第2話 早苗①ある女の死
「ママいっちゃダメ!」
「はなして! 何なのよいったい!」
普段は大人しくて聞き分けのいいミクが、今日に限って異常なまでに興奮し、死に物狂いで早苗の外出を阻止しようとする。狂った動物のように脚にまとわりついてくるミクの力は、5歳とは思えないほど強く、伝線まみれになったストッキングがついに破れてしまった。我慢の限界に達した早苗は手を振り上げて叫んだ。
「いい加減にして!」
ミクは反射的に体を縮めたが、つかんだ早苗の脚を放すつもりはないようだった。あきらかに常軌を逸したミクの様子に狼狽えながら、壁の時計で時間を確認する。
早苗は耳障りな声で喚き続けるミクに辟易しながら、どうにかして落ち着かせようと思案した。
「わかったよミク。ママおでかけするのやめるから放して、ね?」
ミクの頭をやさしくなでてやる。いつもはこうして言い聞かせれば大人しく部屋に戻ってくれる。そして、外から鍵さえかけてしまえば、当分のあいだ相手にしなくてすむ。お願いだから邪魔しないで。いつも通りのいい子に戻って。
頭をなでる早苗の目を、ミクは黙って見つめていた。子供とは思えない、知性を帯びた鋭い眼差しだった。
——嫌な目つき。あんたのその目、ほんとあの男にそっくり。
「どうしたの? 放してよ。ママずっとお家にいるって言ってるじゃない」
額に汗を浮かべたミクは、怯えたような目で言った。
「どうしてうそつくの? いっちゃダメなのに……おそとにいったら……ママが——」
ミクの言葉のなにが逆鱗に触れたのか、早苗自身にもわからなかった。気づいたときにはミクの首根っこをつかんで、力ずくで壁に叩きつけていた。ミクは背中を強打した衝撃で呼吸がとまり、何が起こったのかわからないまま、ゴミのように自分の部屋に投げ込まれた。早苗は急いでドアを閉め、外から鍵をかけた。その鍵はミクを閉じ込めるために後から取り付けたものだった。
真っ暗な部屋の中で状況を悟ったミクは、狂ったように泣き叫んだ。
「ママ! いや! いかないで! ダメ! いかないで!」
これほど激しいミクの声を聞くのは初めてだった。
「うるさい! 静かにしろ!」
早苗も負けじと叫んだ。破れたストッキングを脱ぎ捨てバッグを手に取ると、最後にもう一度だけミクを閉じ込めた部屋のドアを一瞥し、無言のまま出て行った。ドアは激しく打ち鳴らされ、誰もいなくなったリビングにミクの悲痛な叫びがこだまする。頬の内側を噛んでしまい、声帯が裂けて口から血が流れた。熱い涙がとめどなく流れ、気管が詰まって嘔吐する。
それでもミクは叫び続けた。魂を焼かれるような恐怖のイメージを振り払い、全身全霊をかけて、心の底から早苗を呼んだ。そうすることで、これから起こる恐ろしい出来事を回避できると信じて……。
どれだけ時間が過ぎたのだろう。ついに精魂尽き果てたミクはその場に倒れた。もう一度だけ「ママ」と言おうとしたが、裂けた喉から弱々しく空気が漏れただけだった。血と涙と吐瀉物の上で力なく横たわるミク。
このとき、ミクの目に重なって視えていた二つの世界線が、ひとつに統合された。それが早苗の死を意味することを、聡明なミクは悟った。決して覆ることのない、確定してしまった未来。
幼い少女は、最後に願った。
ママはもう、二度とこの部屋にもどってこない。
わたしもこのまま、ママのところにいかせて。
ごめんね、ママ……まもってあげれなくて、ごめん……。
ママ……。
ミクはそのまま気を失った。
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