第9話 隠された想い

 慣れない空間にいる時に感じる周囲の環境からの圧迫感。どうしてこれほどまでに耐え難いものだろうと私は心の内でごちる。

「えー、それでは、皆さまお飲み物はお手元にございますでしょうか!」

 その空間を仕切る彼女はコーラの入ったコップを手に持ち高らかに宴の開幕を宣言する。

「いや、みんなカウンターで貰ったじゃないか。それと他のお客さんだっているんだから静かに」

「そんなんわかってるよ。それでは乾杯!」

 奏音さんに咎められ口を尖らす綾野さん。そして全員でコップを軽く合わせた。

 何故このようなことになってしまったのだろうと今日のバンド練習を想い返す。

 それは綾野さんの“みんなでご飯行きたい!”という言葉から始まった。

 家以外の場所で、しかも家族以外の人間と外食という経験がない私には抵抗があって最初は断ろうとしたが私以外のみんながその意見に同調し、断るにも断れない状況となってしまった。

 いつもは奏音さんと別れてしまう十字路を駅の方角に進み、駅前のファーストフード店へと向かう。

 何の躊躇いなく丁寧にカウンターで注文をする奏音さん。それに比べて私は落ち着かず視点が泳ぐ。

 ファーストフードのお店には来たことがあるけれど、いつも注文は親がしてくれていた。自分で注文したことなんて一度もない。私の知る限りの知識ではとりあえずポテトとハンバーガーを頼めば大丈夫だと思うのだけれど……。

「椿さんも同じのでいい?」

「はっ、はい!」

 不自然に大きな声を出し周りの人から変な目で見られ火が出るような思いをし、そして……。

――今に至る……と。

 目の前に置かれたポテトを一つ食べてみる。慣れない場に緊張しているのか味が良くわからない。

 向かいの席に座る奏音さんと過田先輩は和やかな雰囲気で和気あいあいと二人で談笑している。

 こちら側の席は私が窓際でその隣に綾野さん、早稀さんが座っている。何やら二人は言い合っているようだった。最初は会話に参加できたものの途中で二人の会話が白熱してしまい間に入ることができなかった。

