ゆらめきはうたかた

四流色夜空

第1話

 最近、不眠症気味だ。

 いや、正確に言うと違うかもしれない。僕の疲れた身体は意識を失うと、昏々と八時間余りは眠り込んでしまうのだから。

 でも眠れない。眠りに就けないのだ。夜の十二時や一時に布団に入って目を瞑っても、意識は冴え冴えとして、常に何か思う対象を探してしまう。それは寂しさに似ている。だから僕はスピーカーに静かな音楽をかけて、何かを思いたいというぼんやりとした欲求を満たしてやる。僕の心は夜の空気に流れるそれらの旋律を捕まえ、詞は頭の中で過去の物事たちと絡みつき、彼らのビジョンを呼び起こす。寂しさは消える。しかし、今度は逆にそれらに意識が引きつけられ、凝っていた眠気は、箒で掃かれるように一層遠くへ追い払われてしまうのだ。そんな時、僕は布団から這い出て、小窓から月光の射し込むキッチンに立ち、水道の水をコップに注いでゆっくり飲んで、換気扇の下で煙草を一、二本吸う。じっと立ったまま、換気扇から流れる研ぎ澄まされたような空気を吸い込み、僕は煙を吐く。そうすると少しずつ、煙草の煙が脳に考え事をやめるように訴えかけてくれるのが感じられる。

 僕は灰を捨てて、布団に身を潜り込ませる。もう、あからさまな欲求は姿を消している。頭の中には何もなく、僕の目は消された電球の辺りをさまよう。僕は目を瞑る。遠くで車の通る音がして、それ以外は何も聞こえない。部屋の外では一切の時間が消えてしまったようだ。だけど心の底に落ち葉が擦れるような、微かなざわめきを感じて僕は眠れない。僕は意識をなくすのが怖いのだ。さっきまでの目立った欲求が残っているわけではない。これは僕の身体と心が表面に隠れた芯で願っていることだ。何かをつかみたいわけではない。僕の周りのものを消したくないのだ。僕は何かを眺めて安心したい。僕はひとりになりたくない。僕をひとりにしないで欲しい。だから、僕は目を瞑りたくない。そう、知らない僕が思ってる。

 僕はそれを誤魔化すために、今度は自分から考え事をする。眠りに似合った漠然としたこと。僕は死について考える。

 死は鏡のように見る者によってその性質を変える。鏡は奢った者が見ればその景観を美しくし、自分に引け目を感じる者が見た時にはその表面にくすんで映す。

 死とは恐怖だ。自分の持っていた何もかもを失うこと、過去も未来も現在の自分も。確実なものが冗談のようになくなってしまうことの恐怖。しかしそれは見る者がある境を越えると同時に色を変える。死とは希望の象徴になる。今までの失敗を全て無に帰し、縛りつけられた罪悪感を解放する一回性の行為。深い海底からゆっくりと浮上するように、引き算がもう繰り返すことをやめていく――。

 僕は意識の薄れていく中で幾度もそんなことを考える。次第に空が脱色されて、爽やかに淡く光りだす。それを細く開いた瞳で認めて、僕はその身がようやく敷布団に沈んでいくことを感じる。

 そうして僕は眠りに就く。死というものが僕の中で、希望の方へとその色を変えようとしている動きを確かに見つめながら、僕は眠りに就く。


 冬休みが終われば卒業式が来る。冬に落ちた校舎は灰色でじっと動かない。午後の授業を終え、もう暮れた陽を思いながら四年間を過ごした学舎を眺めると、驚くほどに感慨がなかった。朝野瑞晶という人間がその人間性を毎日をかけて培ったはずの場所。これからを生きる支えを固めてきたはずの場所。マフラーを掠った北風が、指先を冷たくして、僕は手をポケットにしまった。

 何事も最期というのは呆気のないものだ。続けてきた過程がいくら濃密であっても、終わりの敷居を越えた向こうにはなんにもない。悲しさもなく、切なさもなく、嬉しさもなく、期待もない。僕の心はロボットみたいに空っぽだ。空っぽに風が通り抜ける。寒さも心には届かない。心は何一つ思わない。

 止めていた足を動かして、僕は正門を抜けて枯れ葉の吹かれた帰路を辿る。

 もう少しで冬休みが来る。


 町中は聖誕祭の雰囲気を強くしている。山に近く寂れた場所なのに下宿周りの家々の軒先にも赤や緑の派手な装飾が飾りつけられている。絵の具で塗られたように濃い曇り空の下で、それらはぴかぴかと光り輝いている。

