第2話
海の見える知らない町で降りる。
駅を出ると、すぐに潮の匂いを感じた。坂の上に駅は建っていて、鄙びた感じの町の向こうに海が見えていた。坂を下に歩きながら、彼女に「眠れた?」と訊くと、「うん」と頷いた。確かに彼女はよく眠っていた。
前を向いて、歩きながら彼女は訊ねた。
「でも、瑞晶は寝れなかったよね」
「寝たよ」
「本当に?」
「うん」
「どのくらい?」
「一時間半くらい」
「寝てないじゃん」彼女は言った。「どっかで休む? もう旅館にチェックインしちゃおっか。どうせ数日泊まることになるんだし」
「いや、大丈夫。それよかちょっと町とか見て回ろうよ。折角遠くに来たんだし」
ゆらめく足を地面につける。微かに現実感がない。寝不足特有の症状だ。
彼女に言いつつも、僕は眠気の凝る頭に嫌気が差していた。けれどいつものことなのだ。それにその日さえ乗り切れば、翌日には普通に戻れる、そういうものだ。
冷たい風が頬を撫でた。
僕と彼女は大きめの荷物を持って、その眼下の町を歩いた。
平坦な住宅地に下りると、海は建物の陰に隠れて見えなくなった。そこには潮に混じって生活の匂いがした。木造家屋のペンキの剥げたベランダには洗濯物がはためき、僕の横を黄色帽を被った小学生たちが連れだって駆けていった。寒気を突き刺す鋭い陽の下、その中の一つ、赤いランドセルにぶら下げられたキーホルダーがカチャカチャ鳴る。
「遠くに来ても、こういうところは変わんないよね」彼女がこそっと笑った。
随分緑に侵略された蔦の蔓延る小学校や駐車場のやけに広いコンビニなんかを見ながら進んでいくと、向こうに港が見えてきた。左右の住宅がそろそろといなくなり、思ったよりも視界はすぐに開けた。
目の前に海が広がる。
太陽の光に舐められた水面は、遠くも近くもきらきらと白く輝いていた。波間に飛沫がたち、潮が角度を変えるごとに、更に眩しさが強調され、思わず目を細めてしまう。茫たる海を覆う空には真っ白なかもめが二羽、遊ぶように上下に揺れて飛んでいた。
僕らはちっぽけで人気のない港の横から続く堤防に沿ってゆっくりと歩を進めた。普段感じることは決してない、けれどもどこか懐かしみのある海の空気を全身で受け止めた。風は海上から注ぎ込むように吹いていて鼻の奥がつんとした。
岩場に挟まれる形で砂浜がところどころに見えた。ごつごつした岩は荒涼とした風情を逞しいものにして、砂浜にぽつんと置かれ、壁の板がめくれかけた小屋はスペースドッグを思い起こさせた。スペースドッグ、つまりライカ犬だ。彼は宇宙へ放られる時、どんな心境だったのだろう。嬉しかったか、悲しかったか。神風のように、立派な志をその身で感じていたのだろうか。
「ねえ、覚えてる?」彼女が流れる雲の下、灰色の硬いコンクリートを歩きながら言った。
僕は道端の壊れかけたような自動販売機でダイドーの缶コーヒーを一本買った。取り出し口の端には蜘蛛の巣の残骸が張りついていた。「何を?」
「私は小さい頃天使になりたかった」
彼女は微かに首を傾げて、太陽が雲に見え隠れする空を見上げていた。それははっきりと、心の底に沈殿した記憶を音を立てないように掘り起こす仕草として僕の目に映った。
「知ってる」僕も歩きだして、缶を上下に軽く振る。中の液体が内側の壁に阻まれて、その輪郭線を絶えず壊しているのが手に伝わった。それは頭で何かを考えることに似ている気がした。
初めて聞いた時は笑いそうにもなったけれど、よくよく聞いてみるとその内容は納得のできるもので至極彼女らしいものだった。
僕は過去のことを思い出しながら言った。
