第3話

 旅館に来て一日目は疲れていたのか、すぐに眠れた。眠り過ぎるほどだった。起きて、手元の目覚まし時計を探るともう正午に近い。

 僕らは身支度をして軽食を済ませると、外に出た。雨の気配はなかったが、空は全体的に冬特有の厚い雲に覆われていた。僕はポケットから下宿でプリントしてきた紙を取り出し、広げて道取りをした。旅館前の道を町の方に少し戻り、狭い国道を西に歩いた。畑の見える景色に路上の片側に並び立つ森が圧迫感を与えていた。人の姿は全くなく、鎖で繋がれた犬の鳴き声もない。そもそも人家を見かけなかった。

 十分ほど歩いたところで、朽ちかけて文字の判別も危うい標識を見つけた僕らは道を左に曲がり、駐車場にそうあるように敷かれた砂利の上を歩き、じきに森の中へと足を踏み入れた。

 昼間なのに鳥の声も聞こえなかった。昨日あったような川もなく、心の拠り所となる太陽もなかった。

「本当に明日で終わるの?」彼女は訊いた。

 僕は、僕らが掻き鳴らす足音を聞いていた。その足音は誰にも届かないほどに惨めなものだったが、僕らの起こすできる限りのことのように思えた。僕はそんなことを考えてから言った。

「そうだよ、そのために来たんだ」

 明日。彼女の言葉を反芻する。そうだ、明日だ。明日で全てが終わる。

 僕らは出発前に決めていた。うやむやにならないように先に計画を立てていたのだ。家を出てから三日以内に全てを終わらせること。この世からの決別を図ることを。僕がそれを提案した時、彼女はすぐに頷いてくれた。「いいよ、死にたいもの」という声は今でも頭に残っている。もし首を振るようなら、僕はすぐにでも彼女とは別れるつもりでいた。僕のことを分かってくれない彼女など、いても悲しくなるだけだからだ。しかし彼女は頷いた。僕の全てを肯定してくれるように頷いた。

 それはしかし些か予定外れなことだった。意外だった。そう思ってから何が意外なのかを考え、本当のところ自分は死にたくないのではと案じた。いつも口癖のように死にたいなんて言っていたのは嘘だったのではないかと。僕は首を振る。そんなことはない、僕はすぐにでもいなくなりたい。悲しさも苛立ちも今すぐに手放してしまいたい、そのためには死ぬしかない。じゃあ何が予想を外れていたのか。もしかして僕はひとりになりたかったのか、いや、そんなはずはない。あるはずがない。

 だんだんと道は急な上りになった。材木の嵌め込まれた階段を進み、折り返しては上り、片側が壁でもう片側が崖下になった細い道を抜けた。登るごとに空気の温度は下がり、吐き出される息は濃く濁ったが、身体は汗ばんだ。言葉少なに、息をはあはあ切らしながら進んでいくと、急だった坂はその傾きをなくしだし、ようやく目的の場所に辿り着いたことを僕らに知らせた。閉塞感のあった森も、間引かれたように木々を減らし、視界の空も広がった。

 平らになったところを歩くと、もう近くには殆ど木々はなかった。代わりに果てしない空と轟々と鳴る海が目の前に現れた。

 そこは岩場のような風情で、切り立った、まさに断崖絶壁になっていた。プールに備えられた高度の高い飛び板に思えるそれに僕らが向かおうとすると、「ちょっと」と後ろから声が飛んできた。振り返ると、森がなくなる辺りに設けられた木のベンチに一人の男が座って、こちらを見ていた。

 立ち戻って、僕は「何ですか?」と訊ねた。

 彼は五十歳も過ぎたと思われる痩せ型の男で、刻まれた皺と日焼けした顔が印象的だった。漁師なのかもしれない。彼は目を細めて言った。細めても目の奥の瞳はぎらぎらとしていて、ただならぬ用心をこちらにも窺わせた。

