なんとかしてください」

 桃味は、エレベータの中で、初めて話をする青二に、そんなことを言った。

 青二はどう答えたのか、よく覚えていないが、黒石の恥部を掴んだと思った。桃味は愛くるしい目をしていて、男好きのするぽっちゃりタイプの女性だ。

「赤戸さん、わたし……」

「エッ」

 青二は、桃味が彼の名前を知っていることに再び驚かされた。名札やIDカードの類いは付けていない。

「今月でやめるつもりなンです……だから、一度お店に来てください」

「待って。ぼくはキミのことを……」

「わたし、桃味って、いいます。赤戸さんのことは、希子からよく聞いています」

「キミ、いや桃味さん、ぼくの女房をご存知なンですか?」

 桃味は希子と大学が同じで、同じサークルにいたという。2人の結婚式にも出席したというのだ。桃味は離婚した直後で、間に合わせに喫茶店のバイトを始め、通勤途中に青二を見かけた。その頃、桃味は黒石にしつこく言い寄られ、ほとほと困っていた。

「ぼくでよければ、協力するよ」

 青二は事情を知って、にわかに桃味に関心を寄せた。もう、黒石なンか、相手にするなッ。

 その後、青二が桃味と関係をもつまで、10日とかからなかった。

 桃味は希子をよく知っている。希子の欠点も含めて。桃味は先輩に悪いと言っていたが、2度目に関係したとき、桃味は希子にサークルでいじめられた過去の苦い思い出を打ち明けた。

 サークルは、人気落語家の噺を聴く会で、寄席やホールで催される落語会を巡るほか、好きな落語家を囲んで身近に交流するものだった。

 希子は2つ目だった独身の若手噺家を贔屓にしていた。翌月に彼の真打ち昇進が決まることがわかり、サークル仲間で彼の真打ち昇進を祝うため、彼の自宅に押しかけた。

 そこは老朽化した賃貸マンションの一室で、間取りは2DK。5階建ての5階だったが、エレベータがなかった。

 希子と桃味らサークル仲間の女性ばかり5人は、スーパーで買い込んだ食料と飲み物を手分けして5階まで運び上げた。勿論、噺家の彼も手伝ったが、彼は階段で桃味と2人きりになる機会をうかがっていたらしく、人目がなくなるといきなりキスを求めてきた。ところが、上から階段を降りてきた希子が、そのようすを目撃してしまった。そして、桃味のほうから誘ったのだと勘違いした。

 その噺家は、元々女性にだらしない男として、噺家の間でも知られていた。しかし、希子は嫉妬して、噺家を囲んで食事会が始まると、わざと桃味に用事をいいつけ、1階と5階の間を何度も往復させた。

 結局、そのことがもとで、桃味はサークルをやめた。希子はその後で、自分が贔屓にしていた噺家がとんだ食わせ者だと知った。しかし、後輩に意地悪をした事実は消すことができず、自らの不明を恥じるしかなかった。

 青二は桃味から、その話を聞いたとき、希子に怒りを覚えた。結婚する前の妻の過去には頓着しないと決めていたが、桃味への欲情がそれを打ち消した。希子は過去の償いをさせられても仕方ない。青二は、そんなとんでもない理屈で浮気を正当化していた。


 翌日は好天に恵まれた。

 青二は車で自宅を出ると、20分弱で桃味のマンションに到着した。桃味は喫茶店をやめ、大手スーパーの事務職に就いていた。

 青二は助手席に桃味を乗せると、熱海に向け、車を走らせた。しかし、車が多い。車の流れはよくない。

 小田原を通り過ぎたとき、車のトランクに入れてあるゴルフバッグが頭をよぎった。

 希子には小田原にゴルフに行くと言ってある。実際に小田原でもゴルフをしたことがある。赴任早々の黒石に無理やりつきあわされてのことだ。同じシマのゴルフ好きの同僚は全員参加していた。しかし、青二は自分中心でないと不機嫌になる黒石に嫌気がさし、その後は妻の体調がよくないと言って断り続けている。

