VOICE―死者の願い―

銀次

第1話 龍二①奇跡の力

 少女は出会ったばかりの、おそらく自分と同い年くらいの少年と一緒に電車を乗り継ぎ、見知らぬ土地の、見知らぬ公園にたどり着いた。その公園は小高い丘の頂上に位置し、ゆるやかな坂道を登り切った先にあった。悪路には慣れていたが、知らない道をこんなに長く歩くのは、少女にとって久しぶりのことだった。


「いっぱい歩かせちゃってごめん」


 少女の額に浮かんだ汗をみて、少年が申し訳なさそうにつぶやく。


「ううん、大丈夫。それより――」


 目を閉じて深呼吸すると、少女は微笑んだ。


「コスモスのいい匂いがする」


 目の前にはコスモス畑が広がっていて、視界一面に咲き乱れる花々が柔らかな風になびいていた。二人は近くのベンチに座り、ほっと一息つく。初夏のあたたかな陽射しが心地よかった。少女は素性のわからない少年と一緒にいることなどすっかり忘れ、風がはこんでくる爽やかな香りを楽しんでいる。


「いまね、太陽に照らされてコスモスの花びらがキラキラ輝いてる。すごく綺麗だ。もうすぐ君も、この景色を見ることができるから」


 少女は少年の言葉に困ったように微笑みながら、


「君ってほんと、不思議な人だね」




✢✢✢✢✢




 ――1時間前――


 盲学校の帰りに通行人とぶつかって白杖を落としてしまった少女は、たまたまそれを拾った少年に声をかけられた。


「あの、あなたは全盲ですか?」


 唐突な問いに面食らっている少女の手に、少年は慣れた手つきで白杖を握らせた。躊躇ちゅうちょない所作から察するに、身近に障碍を持った人がいるのかもしれない。


「そうです」少女は戸惑いながら答えた。


「いつから見えないんですか?」


「二歳までは見えてたみたいです。まったく記憶にないんだけど」


「病気かなにかで?」


「はい」


「じゃあ、この世界のほとんどの物を見たことないんだ?」


 見ず知らずの人にここまで直球な質問をされるのは初めてだったが、不思議と嫌な気持ちにならなかった。


「そうですね。そうなっちゃいます」


「見てみたいと思いませんか? 世界がどんな姿をしてるのか」


「見てみたいって」


 思わず笑いがこみ上げる。


「随分デリケートなことをサラッと訊くんですね」


「ああ、ごめん。だって俺――」


 少年が次の言葉を発した瞬間、まるで世界が止まったような静寂に包まれた。微塵の悪意も感じさせない澄んだ声は、ともすれば悪質な冗談と受け取られかねない台詞を、ごく自然に、淀むことなく言い放った。



 理解が追いつかずポカンとしている少女。


「いきなりこんなこと言われたら驚くのも当然だけど、信じてください。俺はあなたの目を治せるんです。なので、今から行く所について来てください」


――もしかして、これが所謂いわゆるナンパというやつだろうか。それにしても、視覚障碍者に向かって「目を治せる」なんて、そんな誘い文句、いくらなんでもある?


「治すって、どうやって治すんですか?」


 興味本位で訊いてみた。


「言葉じゃ説明できないけど、超能力みたいな感じ? 信じるか、信じないかは、あなた次第」


「そのセリフ、どこかで聞いたことがある」


「自分でも胡散臭いのはわかってるんだけどね。ほかになんて言っていいかわかんなくて」


「ナンパじゃないですよね?」


「なっ、ナンパ!? まさか! 俺そういうチャラい人間じゃありませんから! ナンパなんてしたことないし! 違います、違います」


 少女は笑いながらふと思った。人生にはときどきこういう人が現れる。盲学校の安達先生もそのうちの一人だ。わたしの障碍に少しの同情も示さず、健常者とまるっきり同じ扱いをしてくれる。やさしい人達の気遣いには感謝してるけど、こうやって無邪気に接してくれる人との会話には不思議な安心感があった。


 もともと好奇心の強い少女は、少年の奇妙な提案に乗ることにした。


「本当に治せるんですか?」


「うん。治せます」


「じゃあ、よろしくお願いします」


 丁寧にお辞儀すると、少年も改まってお辞儀を返しているのが伝わってきた。


「ところで、ついて来てって、どこに行くんですか?」


「ここからちょっと離れたとこにある公園です」


「公園で治療するんですか?」


「そう」


「わかりました」少女は笑いをこらえながら答えた。


「よし、行こう!」


 こうして、互いの名前すら知らない少年と少女は、手を取り合ってゆっくりと歩き出した。


 


✢✢✢✢✢




 他愛のない会話を楽しむうちに、思ったよりも時間が過ぎてしまった。初夏の日差しは夕焼けに変わり、コスモス畑をあざやかな朱色に染めている。そろそろ本題に入らなければ。少年は改めて少女に向き直り、ベンチに腰掛けた二人の影が、寄り添い合って形を変えた。


