第2話
次の日は土曜日で午前授業のみだった。
諒は授業が終わるや否や生徒会の引き継ぎがあるとかですぐに教室を出てしまった。
元々寡黙で友達の少ない瑛介は、諒が居なくなったことで一人で帰ることになる。
お腹が空いたことと、丁度先月、大学見学に行くようにと学校側から配られた食堂無料券がブレザーのポケットに入ったことを思い出したのが同時だった。
大抵の生徒が食堂無料券だけを使って見学もしないまま終了しているので、果たしてそれを学校側が認知しているのかは謎である。
諒が言うには
「生徒の進学をフォローする学園ですよ、って周りにアピール出来るだろ」
とのことだった。
瑛介のようにお腹を空かせて来たらしく、大学の敷地内にはちらほら高校生の姿も見える。食堂に着くとかなり混み合っているようだった。
「まじか……」
長蛇の列を見てげんなりした瑛介は、空腹による苛立ちを抑え込むために黙々と高等部校舎へと戻ることにした。
「瑛介、上手ねえ。指がお母さんに似て長いからかしら」
夢で見た美代子は、幼い瑛介にピアノを教えていた。仏壇で見るのとは違う、柔らかい笑みを綻ばせた顔。美代子は整った顔をしていたが写真を好まず、自然な笑みをカメラに見せたことが無かった。
結局ピアノも他に習っていたそろばんも美代子が死んでからすぐに辞めてしまったが、美代子と一緒にいたくて習い事をしていたことが露骨になってしまったことを今は何となく気恥ずかしく思う。
脳裏に浮かんだメロディーを記憶の紐と共に手繰り寄せて口ずさむ。あの曲は何だったろうか。
「僕も母さんみたいに難しい曲弾けるかな」
「瑛介は何が弾きたいの?」
「母さんが好きなやつ。カンパネラ」
「難しいのを選ぶのねえ」
そうだ、カンパネラ。
頭の中で思い出していたメロディーが耳から聞こえるメロディーと同調する。
ぱっと顔を上げると、瑛介は見慣れない音楽室の前にいた。高等部へ戻るはずが、未だ大学校舎にいたらしい。
誰かがここでカンパネラを弾いている。
「綾瀬さん、ピアニストになればいいのにねぇ」
音楽室の前に立っている瑛介の後ろを女子大生が通り縋った。
「何で生物学の教授なんだろ」
「でもあたし綾瀬さんの講義好きだな。フツーの教授とはなんか違くない?」
「えー? イケメンだからじゃないの? 綾瀬さん以外爺ばっかじゃん、うち」
キャンパスのピアニストはどうやら生物学の教授のようだ。
改めて瑛介は音楽室の中を覗く。
綾瀬と呼ばれていた男が、部屋の一番奥に置かれた大きなグランドピアノの前に座って演奏している。
瑛介が体まで部屋に入ると、綾瀬はこちらを見た。
「こんにちは」
カンパネラが止まる。
「……こんにちは」
綾瀬は女子大生の噂通り、目鼻立ちのくっきりした端正な顔立ちをしていた。口元のホクロが白い肌のせいかやけに目立つ。
男でも男にドキドキすることがあるんだ、と脳の片隅で思う。
「君、ピアノ好きなの?」
綾瀬が微笑みながら立ち上がると、その髪は音楽室の照明を受けて鮮やかな濡れ羽色を跳ね返した。
髪も黒いが、着ている服も、ズボンまで黒い。
「昔、ちょっと弾いてたくらいです。ブルグミュラーとか」
「ああ、ブルグミュラーか。『スティリアの女』、俺好きだなあ」
立ったまま綾瀬は鍵盤を軽く弾く。
懐かしいメロディーに瑛介はまた美代子を思い出した。
「母がピアノを教えてくれたんですけど、その母がカンパネラ好きで。それが久しぶりに聞こえてきたんでここに来ちゃいました」
「お母さんはもうカンパネラ弾かないの?」
「弾かない、て言うか……」
「弾けないのか。悪いこと聞いたね」
あっさりと返した綾瀬に瑛介は驚きの表情を浮かべる。
「君は表情に乏しいけど、お母さんの話になった時に影が入ったからさ」
理由を聞く前に綾瀬はそう答えてみせる。
あんまりいい気分しないな、と思った矢先に、瑛介は諒が話していたことをふと思い出した。
「綾瀬さん、生物学の教授なんですよね?」
柔和な笑みを崩さないまま綾瀬が頷く。
「死んだ人って、生き返りますか」
「……生き返らないね。事例は無い」
「生き返るんですね」
「どうしてそう思う?」
瑛介はにやりと口だけ曲げてみせた。
「さっきまで返事をすぐ返してきてたのに、今の質問の返答には少し間があったからです」
やり返してやった!