 何故こうも私は上手くできないのだろう……。

 窓際に座っている私は二人の会話に入り込むことができず独りになってしまい無心でポテトを口に運ぶ。

「椿さんもそうやったん?」

「えっ、何が……かしら?」

 私の隣に座る綾野さんに急に話を振られて驚きながらポテトを口に頬張る直前で手を止めた。

「むっ、もしかして聞いてへんかったん?」

 綾野さんは顰めっ面で私の顔を覗き込む。

「……椿ちゃんはおなかが空いてたんだよ」

 別に空腹を感じてはいなかったがここは早稀さんの話に乗っかったほうが得策だと思い何度も頷く。綾野さんは、ほんまに?と半信半疑に問いかける。

「そんなことよりも、椿さんって奏音の演奏見てジャズ研に入部したんやって?」

「ええ、そうだけれど……誰から聞いたの?」

「間宮先輩からやで。演奏見て即決入部決めたって言ってた。奏音に一目ぼれしたんやて?」

 一目ぼれという単語に身体がピクリと跳ねる。きっとそういう意味ではないのだと思うけれど変に意識してしまった。

「そ、そうかもね。すごく素敵な演奏で私もあんな舞台に立ちたいと思ったわ」

 変に思われないためになるべく平静を装いながら答えた。

「椿さんもそう思う?実はな、うちもそう思って入部してん!」

「……私も見てたよ。体育館での演奏、よかった」

 綾野さんと早稀さんも入学初日に同じ場所に居たのだと初めて知った。

「同じ演奏聴いて今こうして同じバンドを組んだってことがなんか運命の巡り合わせというか、感慨深いもんがあるな!」

「……この部活に入った人はだいたいあの演奏見てたらしいから、運命ってほどでも……」

「ちょっと!せっかくいい話にしようと思ってたんに!」

 話に水を差す早稀さんを綾野さんは膨れ顔をする。

「なんだ?また痴話げんかか?」

「ふふ、仲がいいのね」

 向かいの奏音さんと過田先輩が私たちの会話に割って入る。

「……そんなんじゃありませんよ。ここ三人が奏音の演奏を見てたって話をしてただけです」

「ああ、入学式にした演奏か。懐かしいなぁ……って思ったけどまだ2か月ぐらい前のことだったね」

 と苦笑しながらも楽し気に語る。その話を聞きながら私はジュースに口をつけたとき、綾野さんが意地の悪い笑みを浮かべた。

「ほんでな、奏音の演奏見て椿さんが惚れてもたらしいで!」

 綾野さんのとんでもない言葉にジュースを吹き出しそうになった。

「ちょ、ちょっと綾野さん!何を言ってるの!」

 紙ナプキンで口元を拭きながら上擦った調子の声で異議を唱える。

「えっ?でもさっき“そうかもね”って言ったやん」

「言ったかもしれないけれど……」

「やっぱりそうだったのね椿さん!」

「やっぱり、ってなんですか……」

 何故か目をキラキラとさせ私を見詰める過田先輩に首を振る。

「ちなみに、奏音はどんなタイプが好みなんやぁ?」

「うーん、タイプって言われてもよくわからないなぁ」

 そう奏音さんは苦笑を浮かべる。

「無自覚っていうシチュエーションも、悪くないわね」

 ……一体さっきから過田先輩は何を言っているのだろう。

 鏡を見なくても顔が羞恥で赤くなっているのがわかる。私は俯いたままもう奏音さんの方を見ることなんて出来なかった。どんな表情をしているのだろう……。困らせていないだろうか。

「……でも、そう想ってくれているのなら私も嬉しいよ、椿さん」

「ええ……」

 思っていたよりも普通の返事に一安心する。

「そっか、みんなあの場に居たんだ。もったいないことしたな。歌うことで精一杯だったから気づかなかったよ」

「その時点ではまだ出会ってないのだから気づくもないと思うけれどね」

「はは、それもそうですね」

 過田先輩の指摘に奏音さんが笑む。

 その二人のやり取りを見て相槌をいれていた早稀さん。ジュースのストローから口が離れる。

「……奏音は普段からあれくらいの音程の曲を歌うの?」

「うーん、そうだな。あれくらいの中低音の音なら地声に近いし歌いやすかったな」

「……ならクレイドルを歌うのはしんどくないの?」

 以前早稀さんと二人で話したことを思い出す。

 無理をして歌っているのではないか、みんながいる前ではっきりとさせたいのだろうか。

 奏音さんが何と答えるか固唾を飲んで見守る。

「ちょっと……だけね。でも練習したらきっと歌えるようになるよ」

「うちボーカルのこと詳しくないねんけど、練習しだいで地声とは違う音程ってだせるもんなん?」

「無理をしたら喉を壊すって聞いたことあるけど、どうなの?」

 綾野さんと過田先輩も疑問を投げかける。

「たしかに極端な発声をしたら喉を潰すかもしれないけど……私は大丈夫ですよ、無理なんかしていません」

 ならいいのだけれど、と小声で過田先輩は眉を顰める。

「みんな心配しすぎだ。歌いきってみせるよ。あの曲はどうしても歌いたかった曲だったんだから」

 初めて聞いた事実に私は首を捻る。

――そんなこと奏音さん言ってたかしら……。

 私はそのことに興味を惹かれ詳しく知りたくなった。

「クレイドルは思い入れのある曲なの?」

「うん、小学校高学年の時にこの曲を知ったんだけど、その時からずっと歌いたいと思ってた曲なんだ。中学生の時はいろいろあって歌えなかったからね……」

 笑みを作って見せる奏音さん。けれど、彼女の瞳は何かを察してほしい、けど触れないでほしい。そんな悲しい瞳だった気がした。


――よかった、やっぱりここにあったのね。

 お昼休み。私は大スタに来ていた。

 というのも自宅に帰ってから部屋で練習しようとしたときにメトロノームがなくなっていることに気付いた。

 いつもはギターケースに入れているので道端に落とすはずはない。学校に忘れてきたのだろうと当たりをつけていた。出し入れする場所を考えればおのずと答えは一つに絞られていた。