「観光だと思うけど、危ないから気をつけないといけないよ。ただでさえ自らという人が多いのに、間違ってということがあってはいけない。そんなつもりでもないんだろう?」

 僕は彼の近くに「命を大事に!」と掲げられた看板があることに気づいた。やはりここはそういう場所なのだ。僕は笑って言った。

「大丈夫です。僕らはここが有名だから来ただけで。親切にありがとう」

 それを聞くと、彼は緊張を幾分和らげた様子で「そうかい、でも気をつけるんだよ」と言って、わきに置かれた厚い手帳を拾って、そこに目を落とした。どうやら彼はここの見張り番で、手帳はその暇潰しの道具のようだった。

 僕と彼女は再び向き直って、崖の先に行ってみることにした。地面の終わるところにも、ビルの屋上なんかとは違って、柵もロープも張られていなかった。見張りの人を置く前にまずはそういったものが必要なのではないだろうか。

 ここは目ぼしいところの少ないこの地の、希少な観光スポットの一つだ。なるほど、ここは都会では出逢うことの叶わない自然の雄大さが感じられる。しかし、それ以上にこの場所は知る人の多い自殺の名所だった。毎年五人はここで自分の人生に区切りをつけている。

 空を埋め尽くす灰色の雲の下で、波は荒れていた。

 崖の、それも突き出た部分に進むと、崖下から吹き上げる潮風が強く身体に当たった。髪が後ろになびく。来る時に温められた体温が下がるのが分かった。切り立った根元の岩に白くうねった波が激しくぶち当たっては壊れ、またそれに重なった形で次の波がぶち当たっては壊れていった。海面から五十メートルはあるだろうか。ざあざあという潮騒が途切れることなく耳に響く。

 僕は横に立つ彼女の左手に自らの右手を絡めた。指の交差する確かな感触。僕は荒れた海上を眺め、小さな声で言った。「好き?」

 彼女は手を強く握った。「うん、好き」

「ずっと一緒にいてくれる?」

「いれる間は、ちゃんといるよ」

「うん、……ありがとう」

 口から出た声は、自分のものとは思えないほどに弱々しかった。

 彼女は不思議だったかもしれない。なぜなら僕はずっと死にたがっていたのだから。けれどやはり僕はまだ怖かったのだ。聞こえは悪いが、彼女を巻き込む罪悪感よりも、なぜだか湧き起こる孤独感の方が強かった。ああ、僕は生きているだけでは救われなかったのだなという諦め混じりの強い悲しみ。その都度僕は自分に言い聞かせる。それももう終わるんだ、この感情さえも。そしたら何事にも悩まなくてよくなる。大丈夫だ、心配いらない。もうひとりでいなくて済む。

「でも……」彼女は目線を眼下の波に向けながら呟いた。

「うん?」

「でも、私は帰ってもいいよ。それでも、そうだとしても私は君を許したげるよ」

 それを聞いた瞬間、僕の中に特別強い風が吹きつけた。彼女の指からそっと手を離す。

「まあ、いいや。どうせ明日だよ」僕は踵を返して言った。心の中に向けた目を無理やり、現実に引き戻した。大丈夫、とひとり右手を握り締める。

「苦しいことはいつもゆらめき。いつの間にか始まって、形もなくて、姿もない、まるでうたかた、泡のように切ないかけら。つらいことはいつだって、ぱちんとはじけて、それで終わりね」

 僕は彼女を見た。彼女はくすっと笑って「誰かが言ってたの。現実は直視するにはつら過ぎるから、つらいことは夢みたいになるといいねって。朝目が覚めたら忘れるように一緒に消えたら心地いいねって」