「天使になって天国へ昇る。天国は楽しいはずだから。がっかりすることもなくて、沁み込んでくる悲しさもない。別れもないし、理不尽な怒りもない。そう思ってた。だけどある時、気づくんだ。そのための天使になるのはすごく難しいことだって。死んだ時に天使になれるのは本当に優しかった人だけ。でも優しく生きるってことはどんなことなのかって言われたら分かんないんだ。他人の気持ちを考えて動いたって自分の心を殺してしまう。自分の正しい道を信じたって結局他人を傷つけてしまう。それに何よりそんな真っすぐな気持ちになれなくて、視界が変わる毎秒一瞬ごとに自分の心は揺れ動いて感情的になってしまってダメなんだって。嬉しがりたいのに他人を恨んでしまったり、怒りたいのに涙が出てきたり。あんまり頑張れもしなくて、気づけばどっかに行きたいだなんて思ってる。実のところ、天使になりたいだなんて現実逃避の所産でしかなくて、ここにあるのは、腐った果物を勇気の欠片と信じようとして信じられない弱い自分だけなんだって。
こんな感じだっけ?」
僕はなるべく慎重に視線で記憶の影をなぞりながら、手元では缶のプルタブを開けた。
「そうそう」由美がおかしそうに笑った。
この話を僕が受けた時の由美は、今とは全く逆の様子で、暗い部屋の隅で身を縮こませて泣いていた。彼女がこういうことを話すのは珍しい。彼女は自分の弱さを外の世界に見せることがどうしてもできないタイプだった。だからその時も彼女は随分追い詰められていたのだろう。その時も敢えて深くは訊かなかったけれど、確かに彼女は溜め込んできた何かの置き場所を見つけられずに苦しんでいた。彼女はそれを外側に解放してやることもできず、それらが内側で嫌な色に変色して錆びついていくのを見ていることしかできなかった。そんな時は僕の言葉なんて少しも届かないことも分かっていたから、僕は何も言わずにそっと彼女の肩を抱いた。どう思おうと、彼女は目を瞑った。
「あのことって今でも私の中に消えないで留まってるの。それが不思議なんだけどね。何だってうつろってどこかにたゆたって霞んでいっちゃうものだけど、これは違うから」
「それは苦しいことじゃない?」
僕が訊くと彼女は咥えた煙草に火を点けながら、口の端を上げて見せた。「そんなことないよ」
煙が見えたのは一瞬で、すぐに風に押し流されて見えなくなった。
「誰にとってもどうでもいいことだとしても、残るものってあるのかもしれないね」
僕は持っていたのを思い出し、缶を口につけた。ごくりと飲み込む。そして顔をしかめた。
「どうしたの?」
「甘い」僕は苦々しげに言った。コーヒーとはいうものの、それは女の子がお菓子に使う材料の分量を間違えたかのようにミルクと砂糖が多くて、気分が悪くなるほど甘かった。
「甘いの?」
「うん」僕が頷くと、彼女は言った。
「ちょっと貸して」
僕が缶を渡すと、由美は煙草を持ってない左手で受け取って、一口飲み込んだ。そして僕を見て目をぱちくりさせた後、またごくごくと胃に流し込んだ。
「そんなことないじゃん、普通だよ」
「え、ほんとに?」
平気な顔をする彼女が疑わしくなったがすぐに納得する。彼女は甘いものが好きなのだ。生クリームとかプリンとかそういったものが。
「飲む?」
差しだす彼女に僕は首を振る。
「もういいよ、あげる」
「そう?」
僕は手持無沙汰になった腹いせに彼女の吸いかけの煙草を奪って、燃え尽きるまで吸ってやった。そんな僕の隣で由美は笑う。
その後、僕らは町の片隅にある蕎麦屋であたたかいソバを啜り、バスに乗って予約をしている旅館へ向かった。
その旅館は町から離れ、少し山に入ったところにあり、周りを自然に囲まれ、静養の趣きを強くしていた。建物自体は良くも悪くも普通の和風旅館だったが、風情のためか、人の来なさそうな立地の割には、もう既に玄関前の板看板には僕らの他に二、三の団体客の予約が書きこまれていた。
