第10話 うすはりのガラス

「ゴホッ、ゴホッ。こ、ここのパートもう一回合わせてみよう」

「なあ……奏音。まだ続けるつもりなん?」

 口元を手で覆いながら大きな咳払いをする奏音さんを綾野さんは戸惑いの声で咎める。

 早稀さんと私の密談から十日が経過した。正直に言うと奏音さんなら卒なくやり遂げれるだろうと思いていた。けれどそれは、勝手に私がそう思い込んでいただけだった。

 ここ数日、練習を重ねるごとに歌声の違和感は目に見えてわかるようになっていった。咳をする回数も増え声は段々掠れていった。

「あの……大丈夫なの」

「問題ないよ、続けよう」

 私の問いに掠れた声音で吐かれた言葉はかつての奏音さんではないようだった。

「なあ、奏音。ちょっと休憩せえへん?」

「どうして?まだ始めたばかりじゃないか」

 奏音さんは眉根を寄せ、押さえてはいるものの苛立っているのが見て取れる。

 でもなぁ……と綾野さんのガシガシと髪を掻きながら困惑の表情を浮かべていた。

「奏音ちゃん、失礼かもしれないけれど……コンディションはいいの?」

 二人の会話を傍観していた過田先輩は静かに告げる。

「……これくらい平気です」

「私にはそうは見えない。ここ数日を見ているとあまり喉の調子が良くないように見えるわ。調子が悪いなら休んでもいいのよ」

「でも……」

「今日の練習はここまでにしましょう。年長者としてこれ以上の練習を私は認められません。いいわね、奏音ちゃん」

 何かを言いかけるも奏音さんは無言で不承不承に頷いた。


「なんか浮かない顔をしているね」

 小スタでの片付けを終えた後、大スタのギターパートの部屋で個人練習に打ち込み下校時間となり私は奏音さんといつもの道を歩んでいた。

「いえ、そんなこと……」

「ほんとに?」

 朗らかに笑むが、彼女の中性的な声音は以前に比べて霞がかったように聞こえる。 明るく雰囲気でしゃべりかけてはくれているけれども、今日のバンド練習を中断されたのに彼女はそれを感じさせない……いや、不自然にいつも以上に私に話しかけているような気がする。