 歩いて人気のないバス停まで来ると、ベンチには先に七綾由美の姿があった。足元にナップザックに近い形をした灰色のリュックを置いている。彼女が大学に持っていってる見慣れたものだ。

 僕が時刻表を確認して振り返ると、彼女がこちらを見つめていた。

「寒いね」と僕が言うと、彼女はどこか遠くを見るようにして「そうだね」と返した。彼女は細身の身体にパーカーのついた紺色の薄いブルゾンを着込み、その裾からはベージュのロングスカート。モノクロの背景に馴染んだ落ちついた雰囲気を纏っていた。

 僕は彼女の隣に座って目の前の路地を眺めた。そしてなんとなく彼女がいつ処女を失ったのかを考えた。出会って三カ月が過ぎた頃だった。隣で彼女はゆっくりと煙草に火を点けた。もう二年も昔のことだ。時は過ぎ去って過去になる。あれ以来僕と彼女はほとんど事を為してない。身体の匂いは目の奥に染みついていても、していない。する必要もない、そういうこともある。けれど、この二年の間に僕は彼女の優しさに触れ、長い黒髪を目に焼きつけた。

 煙は真っすぐに吐かれた。

 一時間に四本ほどのバスは十分ほどするとやって来た。


 長方形のバスに揺られて見慣れた町並みを過ぎていく。僕は彼女の隣に座り、車内の動きに伴って左右に揺れた。他に乗客は少なく、席はぽつぽつと空いていた。横を見ると彼女は窓の外を見ていた。僕もつられて通路側からその方を見る。流れる景色に彼女の後ろ姿。それはまるで一枚の写真だ。彼女がいるだけで僕の生活が彩られた今までを思う。そして今を。

 少しして不意に彼女が進行方向に向き直り、僕の目線に気がついた。

「どうしたの?」今まで何度も聞いた台詞を言う。そして僕は今まで通りそれを返す。

「いいや、なんでも」

 僕も車の前に目を戻す。ふと、彼女の左手が僕の右手に触れた。細い指先。彼女は微笑んでひとりでに頷いた。

 僕はそれを握り返す。あたたかい手だった。

 灰色の町を抜ける。


 いくつか停留所を過ぎても、ステップを踏んで乗り込んでくる客はそれほど増えなかった。僕らの他には優先席で楽しげに会話する初老の女性が二人と仕事先に向かうようなスーツの若い男性が一人いるくらいだった。平日の午後にどこに向かうでもなくふらついている人など少ないのだろう。学生は学校に通い、社会人は会社に勤めている。しかしバスが赤信号に止まり、交差点を眺めるとバスの中には人が少なくても通りには車が多かった。町の中心部への距離が縮まっているのだ。空を見るとあんなに濃かった雲も随分と和らいでいた。僕は視線を下げ、道端に建ったガラス張りのビルの方を見た。するとその外壁には無機質な四角いバスが映っているだけだった。そこには僕も彼女も見えなかった。そんなことがなぜか意外に思えた。彼女は頭を少し傾けて、僕の右肩の上に軽くのせた。肩と肩が触れ合い、彼女の存在を隣に感じる。僕も自分の頭を彼女の方に少し寄せた。信号が青に変わる。

 駅前に商店街があり、そこが町で最も発展している。そのためだろう、近くなると自然に乗客も多くなった。大学生のような若者もいるが、買い物に出かける主婦が目立つ。乗客が含み持つ人生を包んで車は走っていった。

 僕らは駅に着く三つほど前で下車した。

 バスから降りると、雲の隙間から早くも陽が斜めになっているのが見えた。閉ざされてた冷気がさっと身体を纏う。午後三時の陽は鋭く赤く射していた。

 由美は僕の二、三歩先を歩いた。

 商店街のアーケードに入り、値踏みをするように左右の店を眺めて歩く。影が後ろの僕の足元に映る。

 このアーケードには人気のラーメン屋があって、そこに並んだ記憶が蘇る。去年の秋口に二人で傍に立った金木犀の香りを嗅ぎながら列に並んで、店で人気だという坦々麺を二人で注文した。それは身体が温まるくらいとても辛かったけれど、胡麻の香りがしてとてもおいしかった。半分ほど食べたところで、僕を見た由美が辛さで目を潤ませながらも「おいしいね」と言っていた。口元がスープで赤くなっていたのを思い出す。