「治療をはじめる前に、守って欲しい約束があるんだ」


「うん」


「まずひとつ、俺と出会ったこと自体トップシークレットね。絶対誰にも言わないで」


「うん。わかった」


「テレビや雑誌の取材もNGだからね。SNSに投稿とか絶対駄目だよ。ネット関係も禁止。これ結構重要だから。今日の出来事はすべて国家機密扱いにして」


「よくわからないけど、了解」


「もうひとつは、君の目が治ったあとの話なんだけど――」


「うん」


「新しい人生を思う存分楽しんで欲しい」


「新しい人生を……楽しむ?」


「そう。めいっぱい楽しんで」


 少年の声は真剣だった。その真剣さが、少女に漠然とした不安を抱かせる。彼はいったい、なにをするつもりだろう……。


「わかった。でも、もし人からどうやって治ったのか訊かれたら、なんて答えればいいの?」


「アブダクションって聞いたことある?」


「アブダクション? 聞いたことない。なにそれ?」


「UFOに乗った宇宙人に誘拐されることをアブダクションって言うんだけど、どうやって治ったか訊かれたら、アブダクションされて宇宙人に治してもらいましたって答えればいい」


「その説明で信じてもらえる?」

 

「はは、冗談、冗談。もしものときは、奇跡が起きたって言えばいい」


「奇跡?」


「そう。君に奇跡が起きて、目が見えるようになる」


 少女の不安は、いつの間にか畏怖へと変わっていた。なにかをされる恐怖より、ほんとうに目が治ったらどうしようというおそれ。十七年間、聴覚だけを頼りに生きてきた少女は、見えない世界への憧れを口にしたことは一度もなかった。


 二歳のとき、まぶたにできた小さな傷から致死性のバクテリアに感染し、死の淵をさまよった。爆発的に増殖する悪魔のような細菌は、少女の両親に一刻の猶予も与えなかった。救急搬送された直後から急速に症状が悪化し、声も出せずに苦しむ娘を、ただ見守ることしかできなかった。医師たちは最善を尽くしてくれたが、少女の命運は、もはや神の手に委ねられていた。刻一刻と失われていく希望の中で、少女の両親は心の底から願った。


――わたし達の命と引き換えに、どうかこの子を助けてください。


 今にも燃え尽きそうな娘の命の灯に、自らの命を差しだすことで火をくべようとした。かつてないほどの強い願い。その願いが受け入れられたかはわからないが、結果として少女はこの世界に生き残った。そして、恐ろしい致死率を乗り越え、死に至る病を克服したのと引き換えに、その両目からは完全に光が失われてしまった。


「生きてさえいればそれでいい」と、母と父は今でも口癖のように言っている。十七年間、時に厳しく、愛情深く育ててくれた。だから、ただの一度でさえ、少女は不平を口にしなかった。泣きたくなるほど悔しいときも、笑顔を絶やさなかった。どんな不条理も、この運命も、ひたすら受け入れてきた。ほんの少しでも弱音を吐けば、命を懸けて自分を救おうとしてくれた両親に顔向けできなくなってしまうから。


「それじゃあ、はじめよう」


 少年、深川ふかがわ龍二りゅうじは、少女の肩にそっと手を置いた。


「ゆっくり目を閉じて、深呼吸。リラックスして」


 少女の肩は緊張でこわばっていたが、それは龍二も同じだった。何度経験しても、この瞬間だけは心がざわめく。今回の少女ひとは、どんな反応を見せてくれるだろう。


「俺のこと、信じてね」


 目を閉じた少女は、静かに頷いた。それを合図に、龍二は意識のフィルターを解除し、空間にひとつのイメージを構築する。次の瞬間、膨大な数の幾何学模様が少女の頭上に展開された。立体構造を成した逆平行の二重螺旋と、それらを繋ぐ無数の塩基配列。龍二にしか知覚できない少女の遺伝子情報が、蠢きながら空間に浮遊していた。四次元展開された幾何学模様は、龍二の意のままに、あらゆる方向に回転し、拡大縮小を繰り返しながら病の因子を探しだす。調べた結果、一部の領域内に複数の変異個所を発見した。その変異した遺伝子を、書き換えながら修復する。


 ゲノム編集能力。


 それが、龍二が手に入れた願いの力だった。物理的な肉体の損傷や、治療法が確立されていない難病など、龍二に治せない怪我や病気はこの世界に存在しなかった。


 願いの力によってリアルタイムに書き換えられていく遺伝子情報。そのとき、少女の閉じた瞼に一筋の光が差し込んだ。光は徐々に拡大し、光度を増していく。やがて熱を感じるほどの閃光が全体を覆いつくすと、すべての闇を打ち消した。