「ねえ、奏音さん」

「ん、何だい?」

「最近、朝は寒くなったり、昼は暑く感じたりで体調を崩しやすいから奏音さんは大丈夫かなって思って」

 何か思い悩んでいるのなら私に話しほしい。彼女が私の話を聞いてくれたように。

「ああ、そうだね。でも心配はいらないよ、私は昔から結構丈夫なんだ。熱がでて休んだことなんてほとんどないしね」

「あの……声の調子はどうなの?」

 私は聞かなければいけないと思った。すっと奏音さんの顔から笑顔が消えうせ気の立った目つきに変わった。

「今日はちょっと調子がでないだけさ。明日には元通りになっているよ」

「でも……ちゃんと休めてはいないのでしょ」

「……椿さんもそんなことを聞くんだね」

 ひやりとした冷たい言い方に体は強張り口ごもる私。

「みんな心配しすぎだ。私は何ともない。……歌って見せるさ」

 その後、私たちは分かれ道までお互い無言だった。


「奏音は今日の部活に参加できない」

 ギターパートの部屋に入るなり間宮先輩は私に告げた。

「それは……どうしてですか?」

「ついさっき連絡がきたんだ。体調不良で学校を休む……と言ってたけどまあ、あの様子からだと、喉じゃないか?」

 私は棒立ちのままその場に立ち尽くす。最悪の事態が起こってしまったのではと頭をよぎる。

「あのどんな様子でしたか?」

「電話だから声しかわからないけど、声が出にくいみたいだったな」

 ここ数日、喉の調子が優れなかったことがいけなかったのか、早稀さんと話していた時に皆に相談すればよかったのではと後悔だけ残った。

 コン、コンと二回戸を叩かれ背にしていた扉が開かれ過田先輩が顔を覗かせる。

「あっ椿ちゃん。ここにいらしたのね、ちょうどよかったわ」

「過田先輩、あの奏音さんが……」

「ええ、実はそのことについて話したいことがあるの」

 過田先輩に手招きされて大スタを後にした。

 連れてこられた先は一階下の部室だった。入るとそこには俯いて微動だにしない早稀さんと浮かない表情をした綾野さんが椅子に座っていた。過田先輩に促され席に座る。

「みんな揃ったわね。もう事情を知っているとは思うけれども、奏音ちゃんは今日学校に来ていません。どうやら喉に痛みがあるとのことで病院に行ってきたみたい」

「それで奏音は大丈夫やったんですか?」

 心配する眼差しで綾野さんは過田先輩を見詰めた。

「大事には至っていないから心配しないで。一応お薬を処方してもらって様子を見ることになったわ。でも……問題はそうなった原因よ」

 深刻そうな顔で私たちを見遣る。

「原因は喉を酷使しすぎたことだったらしいの。どうやらクレイドルを歌うのに無理をしすぎていたみたいなの」

「……やっぱり奏音には合っていなかったんだよ、あの歌は」

 小声ではあるがみんなに聞こえるように早稀さんが呟く。

「そこで今日みんなに集まってもらったのは、言いづらくはあるのだけれど……“クレイドル”をやめてもう一度選曲し直そうと思っているの」

 過田先輩の言葉にシンと部室内が静まり返る。静寂に耐え切れなくなり先に声を出したのは綾野さんだった。

「い、嫌ですよ……せっかくずっと練習してきたんに違う曲にするんですか!」

 戸惑いながらもはっきりとした口調で言う。今までの苦労がすべて水の泡になってしまうと考えたら彼女の意見はもっともだ。けど……。

「私もそんなことしたくないわ。けどね、奏音ちゃんの身体のことも考えたらそれが得策。最悪別の誰かに歌ってもらうって選択もあるのだけれど……私はまだ奏音ちゃんに歌ってもらいたいと思ってる」

「……私としても選曲をやり直すって意見に賛成」

 俯いていた顔を上げ早稀さんも過田先輩の意見に同調する。

「早稀まで!」

「……だって仕方がないだろ。このまま奏音に歌わせ続けるわけにはいかない。本当に喉を壊して二度と歌えなくなるかもしれない」

 綾野さんは反論することができず、強張った表情をしたまま何も言えず二人から視線を外す。

 過田先輩は私の方に体を向ける。

「椿ちゃんもいいわね?」

 たしかに過田先輩の意見は正しい。でも、私の中で引っかかるものを感じていた。

「ちょっと待ってください。奏音さんの意見も聞かず、私たちだけで決めていいものでしょうか」

「それもそうだけれど……聞いても彼女は選曲のやり直しを素直に受け入れるとは思えないわ」

「でも、本人に聞かないと分からないのでは?」

「それは……」

 このままでは奏音さんの意思が蔑ろにされてしまうと思った。私だけでも奏音さんの側についてあげたい。

「あの……私、今から奏音さんに会って、聞いてきます」

 過田先輩は驚き目を丸くさせる。家の場所は以前にだいたい奏音さんから聞いたことがあった。駅からそんなに離れていない場所だったはず。

「でも……」

「奏音さんの気持ちを無下にしないで上げてください。お願いです、行かせてください」

 しばし逡巡し、決意した表情で過田先輩は口を開く。

「わかったわ。行ってきてあげて。ちゃんと今日話した私たちの意見も伝えてね」


 間宮先輩に事情を説明し奏音さんの詳しい自宅の住所を教えてもらい私は学校を出た。いつもは奏音さんと別れる道を自宅ではなく駅の方角に足を運ぶ。

 電車で二駅先まで行き、商店街で少し寄り道をしてから、その先の住宅街を数分歩く。

 地図と照らし合わせながら進むと“寄本”と書かれた表札を見つけた。二階建ての一軒家を周りをフェンスで囲み玄関先にはヨーロッパ風の門扉がある大きな家だった。

 そして大きな庭に色とりどりの花々が咲き誇っている。ガーデニングについて造詣のない私だったが一つ一つ丁寧に手入れされているのを見て几帳面さが見て取れた。

 一度大きく深呼吸をしてベルを鳴らす。すると玄関の扉が開き一人の少女が出てきた。

「どうして……私の家に?」

 しゃがれた声の主がこちらに歩み寄ってくる。門扉を挟んで私たちは対面した。

「奏音さん、やっぱり声が……」

「申し訳なかったね、勝手に休んでしまって」

「いいえ、それはいいのよ」

「ここじゃなんだから上がってよ」

 私は彼女の自室に招かれた室内を見渡す。壁にはバンドのポスター、棚にはCDが飾られていた。机にはパソコンと録音用のマイクがいくつか並べられている。日が出ているのに窓から入ってくる光は少なく部屋の中は薄暗い。