 こっちに下宿してきた時に生活用品を揃えた雑貨屋や、貯金を下ろした郵便局を横に過ぎる。由美は不動産のガラスに張られた紙片を眺めたり、擦れ違った小さな犬に屈んで挨拶をしていたが、少しすると小ぢんまりとした喫茶店の前で足を止めて振り返った。

「ここにしよっか」

 僕は頷いた。

 僕は店内に置かれた週刊誌を眺めてコーヒーを飲み、彼女は持ってきた読みかけの文庫を取り出して、字面に目を落としながらカフェオレを飲んだ。二人の間には会話は殆ど存在しなかった。代わりに灰皿から立ち上るロングピースの副流煙だけがあった。

 僕と彼女は一度ずつコーヒーとカフェオレをお代わりした。今度は僕がカフェオレで彼女がコーヒーを。

 二時間ほどして店を出ると、外は陽が沈んだところだった。辺りには夕陽の余韻と忍び寄る夜の予感が入れ違い、漂っていた。

 僕らは闇が落ちるアーケードを歩き、川に架かるコンクリートの橋を渡った。目線の先には線路を走る電車が見える。銀杏の木が枯れていた。

 彼女は川の流れに目を向け「私にとって大事なものって何なのか、分かんなくなる」と呟いた。

「大事なもの?」僕は訊き返した。

「毎日、過ごしてく中で必要なものって、そりゃあ出てくるけれど、本当に自分が好きで、大事だったものって何なのか、たまに分からなくなるの。見失っちゃう」

「たまにってことは、その後に思い出すってこと?」

 歩道を進む僕らの横を騒音を上げる車たちが走っていく。

「ううん、考えるのをやめるの。すぐ日常に戻らないといけないから」

「ふうん」と頷く頭の中で、僕は今まで捨ててきたもののことを考えた。

 僕らは駅が鼻の先といったところで、定食屋に入り夕食をとった。彼女は食べ終えた後も煙草を吸わずに、僕が二杯目のビールを飲むのを楽しげに見ていた。


 夜行列車に揺られて住み慣れた町を後にする。車内の白い明かりが窓に当たって、僕の顔を映す。バスとは逆に今度は僕が窓際に座った。

「さよならには、つらくないこともある」彼女は窓の方を眺めて言った。

 窓の外に広がるのは一寸の隙間もない夜だ。遠くに町の見える風景が終わってからは雑木林が続いていた。暗がりに何かを求めるように、各々の手を伸ばしている。

「何それ」と僕が訊くと彼女はなんともなしに答えた。

「知らない。どっかの詩集に載ってたの」

 それから思い出したように足元のリュックに手を入れた。由美が取り出したのは個包装紙にくるまれた黄金色のワッフルだった。

「さっき行った喫茶店で買ったの。キャラメル味だって」

 齧ると、しっとりした触感から強く甘い匂いが鼻腔を刺した。

「おいしいね」

 僕の声を聞くと彼女は満足したように、目を細めて「四つ買ったけど、残りの二つは取っとこうね」と言った。

 列車の中はがらりとしていた。夜の中に存在を放つ天井の蛍光灯が空元気を発するように、並んだシートを照らしていた。時々がたりと揺れるけれど、何事もなく電車は僕らを運んでいった。

 ワッフルの最後の一口を食べ終えた彼女は、手元で一本の煙草を弄っていた。

 さも愛おしそうに、何かとても大切なものがそこに宿っているかのような面持ちで。銘柄の印字から葉が覗く方へ、包み紙の表面をなぞる。そしてフィルターの部分を親指で擦った。

「車両は全面禁煙だから」

 しまいなさい、吸わないうちに。僕が言うと、彼女はしばらくそれを物惜しそうに触った後、胸ポケットの箱へとしまった。箱の横に赤いライターが顔を見せていた。

 彼女はシートに身を沈めて宙を見たり、窓に目をやったりしていたが、いくらかして静かになったかと思うと、隣で寝息を立て始めていた。僕は長らく外に流れる黒い森やそれを抜けると現れる町の光の粒を眺めていたが、ガラスに映る僕の向こうの由美が気になって彼女にそっと向き直った。彼女はすうすうと息を吐いて、目を瞑っていた。彼女の顔が穏やか過ぎて、それはもう世の中は平和なことしかないというふうだったので、僕は少しおかしくなってその頬を軽く指で擦ってみた。