「これ……なに?」


 少女がなにかを掴むように震える手を伸ばした。龍二は、その手に自分の手をそっと重ねる。


「大丈夫だよ。もうすぐ終わるから」


 強烈な閃光が柔らかな暖光へと徐々に変化していく。数秒後、光はすべて収束し、あたたかな残光感だけが残った。


「そろそろかな。今度はゆっくり、目を開けてみて」


 言われるまま、少女は恐る恐る瞼を開いた。白濁していた少女の虹彩が黒い宝石のように輝いているのを見て、龍二はほっと胸をなでおろす。


「ハロー! 調子はどう?」


 頭を左右に振って顔を覗き込んだり、おどけてみせる龍二とは対照的に、少女は驚愕の表情を浮かべたまま微動だにしない。しかし、その瞳は確かに龍二を捉えていた。


「見えてるんだよね?」


 金魚のように口をパクパクさせながら、少女は無言で頷く。


「どんな感じ?」


「……」


「えっ、感想ないの?」


「……」


「もしかして、むちゃくちゃ感動してる?」


 龍二は限界まで見開かれた少女の目の前で、手をひらひら振ってみせる。


「いったん瞬きしないと、目、乾いちゃうよ?」


「見えるの……」


 今にも泣きだしそうな、小さくかすれた声だった。


「うん」


「ほんとに……見える」


 この瞬間を、少女は生涯忘れることはなかった。

 遥か彼方で燃えるように世界を照らしている紅い夕日。風に揺られ光り輝く草花たち。空、雲、大地、自然、丘から見える人々の営み。すべてが想像を遥かに超えた荘厳さをもち、神秘的な美しさを湛えながらそこにあった。


 気づくと涙があふれていた。全身が震えだすほどの深い感動の中、あらためて龍二に向き直った少女は、ようやく涙をぬぐい、微笑んだ。


「君は――」


「うん」


 長い長い沈黙のあと、少女は龍二の頬に触れた。


「想像した通り、とてもやさしい目をしてる」


 そのまましばらく、少女は嗚咽をつづけた。

 



✢✢✢✢✢




 陽が沈み、辺りは暗くなっていた。

 龍二と少女は、月明かりに照らされたコスモス畑を静かに眺めている。


「どうしてわたしを治してくれたの?」


「君を選んだ理由は、俺にもわからない。しいて言うなら、直感みたいなものかな。この人にしようって」


 そうなんだ、と少女はつぶやく。


「君は、どうしてこんなことができるの? あっ、ごめんなさい。質問ばかりで」


「謝らなくて大丈夫。みんな君と同じ質問をするから慣れてるしね。俺が病気を治せるのは――」


 突然、龍二の顔色が変わる。


「わからない。ただ、気づいたらできるようになってた感じ? ごめん、俺もう行かなきゃ」


 龍二は慌てて立ち上がり、少女に背を向ける。

 少女も立ち上がって、その背中を見つめながら、


「あの、どうしても――名前だけでも訊いちゃダメ?」


「うん。そのほうがいいんだ」


 偽名を使うくらいなら、名前なんてなくていい。


「ただ――約束を忘れないで」


「新しい人生を、思う存分楽しむ?」


「そう。この世界を、めいっぱい楽しんで」


「うん。約束する」


「じゃあね」


 足早に去ってゆく龍二の背中に、少女は深々と頭をさげた。


「ありがとう! ほんとうに、ありがとう!」


 それから少女は、龍二の姿が見えなくなるまで必死に手を振りつづけた。



✢✢✢✢✢



――汗が止まらない。頑張って走りすぎたかな……。


 心臓の鼓動が正常に戻るのにかなり時間がかかった。龍二は額の汗をぬぐいながら電柱にもたれかかる。彼女は無事に家にたどり着いただろうか。突然目が見えるようになった彼女をみて、周りの人達はどんな反応をするだろう。大騒ぎになるのは間違いないけど、彼女もきっと、口止めしたことを守ってくれる。


 龍二は目が治って、生まれて初めて世界を見たときの彼女の顔を思い返す。ものすごく驚いた顔。瞳いっぱいに涙を浮かべた顔。子供みたいに泣き崩れた顔。嬉しそうに微笑んだ顔。どれもが美しかった。あの瞬間を見るためなら、俺はどうなってもかまわない……。


 突然腹がぐぅっと鳴った。間抜けな音に思わず笑う。


――腹も減ったし、そろそろ帰ろう。


 自宅に向かって歩き出してしばらくすると、道の向こうからセーラー服を着た少女が歩いてくるのが見えた。今どき珍しい紺の上下に赤のスカーフで、ぱっと見コスプレをしてるのかと思った。


——あんなコスプレみたいな制服、この辺りの学校にあったっけ。


「えっ?」


 近づいてくる少女を見て、龍二は思わず声をあげた。普段は意識的に遮断している遺伝子情報が、少女の周囲に展開している。しかも、幾何学模様が金色に輝いている! どんどん近づいてくる少女。


 少女がついに目の前まで迫ったとき、龍二は叫んだ。


「そんな、ありえない!」


 体をビクつかせて立ち止まる少女。龍二は二つの点で言葉をなくすほど驚いていた。ひとつは、セーラー服の少女が見たこともないほど美しい顔をしていたこと。もうひとつは、知覚領域にダイレクトに干渉してきた彼女の遺伝子が、の構造を成していたことだった。


「君はいったい、何者なんだ……」

 

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