僕らはまだ陽も昇っていたので、部屋に荷物を置いて、周辺を散策することにした。建物の裏には透き通った川が流れていた。川を挟んだ向こう岸からは山が広がっており、こないだの紅葉の頃にはさぞ美しい景色が川に映えていたに違いなかった。しかし冬の今は言うまでもなく広葉樹の葉々は落ち切って、岸辺の木々はこちら側に覆いかぶさってくるように見え、自然の嶮しさが際立っていた。川辺に下りて水面に近づくと、流れは曲線を描き、小石の転がる底までくっきりと見えた。手を触れると、きりっとした冷たさが指に残った。
ここまでバスがやってきた舗装された道は旅館で行き止まりとなっており、その先は枯れ葉が地面に溶け込んだ土の道が山の中へと続いていた。僕らはその山道を歩いていった。左右の木々に囲まれた道は日光も阻まれ薄暗かった。冷たく、感情を持たない針葉樹林たちが、僕らをひっそりと迎えていた。音といえば、土を踏む二人の足音と、時折聞こえる枝葉の風に擦れる音くらいなものだった。
「静かなのは好き?」僕は隣を歩く彼女に言った。
「静かなのは好きよ」彼女は答えた。
足元には人の気配を感じさせない捻じれた枝や、腐ってボロボロになった葉があるだけだった。それに穴の開いたどんぐりなんかもあった。彼女はちょっと進んだ頃にまた口を開いた。僕は時間の経過を忘れる心地がした。彼女の唇が開く音さえもが耳に入ってくるようだった。
「いくら心を静かに保とうと思っても毎日を過ごしてたらさ、部屋の隅とか吸い殻の欠片とかから必要ないのにもやもやとかが湧きあがってきて、頭の中に入ってくるの。それは入った途端に刺を持っ て、私のことを攻撃してくる。昨日の私も今の私もその前には無力になって。そうなるともう、そんなつもりじゃなかったのに私は緊張を張り巡らせて、自分のことを守ろうとせざるを得なくなる。そういうのって疲れるしね。だから自ずとそうさせてくれる場所は好き。許してもらうって感覚に近いのかな」
「今でも誰かと近くにいると緊張する?」
「大抵はね」彼女が何気なくでも俯くと頬の影が増して、過去の悲しい物事に目を向けているように見えた。
彼女は昔僕と会って半年経つくらいまで、僕と同じ布団で寝る時にも身を強張らせ、なかなか寝つくことができなかった。それはだんだんとゆるくなっていき、今では僕より楽に寝つけるようになったが前は違っていたのだ。彼女は周りに警戒心を強めて生きてきた結果、誰にも心を開けない状態になっていた。誰にも柔軟に仲良く合わせられるようにしてきたから、誰にも自分の領域を侵せないように、自分でも分からないほど自分のことを隠す癖がついていたのだ。
遠くで聞こえだした水の音が少しずつ近くなってきた。
「滝かな」
彼女の言ったことは当たっていた。左右の森に押されるようにして細くなる道の先には、開けた場所があって、そこには崖がせり立ち、その上から陽に照らされた水流が勢いよく注ぎ落ちていた。久し振りの日差しを感じて僕らは近くの木の根元に腰を下ろした。土の湿り気が服を通して感じられる。
彼女は煙草を一本吸った。僕はその煙の行方をただ眺めていた。
彼女は足元の土に埋まって変色した飴の袋を引っこ抜いて、指で弄り、「いい場所だね」と言った。
陽にきらめく水飛沫を見ると、僕の頭も空っぽになった。彼女の言った通り、こういう場所にいると日常に据えた思考回路は全く意味を為さずに消滅してしまうようだった。僕の周りには木々が立ち尽くし、前には川になる滝があって、隣には彼女がいて、それだけだった。ちっぽけな世界で、僕はひとりだった。
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