 僕は笑って見せようとしたが、それは随分と卑屈なものになって僕の顔に張りついた。


 その日は夜になっても、僕は眠れなかった。

 同じ布団の中で彼女が僕を抱きしめて言った。

「本当に帰らないの?」

 僕が頷くと彼女はためいきに似た暗い吐息を落とした。

「私のことが好きじゃない?」

「好きだよ」

「それでも帰らない?」

「帰りたくないんだ。僕の戻れる場所なんてもうどこにもないんだよ。君にはあるの? あるなら帰るといいよ」

「君を置いてなんて帰れない」

「本当にそう思ってる?」

 疑わしげな視線を送った先で彼女は躊躇いもなく首肯した。「そうだよ」

 彼女は腕の力をゆるめると、ふらっと布団を抜けて月光の射し込む窓側に歩んで、広縁にある籐椅子に腰かけた。僕は鐘を力強くごおんごおんと何度も鳴らすような悲しみの音を耐えるので精一杯になっていた。無害だったはずの思いのかけらたちが、次々と仮面を脱ぐように牙を剥き始めていた。それらは心のあちこちで狂ったようにわんわん鳴きだし、そこから必死に逃げるように、僕の腕は布団の中に彼女を求め、さまよう。

 彼女は穏やかな声ではがれそうになる僕らを紡いだ。

「前に私が死にたいって言ったこと覚えてるかな」

「うん」僕は感情が溢れだしそうな喉から声を一筋搾りだした。

「その時って、私、『お前は死ぬべきだ』って声が頭の中で聞こえてくるって言ったと思うんだけどさ、――」

 彼女が黙ると一切の静けさが空間を満たした。そうすると窓下を淡々と流れる川のせせらぎが微かに聞こえた。

「あの時の呪いみたいな声って、結局自分の声なんだよね。でもそれに私は気づきたくなかったんだ。いつまでもそんなこと知りたくはなかった」

「そうだね」僕は布団の上に座った。もう心の中は刺々しいわめき声で溢れ返っていた。僕は強い口調で言う。「でも、じゃあいいじゃん。それが君なんだろ。ならそれでいいじゃないか。『死ぬべきだ』なんて声を思って、それに怯えたがってる、それこそが本当の君なんだ。君は元から死にたくなんてなかったんだ。むしろ自分が死の危険にさらされることなんて少しも考えてなかったんだ。怯えているのが好きなだけだ。違うかい? 君は初めから僕のことなんて考えてなかったんだ。僕のことなんて、少しだって考えたことなかったんだろう?」

「……そんなことないよ」

「そうに決まってるよ」

彼女はしっかりと僕の目を見て言った。「そんなことない。私は君が好きだよ。だからここまで来た。そうじゃなかったら来ないよ」

「そうじゃない。君はそんなことをしてる君が好きなだけだ、君が好きなのは僕じゃなくて君自身なんだよ」

「でもひとりが怖いんでしょう?」

 僕はたまらなくなって立ち上がった。彼女を睨むと、彼女もまた僕から目を離さなかった。彼女の瞳は月の明かりを受けて潤み、今にもそこから感情の球が零れ落ちそうになっていた。何で分かってくれないんだ、と思った。僕は彼女が憎たらしくて仕方なかった。余計に悲しくさせる彼女が僕は大嫌いだった。睨むことから一歩を踏み出せない僕に彼女は、俯き気味な翳りのある表情でぼそっと呟いた。

「……私から離れられないくせに」

 視界がなくなって、意志だけが刃物のように光った。

 畳を強く踏む音が少し遅れて耳に届く。

 目覚まし時計が足に当たる。

 障子に手を掛ける。

 そして、僕は、

 ――僕は、

 僕は、彼女の直前で、反射的に右足を前に出し、拳を振り上げていた。

 そして、勢いよくその拳を振り下ろそうとしていた。

 彼女の目はしっかりと見ていた。

 僕は動けなくなって、一瞬のうちに自分が何をしようとしたかを理解した。宙で止まった右の拳が細かく震えているのに気がついて、僕はどうしようもなくいたたまれなくなった。すぐにその手をぶらりと落とす。

 二人の間の空間は凍ってしまったようだった。どんな意志も通じない冷たさがそこにあった。目線だけがいまだに交差していた。僕はいてもたってもいられなくなって、先に目を逸らし、踵を返してそのまま外に飛び出した。どうしたらいいか分からなかった。どうしたら正しい行動が取れるのか分からなかったのだ。混乱した頭を抱えて目の慣れない暗闇を走った。