 ベッドに腰掛ける奏音さんから椅子を差し出され座る。

「あの、これよかったら」

 私はここに来るまでの商店街で購入したプリンを手渡す。食べれるかどうか心配だったのだけれど、どうなのだろう。

「わざわざ買ってきてくれたの?ありがとう、誰かがお見舞いに来てくれるなんて初めてだ」

「プリンは食べれる?」

「これくらいなら食べれるよ。お昼もヨーグルトなら食べれたからね。ふふ、それにプリンは大好物だ」

 喜んで受けとってくれたことにとりあえず安堵する。

 気になる声を除けば今のところ普段通りに接してくれている。

「……あの、声は出してもいいの?」

「ちょっとちくりと痛みはあるけれど張らなければ大丈夫だよ」

 喉をさすりながら囁くように話す。

「今日は病院に行くために学校を休んだけど、明日からは普通に登校するよ。……部活は休まないといけないけれどね……」

「治るのには時間が掛かるの?」

「心配いらない。こんなのすぐ治るよ」

 ……きっとその言葉は嘘だ。今の病状だけの判断だけでなくその声音から強がっているように聞こえた。

「ところで、今日……バンド練習した?」

 いいえ、とだけ私は答える。何かを察したような声音。私は耐え切れず奏音さんと視線を逸らす。

 それを見た刹那、奏音さんの表情から笑みが消えてゆく。その瞳は被告人に尋問する検察官のような目つきに変わる。

「椿さん、今日来たのはお見舞いだけじゃないよね?みんなと今日バンドのことについて話したんだね?」

 奏音さんの問いかけに恐々と頷く。

「……選曲をもう一度し直す方向で話が進んでるわ」

 私の言葉を聞いた途端、今まで見たことのない険しい顔つきになった。

「そんな……馬鹿げてる!今までの練習が水の泡になるんだぞ!それがわかって……」

 言いかける途中で大きく咳き込む。立ち上がろうとする私を近寄るなと言わんばかりに手を私に向け静止させる。

「ねえ椿さん。原因は……私がこんなのだから?」

 彼女は悲愴な面持ちで言葉を吐く。

「私も……みんなも納得してるわけじゃない。けど、奏音さんの体調を考えたら……」

「私はどうなってもいいから……お願いだ、私にクレイドルを歌わせてほしいんだ……」

 頭を抱えて悲痛に押しつぶされるような震え声だった。

「別の曲じゃダメなの?」

「ダメだ。もう私にはもうクレイドルを歌える時間がないんだ……」

 時間がない?その言葉の意味は分からいけれど奏音さんにとっては重要なことかもしれない。

 彼女が顔を上げる。その表情は何を思っているのか読み取れなった。怒っているのか、悲しんでいるのか、色々な感情が入り交じっているよう顔つきだった。

――誰にも話したことのない、話せないことなんだ。

 今の奏音さんの姿は鏡に映し出された自分のようだった。

 知られてしまえばすべてが終わってしまう。切り裂かれた傷跡を悟られないように生きてきたのかもしれない。

 彼女の感情が私にも理解できる……と言っては烏滸がましいことかもしれないけれども……放っておけないという気持ちが滲み出てくる。

 あの時、私の話を聞いてくれた奏音さんも同じ気持ちだったのだろうか……。

 もしそうなら、私も……奏音さんに寄り添いたい。

「ねえ、奏音さん。」

 奏音さんはこちらに視線を向ける。色を失った瞳が私を見詰める。

「以前公園で私の過去話を聞いてくれたことがあったわよね。あの時に奏音さんに話を聞いてもらって私は救われたの。今まで心にあった重りが取れてすごく楽になった。それはきっと奏音さんが私の気持ちを共有してくれたおかげ」

 虚ろな表情の彼女は黙ったまま私の話に耳を傾けている。

「奏音さんにどんな理由があるかわからない。辛いこと……なんだと思う。でも、だから奏音さんの思い悩んでいることを話してほしい。」

 ここに来てからどれくらいの時間がたったのか、すでに外は夜になろうとしており部屋は薄暗く奏音さんの顔は陰影がつきより深い悲しみに暮れているようだった。

 苦渋の決断を迫られているように奏音さんは唇を噛み締める。深く息を吸う。肩は小刻みに揺れていた。

「……ごめん、椿さん。誰にもこんな話したくないないんだ」

 奏音さんは私を遠ざけるようにその言葉を突き付けた。

「今日はもう帰ってくれないか。もう最悪クレイドルは別の誰かに歌ってもらってもいいから。みんなあんなに練習したのにそれが無駄になってしまうのは申し訳ないよ……」

 でも、と私が言いかけるも奏音さんは“私は!”とぐちゃぐちゃに潰れた怒号が響き渡る。息を整え今度は諭すように話しかける。

「私はね、椿さんみたいに話せる勇気はないんだよ……だから、帰ってくれ……」

 優しい彼女しか知らなかった。

 初めて向けられた嫌悪感。

 記憶の片隅に押しやっていた“あの時”のことが溢れ出てくる。身体の隅々から零れだす悲しみの感情が押し寄せる。

――ああ、まだ私は囚われているんだ……。

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