僅かばかりの爽快感を味わってから、それより、と頭を巡らせる。
死んだ人が生き返る方法は、実在しているということだ。
「やられたなあ。じゃあさ、生き返る方法を教えてあげるから昼食に付き合ってよ。俺まだ食べてないんだ」
「そんな簡単に教えちゃっていいんですか」
返事を聞くより先に綾瀬はさっさとベージュのトレンチコートを羽織り、グランドピアノの蓋を閉じてしまった。
忘れかけていた空腹が再び主張を始めたこももあって、瑛介は綾瀬に連れられるまま大学校舎を後にした。
三月初旬の空気はまだひんやりとしている。
ぷっくりとした桜の蕾だけが春を知らせてくれているが、大衆が春を感じるのはもう少し先のように思う。
「そういえば名前聞いてなかったよね」
薄手のコートで寒くないのだろうかと瑛介が横目に見ていた矢先、綾瀬は前を向いたままそう聞いた。瑛介も初めは前を向いて歩いていたのだが、周囲の人達ーー主に女性の視線が綾瀬を刺してくるのを見ているのが恥ずかしかった為、綾瀬を横目に見たり足元を見たりと凌いでいたのである。
周りの視線が自分の髪にも向けられているとは梅雨知らず。
「俺は綾瀬杏司。大学の生物学の教授として働かせて貰ってる」
周りの視線にまるで関心が無いのか綾瀬は堂々と肩で風を切る。
瑛介こそ他人に関心は少ないが、諒に声をかけられて一人ぼっちでは無くなった頃から何となく完全な無関心では居られなくなってしまった。
表情が乏しいのだって、周りにどういう顔をすればいいのか分からないだけなのだ。
「俺は高校二年の児玉瑛介です」
相変わらず下を見たまま答える。
「じゃあ今年で三年生かあ。大学はそのまま上に行くの?」
「多分そうです。」
綾瀬が「ここでいい?」と聞いた時、既にその手は店の戸を開けていたので瑛介は適当に頷いた。
と、次の瞬間つんざくような野太い悲鳴が木製の低い天井を空回りした。
「やだちょっと杏ちゃんじゃないのよおおおお!!!!!」
「うるさっ」
瑛介が深い瞬きから目を開けると、綾瀬は店の床に叩きつけられて仰向けに寝転んでいた。
「あ、綾瀬さん……大丈夫ですか」
「うん、慣れてるから。俺さぁ、多分乗用車くらいなら轢かれても死なないと思うんだよね」
ケロッとした様子で綾瀬が立ち上がるのを見届けると、改めて眼前に立つ大柄な男に視線を向ける。
瑛介のウエストくらいはありそうな太い腕はきめ細やかなレースをあしらったパステルピンクの布を纏っている。対照的なワインレッドの口紅が余計に目立つ。
パンッと張った大胸筋のせいで初めは分からなかったが、どうやらワンピースを着ているようだ。スキンヘッドのプロレスラーが。
「この人、蝶子さん」
「チョウコサン」
瑛介がカタコトなオウム返しをすると蝶子と呼ばれた男はマツエクが施された細い目でじろりと瑛介を見る。
蛇睨みってまさにこんな感じだろうな、と瑛介は一歩後退した。
「かあいい顔してるじゃない。杏ちゃんには負けるけど、あたし好きよ。かあいい」
「はあ」
助けを求めるように綾瀬を見ると既に奥のカウンター席でメニューを眺めているではないか。
「俺フルーツチーズタルトにしようかな」
「駄目よ! 杏ちゃんまたそんなご飯ばかり食べて。ミックスフライ定食ご飯大盛りにしなさい」
「やだよ、俺はもう胃が弱いんだから」
「駄目駄目、作るのはあたしなんだからあたしに決定権があります。それで? そこの坊やは何にするの?」
色々あり過ぎて空腹を忘れていたが、改めて落ち着いて席に着くとフワッとカウンターから香る美味しそうな匂いに食欲をそそられる。
写真がほとんど無いモノクロのメニューを手に取ると