 すると、くすぐったかったのか、彼女は姿勢を崩して僕にもたれかかってきた。

 バスの時とは違った、ずっしりとした彼女の重みが僕に伝わった。


 僕らはいつしか約束をした。

 ベッドに横たわる僕らの足元には用済みを待つ夕暮れの陽が射し込んでいた。

 梅雨が雨を降らせ切る前の夏の始まりを感じる頃、僕らは夜の間に借りてきた映画を見て、酒を飲み、明け方になると狭い布団で共に眠った。大学では普通に授業のある日だったけど、僕も由美も出席点には余裕があった。昼過ぎに目が覚めた僕は、隣で眠る彼女をそっと揺り起こし、余っていた玉ねぎと人参でコンソメスープをつくって、トーストと一緒にお昼にした。その後は少し、埃が目立つ小さなテレビで騒がしいワイドショーを眺めていたが、どちらからともなく知らずに眠った。

 目が覚めると夕方だった。二度目の起床だった。

 僕が胸元にあった髪を撫でると彼女は頭を動かした。

「もう夕方だよ」僕が言うと、彼女は顔を布団にうずめたままゆっくり口から言葉を吐いた。

「時が経つのは早いね」

「いつだって終わりは目の前だからね」

「そう」彼女はむっくりと顔を上げて窓の方に瞳を向けた。そして、その時の中を泳ぎゆく魚たちを眺めるような目で、「死にたいの?」と訊いた。

「死にたいよ」僕も当てもなく水の中を彷徨った気分になって答える。

「私もそう思うよ。ゴチャゴチャした塊が頭の壁にぶつかる音が聞こえるわけでもないけど、誰かの呪いのように脳の中で反芻してるの、お前は死ぬべきだって。死んだ方が全て丸く収まるって」

「うん」僕は夕陽に漂う空気中の埃を見る。「うん、苛々してるわけでもないんだ。誰かを嫉妬する気ももう失せて、誰かを助ける勇気も糸口がなくなって、もう何もない」僕は彼女に片腕を回し、体温を確かめて、もう片方の手で髪を触った。息が首筋にかかる。

「私たちにできることって本当にあるのかな」

「由美のことは分からないけど、僕にはない。もう残された道は予防線を張り巡らせて、その隙間を身体を震わせながら縫い歩くことしかない。それでも誰かの迷惑になる」

「それが怖い?」

「怖くはないさ。ただ面倒なだけ」

「面倒なことは多いね」彼女は眠そうに軽く欠伸をした。

「ただ何もない。これまで何もなくて、これからも何もない。それだけのことなんだ」

「うん」彼女は大きく頷いた。自分の内なる大事なものを一生懸命肯定するように頷いた。「じゃあさ、」由美は右腕を僕の背中に回して、ぎゅっと力を入れて二人の身を引き寄せた。肋の骨に彼女の身が重なるのを感じる。「いつかさ」

「うん」

「いつか……、私が瑞晶を殺してあげるよ」首を髪でくすぐりながら言う。「私が瑞晶を助けてあげる」

「いや」と僕が言うと、彼女は「うん?」と猫のような声を出した。

「いや、それはダメでしょ。あの世にまで罪悪感を持ちこませる気?」

 彼女はふふっと笑った。「そうだね」

「そうだね、じゃあいつか一緒に死のうね。それならフェア」

 そう言って彼女は腕に力を入れた。

 いつかの話。一年ほど前の話だ。

 列車の車輪の音を聞きながら、そんなことをずっと昔のことのように思い出した。窓の外はどこまでも広く、遠く、暗い藍空が広がっている。まだ夜は明けそうにない。この空を見上げてる人はどれだけいるだろう。どれだけの人が今、マンションのベランダから、帰り道の路上から、社内の窓から、思い出の場所から、天の方に手を伸ばして希望の在りかを探しているのだろうか。

 それなりの時間が経った時、それなりの結果が目の前に来る。

 それが希望ならいい、と僕は思う。

 僕の場合はどうだろうか。すっきりとは分からない。けれど、僕の目の前にも、今、来ている。いつか交わした限界が満ち潮のように迫ってきている。何もしなかった僕の前に。何も思わなかった僕の前に。

 今が約束の時なのだ。

 蛍光灯の光が反射した窓の向こうに僕は見る。

 あの時。彼女が僕を抱き寄せた時。彼女の力を感じて、僕の中にさらさらと何かが満ちる音が聞こえたのを、僕は迷った挙げ句に口にしなかった。これからもしない。

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