 大スタを後にし、教室に戻ろうとしたときに向かい側の小スタから歌声が聴こえる。その声には聴きなじみがあった。

 奏音さんの歌声だ。私は防音扉のドアアイを覗くと奏音さんがこちらを背にして熱唱している。

――どうしよう、声をかけたいけど邪魔するのも悪いし……。

 特に奏音さんに特別用事があるわけではない。憧れの人に話かけたいという気持ちはあるのだけれど、きっかけがないのに話しかけることなんて私には出来なかった。

 諦めて帰ろうと扉から離れようとした時、背を向けていた奏音さんがこちらに振り返り扉の方に歩み寄ってくる。

 私は驚き扉から離れた瞬間に戸は開かれ奏音さんが少し驚いた顔をして私の存在に気付く。

「あれ、椿さん。どうしたのこんなところで?」

「ええと、特に大した用事はなくて……失くしたものを探しに来ただけよ」

「探し物は見つかった?」

 私はええ、と首肯し手に持っていたメトロノームを見せる。

「そう、それはよかったね」

 すると奏音さんは壁にもたれ掛りカバンからビニール袋を取り出す。その袋の中からはサンドイッチを一切れ取り出す。

「まだ、お昼をとっていなかったの?」

「うん、使える時間は全部歌う時間に使いたいんだ」

 ハムとチーズを挟んだサンドイッチを頬張る。咀嚼し口に含んだそれが喉を通り過ぎ脈動した時、奏音さんが一瞬顔をしかめる。しかし何事もなかったようにふるまいあっという間に一切れを食べ終える。

――やっぱり喉を傷めているのでは……。

 ここまで練習に打ち込める奏音さんを私は素敵だと思う。けれど、喉を傷めてまで練習するのは良いことではないように思える。出来れば無理をしないでほしい。

 二切れ目のサンドイッチを取り出す。今度はツナと卵が挟んである。

「お昼休みも練習しているの?」

「うん。まあ、一回生バンドは部内だけでの演奏だから大きな学校行事の演奏よりかは重要度は低いだろうけど……。まあ、私はクレイドルが歌えるからっていうのもあるかな」

 先日のことを思い出す。奏音さんにとっては特別な曲らしい。今までどうやら歌える機会に恵まれなかったと話していた。

「やっと歌える機会がやってきたんだ。私も全力を出したい。そのためにはもっと練習しないとね」

 二切れ目を食べ終えると彼女はカバンのファスナーを閉める。私が奏音さんの顔を凝視していたからか彼女は怪訝な顔をした。

「ん?どうしたの?」

「いえ……それだけで足りるのかなって?」

「ああ、それ早稀にも言われたよ。食べ盛りなんだからもっと食べたほうがいいって。でもお昼休みもあまり時間がないし」

 食べ過ぎると声も出しづらいし、とはにかんだように奏音さんは笑みを零す。

 発声する前は腹八分目までにした方がいいとテレビで聞いたことがあった。それでもサンドイッチ二切れでは少なすぎるような気がする。まだ午後の授業も残っているというのに。

「放課後になったらお腹空かない?」

「ちょっとね。でも、私にとってそれくらいが歌いやすいから」

 そう言って彼女は教室に戻っていった。

 食べる量が少ないのは喉が痛いからではないかと思った。でも私はそれを問いただすことはできずその後ろ姿を見つめることしかできなかった。

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