「ミックスフライ定食ね」
蝶子はカウンターの奥の部屋へと引っ込んでしまった。
「……俺、まだ何も言ってなかったですよね」
「そういう場所だから気にしないで」
まさか皆同じものを食べているのか、と辺りを見回してからようやく瑛介は店内には自分たち以外誰もいないことを知った。
「ここ本当は夜からなんだよ」
キョロキョロとしている瑛介に綾瀬が柔らかくそう言う。
木造のこじんまりとした店だからか、奥の雛壇の上に置かれたグランドピアノがその存在を強く主張しているように感じられる。
他の窓からは真っ直ぐな陽光が差していたが、ピアノの後ろの窓はステンドグラスが施されていた。
何だかピアノをよく見る日だ、とその黒塗りのしっかりとした体躯をぼんやり見つめていると、奥から出てきた蝶子がテーブルに水の入ったグラスを置いた。
「ちゃんと食べなさいよ。杏ちゃん、あたしがほっといたら何も食べないんだから」
蝶子の小脇には三毛猫の抱き枕が収められていた。
「ほら、にゃん丸のお洗濯終わったわよ」
「やっぱり蝶子さんの洗濯技術には適わないね」
カウンター越しに抱き枕を受け取ると、綾瀬は愛おしそうにそれを撫でた。
「ミックスフライ定食はきついけどこの子受け取りに来たかったんだよ」
完全に私事に付き合わされてしまった、と瑛介は諦めたようにこっそりとため息をつく。
「この人は誰にゃ?」
聞き覚えの無い声に瑛介は再び店内をぐるりと見回した。
店の中には瑛介たち以外誰もいない。
「児玉瑛介くんだよ。俺の学校の高等部の子なんだって」
ほら、と綾瀬が抱き枕の猫の顔がついている側を瑛介に向けてみせる。
「初めましてにゃん」
表情こそ動かないが、確かにこの抱き枕は喋っていた。茶色い左耳はピンと立っているのに、黒い右耳は何故か折れている。
「は、初めまして……」
「初めて見たらびっくりするわよねえ、猫が喋るなんて」
キャベツを千切りにしながら蝶子が頷く。
「猫っていうか……、これ、抱きま」
もふっ、とした触り心地の良い生地が瑛介の腕を殴りつけた。殴りつけたと言っても、当然綿が詰まったぬいぐるみの腕なので痛みは全く無いのだが。
「にゃん丸は猫にゃん」
「……はい」
猫さながら威嚇のポーズを取っているにゃん丸にもうかけられる言葉は思いつかなかった。
「それでなんで猫が喋るんですか」
ジュワァ、と衣が揚がる音が聞こえ始めたので、瑛介は少し声を上げる。
鼻をくすぐる油の匂いがたまらなく空腹を刺激する。ミックスフライ定食で正解だったかもしれない、と頭の片隅で思ってしまった。
「魔法使いの猫は喋るものにゃん。常識にゃ」
ふんふんとカウンター越しに油の匂いを嗅ぎながらにゃん丸が答える。表情は動かないが体は自由に動くようで、五センチ程の茶色い尻尾はフライの匂いに元気よく応えて振り回されていた。
「魔法使い?」
「はい、出来たわよ。今日は特別に特大エビフライ五本にしておいたから」
豪勢なフライがカウンターに置かれる。
「俺胃が弱いんだって……」と呟く綾瀬が背中をドシドシと叩かれているのを横目に、そういえば値段を聞いてなかったと瑛介は慌てて財布を探そうとリュックに手を入れる。
大振りの牡蠣フライにエビフライ、まだピチピチと油の音を立てたロースカツは中がレアに仕上げられており、財布がすぐに出てこなかったのもあって瑛介は箸を取ってしまった。
紫キャベツの鮮やかな色がフライに囲まれてより一層際立つ。
「いただきます」
蝶子は満足そうににっこりと頷いて見せた。
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