 揺らぐ視界を、物を避け、枝を踏み、とにかく前に向かって走った。何かを考えるのが恐ろしかった。揺れる視界を落ち着けたくなかった。僕は誰かになりたくなかった。力まかせに僕は走った。

 ――結局、僕はひとりなんだ。誰も分かってくれない。僕は今もひとりで、今までもひとり、それだけなんだ。当然のことで、自明のことだ。いくら物理的に彼女との距離は近づいても、心の距離はどんどん遠ざかる。彼女だって僕のことなんか知りもしないし、分かろうとすらしない。彼女は僕のことなんて全く好きじゃないんだ。彼女は僕を好きではないし、僕が彼女を好きな証拠もどこにもない。もう、何も、全くない。僕の周りには何もいない、誰もいない。最初から。いつまでも。ずっと、ずっと。ひとり。僕は、ひとりで生きて、ひとりで死ぬ。死んじゃいけない。生きなきゃ、僕は。生きなきゃ。生きなきゃ。でも、怖い。僕は怖い。怖いんだ。でも。僕は、ずっとそうだ。そうしなきゃ。そうしなきゃいけないんだ。嫌われたくない。僕は、嫌だ。嫌だ。僕は、僕は、これから、ずっと、ひとりで生きて、ひとりで生きて、嫌だ、嫌だ、怖い、ひとりで生きて、ひとりで生きて、嫌だ、でも、そうしなきゃ、生きて、生きて、僕は、生きて、僕は、嫌だ、僕は、僕は、……僕は……ひとりで……僕はずっと……僕はひとりぼっちで、……僕は、僕は、僕は、ぼくは、ぼくはぼくはぼくはぼくはぼくはぼくはぼくはぼくは、

 ずっと、

 ぼくは、

 ひとりだ。

「うあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」

 叫び声が口をついて出た。もうそうなると止まらなかった。

「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」

 感情は堰を切ったように流れ、最早制御の仕様はなかった。僕は頭を振って跪き、蹲って自らの肩を抱きしめた。足元にぼたぼた涙が落ちた。頬が熱くなっているのを感じる。何も見えない。耳には冷たい静寂と僕の声だけが混ざり合って反響を繰り返した。僕の声も僕の声じゃないみたいに聞こえた。何もかもが怖かった。何もかもが嫌だった。纏わりつく不快感を押しのけるように僕は泣いた。声が枯れ果てるまでいつまでも泣いた。


 ――――。

 ……………………。

 何分経ったか、分からなかった。

 気がついて傍の木に手をついて立ち上がると、僕は森の中にいた。知らずに山の中に入っていたようだった。辺りに明かりはなかった。ただ、高い木々の隙間から月や星の光が注いでいた。

 孤独はまだ頭に凝っていた。ただならぬ感情は吐きだし尽くされもう勢いを失っていたけれど、少し寂しくなった僕は、煙草を吸おうとポケットを弄った。そこで初めて自分が寝間着であることを知った。上下スウェットのままだった。ズボンの裾は泥で汚れ、袖にはところどころ小さな枝が刺さっていた。足も裸足のままだった。痛さは感じなかったが、へばりついた土が冷たく固まっていた。

 無いかと思ったが、折れかけた煙草が二本と潰された旅館の小ぶりなマッチ箱が都合よくポケットにあった。マッチも数本折れ、その機能を果たさなそうに見えたが、なんとか火を起こし煙草に点けることができた。僕は、煙を暗闇に吐きながら、ふらふらと歩き出した。頭の中には彼女が浮かんでは霞み、また浮かんで、これまで生きてきた僕の記憶と相まった。

 辺りに道がないことを確認し、僕は木と木の間をすり抜けて当てもなく歩いた。さっきとは違って、足の裏は地面に刺さった枝先や突き出た根を踏むごとに痛んだ。傾いた三日月が雲に隠れず照らしてくれることだけが救いだった。距離の感覚もなかった。どこまで歩いても人工的な明かりは見えず、同じような木々や茂みが並んでいるだけだった。