 道路標識に「湯河原」の文字が見え始めた。

「青二さん。わたし、言い忘れていたことがある……」

 なんだ? 青二は渋滞している道路にイライラが募り、返事をする気になれない。

「この前、黒石さんに見つかったわ」

「エッ、課長にかッ」

 青二は、にわかに緊張した。あの野郎、まだ桃味に執着しているのかッ。

「わたし、ふだんは事務所で仕事をしているンだけれど、その日は売場でお客さんとトラブルがあって、呼びつけられたの。それが治まって5階の事務所に戻ろうとしたとき、だれかに見つめられている気がして振り返ったら……黒石さんがサッカ台からわたしのほうを見ていたの」

 買った品物をレジ袋などに詰めるために設けられた台を、スーパーではサッカ台と呼んでいる。

「あの男の住まいは、キミのスーパーの近くだったのか……」

「それは、わからないけれど……」

「とにかく、よくないな。早く転勤でもしたほうがいい」

 月曜日にでも黒石の自宅住所を調べよう。しかし、通りすがりに寄ったスーパーだったとしても、桃味の勤務先を知られた以上、このままにはしておけない。

「それだけじゃないの……」

「エッ、まだあるのか?」

 青二は前の車が急に止まったのに合わせて、ブレーキをつい強く踏んだ。車が前後に揺れて停止する。

「黒石さんは、わたしのほうを見ながら、『ここだ、ここだ』と言うように、サッカ台を人差し指で指差して、それからニヤニヤしながらレジ袋を下げて出て行ったの。だから、わたし、気になってすぐに、彼が使っていたサッカ台に行ってみた。そうしたら……」

「そうしたら? どうなンだ」

「サッカ台のテーブルに、ボールペンで走り書きがしてあった。落書きみたいに……」

「何が書いてあった?」

「よく聞いて。でも、彼が書いたのかどうか、わからないわよ」

 桃味はそう断ってから、

「知らぬは亭主ばかりなり、って……」

「知らぬは亭主ばかりなり?……」

 なんのことだ。青二は見当もつかない。ほかの客が書いたものかも知れない。

「わたし、落書きは放置できないから、すぐに消したわ。ボールペンだったから、手間はかかったけれど……」

「そうか……」

 ようやく、前の車が動き出し、青二はアクセルを静かに踏んだ。

 知らぬは亭主ばかりなり……。もし、黒石が書いたものなら、亭主とは?……桃味が別れた元夫のことか……。

 そのときだった。

「アッ!」

 助手席の桃味が小さく声をあげた。

 道路が左にカーブしていて、そのとき青二は、渋滞の列の前方に気を取られていた。

「いま、すれ違った車……」

「エッ……」 

 対向車線の車はスムーズに流れている。青二はすれ違って去っていく車を車内ミラーで捉えた。

 黒いベンツだ。当然左ハンドルで、鏡の中ではドライバーは右側にいる。青二の目は、それよりも、ナンバープレートに注がれている。

「ウソだろう。キュウ、ロク、イチ、ヨンだ……」

 黒石がいつか言っていたことがある。新車を買うとき、黒のベンツで、車のナンバーにも注文をつけた、と。黒石と読める「9614」にした、と。

 青二は押し黙った。桃味も何か考えるように無言になった。数分がたった。青二には、ベンツのドライバーが黒石だという確信がある。やつに、桃味と一緒にいるところを見られてしまった。それが最もまずい。黒石はゴルフに行く途中なのか。それにしては、東京から小田原に行くのなら、方角は反対だ。ベンツは、熱海から東京方面に向かっている。

 一方、桃味は別のことにとらわれていた。

 さらに数分後。

「モモ……」

「あの……」

 2人は沈黙を破って、同時に声を発した。

「いいよ、キミから」

 桃味の目尻が吊りあがっている。極度に緊張している証拠だ。

「ベンツの助手席に乗っていたのは……」

「助手席?」

 車内ミラーで助手席にだれかいるのはわかったが……。青二はそのことに関心がいかなかった。桃味との密会を見られたことばかりを考えていた。

「あれは、希子よ。間違いないわ。慌ててスカーフで顔を隠したけれど……」

「希子、って……おれの女房だゾッ」

 そう言うのがやっとだった。青二は膝がガクガクと震えるほどの衝撃を受けた。そんなことはありえない。希子は貞淑な妻だ。不貞をはたらく女じゃないッ。まして、黒石のような、ゲス野郎と関係するなンてッ。バカを言うな! 青二は、そうどなりつけたいのをかろうじて抑えた。