 しばらくして大きな木の袂で座って休憩していると、静寂の中にどこかで水の流れる音が聞こえた。僕はそろそろと立ち上がって耳を澄ませた。もしかしたら旅館裏の川に繋がっているかもしれない。僕の足は自然と音のなる方へ進んでいった。方角が分からなくなる度に、立ち止まって神経を研ぎ澄ませた。歩いて、止まって、また歩いて、そんなことを繰り返した。じきに川が見えた。夜空を映して流れていた。僕はその下流に沿って、歩く。

 歩きながら先ほどの自分の思考がいかに自分勝手だったかを思った。僕は、僕を好きといってくれる彼女を彼女が好きなだけだと思ってしまっていた。そうとしか思えなかった。だから本当は彼女は僕のことが好きなわけではないんだと。でも、それは自分本位の妄想だ。本当のところは分からない。いくら考えたって分からない。けれど、きっと僕は、僕こそ、僕を好きな彼女を彼女が好きだと思い込みたいだけだったのだ。僕は独りよがりたいだけだ。ひとりを怖がってるくせに、彼女の言う通り、誰からも離れられないんだ。怖くて何にも手放せない。それも手を伸ばしてくれる彼女みたいな人は特に。捨てられるわけがないんだ。それほどに自分は臆病だ。卑怯で、臆病で、どうしようもなく弱い。でもそんな弱さからも踏み出せないのだ。それすらも他人の所為にする。本当のところは、どうなんだろう。そんな弱い自分がどうしようもなく好きなのかもしれない。そしたら、それはどうしようもなく、どうしようもないことだ。考えたら、酷過ぎて、醜過ぎて、そんな自分が愛おしすぎてなんか笑えた。声に出して少し笑った。

 先細った川は途中で土に吸い込まれるように消え失せ、その代わりと次第に道の幅が広がってきた。それに伴って視界も広がる。木々は途中で立つことをやめていた。僕は森を抜けた。

 見覚えのある場所だった。月が、星が、満天の空に輝き、ひとりでしかない僕を照らしていた。暗く、黒くたゆたう水平線が見える。僕の前には海があった。

 それはあの終わりの場所にしようとした、海に面して切り立つ崖だった。見回すと今日来た時のようにベンチに座る見張りの人の影も見えた。自殺を止める係にもかかわらず、どうやら眠っているらしかった。影がわずかに前後に揺れていた。

 僕は音を立てないように突き出た崖の先まで歩み、遥か下、崖に打ち寄せてははじける波を眺めた。飛び降りようか、と思ってみたが、僕の中にはもうそんな強い意志はなかった。僕はいつも誰かの一押しを待っていた。

 彼女に会えた僕はきっと幸せだった。彼女は僕に似て現実に常に倦んで、抜け道をいつも探していた。僕がいつも悩みを打ち明けられるのは彼女だった。彼女しかいなかった。僕も彼女の言葉をたくさん聞いた。嬉しいことも、悲しいことも、美しいことも、見苦しいことも。僕らは限りなく不器用で、限りなく馬鹿正直だった。僕は彼女との思い出を夜空に浮かべては指でなぞった。波が打ち寄せ、崩れるたびに、記憶が蘇っては、次の記憶に打ち消されていった。どれもが大切な宝物だった。

 その場に座ると疲れがどっとでて、全身痛いほどに寒かったが、あっという間にまどろんだ。瞼が重く、視界を閉じる。

 まどろむ頭に、誰かの声が蘇る。

「楽しいことはいつもゆらめき。いつの間にか始まって、形もなくて、姿もない、まるでうたかた、泡のように切ないかけら。嬉しいことはいつだって、ぱちんとはじけて、それで終わりさ」

 こっちのが僕らには似合ってるよ。そう思うと、そうとしか思えなくて少しおかしく笑みが零れた。

 それを最後に、意識は途切れた。

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