「ヨシッ、確かめてやる!」

 青二は片側一車線の道路、しかも大渋滞のなか、Uターンを決意した。

 後方から猛烈なクラクションが一斉に鳴り響く。何度も何度もハンドルを切り返し、対向車線からのクラクションにもめげず、青二は数分かけて車を対向車線に乗り入れると、猛スピードでベンツを追った。

 青二の頭の中では、希子が黒石に抱かれている姿が渦巻いている。2人が恍惚の表情でキスをしているさまも……。

 そのとき、青二は桃味の気持ちに思い至らなかった。桃味が何を感じ、何を思っているのかを。

 青二がベンツを追って車を走らせている道路は、湯河原から小田原方面に向かっている。湯河原は希子が銅婚式のお祝いに行くと言っていた所だ。小田原には黒石の行きつけのゴルフ場がある。ベンツはどこに向かっているのか……。

 前を行く軽乗用車がノロノロと走っている。まるでわざと嫌がらせをするようにだ。青二はスピードが出したくても出せない。生憎、道路は追い越し禁止区間だ。青二は前照灯でパッシングを繰り返すが、前の車は気がつかないのか、無視しているのか、相変わらずノロノロ運転している。

「ヨシッ!」

 青二はクラクションを大きく鳴らしながら、前の軽に追い越しをかけた。対向車線が大渋滞にもかかわらず、軽を道路脇に追いやり、渋滞する対抗車線との間をすり抜けようという考えだ。

「青二さん、なにするつもりッ!」

 青二は答えない。

「あなた、こんなことをしていたら、あの黒石と同じよ。あの男は、変名を使ってわたしにいたずら電話をしてくるの。黒石を音読みして、『コクセキ』って、社名のような名前で……」

「エッ、『コクセキ』ってか……」

 青二は思い出した。「コクセキ」と名乗った昨夜の間違い電話だ。そうか。あれは、黒石が、希子にきょうのドライブ承知を伝える合図の電話だったのだ。青二の怒りが倍化した。

 青二は車をセンターラインに乗せ、対抗車線の車と接触しそうになる。

 この気違いじみた車の動きは、対向車線の車列に恐怖を与えたようで、数珠つなぎの車は渋滞のなか、次々と左の道路脇に寄っていく。

 青二はクラクションを鳴らし続けながら、前の軽自動車に追い越しをかけた。

「もう、降ろして、わたし、帰るッ!」

 桃味は、そう訴えながら、ハンカチで顔を覆い、じっと耐えている。

 ようやく青二の車が通りぬけられるスペースが生まれ、青二は勢いよくそこに入り込むと、前の軽を追い越した。

「これで……アッ」

 青二の目が対向車線の30メートルほど先に、黒石の黒いベンツのフロントを見つけたのと、後方から白バイの警報音が鳴り響いたのが同時だった。

 そのときベンツの車内では。

「どうしてまた湯河原のほうに戻るの? 小田原のホテルでしょ」

「そうじゃない。赤戸の隣にいた女が本当に桃味だったか、確かめたいンだ。ハンカチで顔を隠していたからな……」

「男って、どうして、他人の女がそんなに気になるのかしら……」


 一方、青二の車は、白バイに前方をふさがれ、停止を余儀なくされた。

 サングラスとヘルメットで顔を隠した警官が、サイドスタンドを出して白バイを立ててから、すたすたとやってくる。

 桃味は、その細身でカッコいい白バイ警官を見て、合点したように言った。

「サッカ台に落書きしたのは、やはり黒石よ。そして、何も知らないバカ亭主は、あなたのことッ!」

                           (了)

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サッカ台 あべせい @abesei

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