第11話 小説家 山野さくら 2
大型台風のせいで撮影がお休みになった。窓の外を叩く雨の音が激し過ぎて、かえって頭の中は無音になる。集中できそうだから、久しぶりに書きかけの小説が並んだフォルダを開いてみた。
「きゅん死に裁判」。酔った勢いで妄想したやつだ。是非有罪で?あり得ないし、ナオ本人と話すようになった今となっては、彼を殺人犯にしようという発想が申し訳なさ過ぎる。今、私がこれを書くとしたら、どうしたら無罪になるのか、だろう。実際に、時々心臓が危うい事を自覚している。リアルきゅん死には、今の私には現実だ。
撮影が終わってしまえば、ナオと会う事は二度とないだろう。それまで持たせれば、私の勝ちだ。そう思って、胸がチクッとするのがわかった。今の私の心臓は敏感で困る。一人苦笑しつつ、二度と会えない、に反応した事を知る。それはそうだろう。だって元々憧れていた人が、話してみたら本当に素敵で、それで好きにならない方がおかしい。ナオが好き。小説のヒロインなら良かったのに。今の私にはどうひっくり返ってもその未来はない。
この気持ちは隠して、せめてお友達に?この心臓で?ナオの前で死んでしまう展開しか浮かばない。ちゃんとナオを無罪にできるの?キーボードに指を走らせる。あらゆるパターンを想定して、ナオを無罪にする方法を考える。それだけでは足りない。優しい彼が、自分の目の前で人が死ぬのを見て平気な訳が無い。彼がちゃんと立ち直れるように、考えておかなければ。
大抵のことはあのマネージャーが何とかしてくれるだろう。ちょっと行き過ぎな人だが、こういう時は頼りになる。死んだ私の悪口でも言って慰めてくれればいい。状況によっては本当にナオが疑われる事も有るかも知れない。その時も、マネージャーが揉み消すなりなんなりしてくれるだろう。それが怪し過ぎて娘が訴えたらどうしよう。無罪の証拠を常に用意しておくしかない。マネージャーには悪いけど、利用させてもらう。裁判沙汰にまでなれば、流石にナオも疲れて私に対する同情も無くなるだろう。それでもダメなら、この「きゅん死に裁判」を娘から渡してもらおう。自作自演だったって思ってもらえれば、馬鹿馬鹿しくなるに違いない。それでも立ち直れなかったら…。
ものすごい爆音がして、急に暗くなった。雷が落ちた。停電だ。目の前のモニターだけが光っている。そこに並べられた私が死んだ後の世界。優しい彼が泣いている。急に、死にたくない、と強く思った。せっかく知り合えたのに、笑って話せるようになったのに、こんなに好きになったのに。この幸せな時間がずっと続けばいいのに。
彼を悲しませるようなことはしたくない。なのに、二度と会わないのが正解で現実だとしても、こんなにも言い訳を連ねて私は彼の側にいたい。そして彼に、笑って許してほしいと願っている。さらに言えば、私を忘れないで欲しいとも思ってるのはわかってる。わがままだな。優しい彼に対して罪深すぎる。でもそれが今の私だ。
明かりがついた。電気が復旧したらしい。冷蔵庫が動き出すブオンという音が響く。雨は小降りになったようだ。明日からまた撮影が始まる。後数回。それでナオとはもう会えない。
クランクアップして、打ち上げにも呼んでもらった。ナオがいつものように話しかけてくる。これが最後だと思うと、心臓に多少負担がかかろうと、ナオとの時間を楽しもう、と思えた。人の少ないテラスへ誘ってくれた。周りを見渡す。大丈夫、南さんが潜んでいる。
動画の話で盛り上がって、ついきゅんシリーズをやってくれ、と言ってしまった。動画で見ているだけでも危ういのに、目の前で実演してもらっては、私は死んでしまうに違いない。しまった、と思ったけど、実際には全然大丈夫だった。ナオが照れている。可愛すぎて、仕返ししてみたら、さらに照れた。そのくせ何度も挑んでくるから、二人で笑い合って、楽しすぎる時間が終わった。
これを思い出にしばらく生きていこう、と思っていたのに、ナオが連絡先を聞いてくれた。期待していなかったのに、帰ったらメッセージが届いていた。嬉しくて涙が止まらなかった。
そして私は覚悟を決めなくちゃいけなかった。私は簡単には死ねない。そして、もし死んでしまったとしても、彼を悲しませてはいけない。まずは、手術の予約。次に、友達として適度な距離感のそっけなめの返事。私の裁判は始まった。
いざという時の為に、例の「きゅん死に裁判」をナオ用に書き上げ、娘も知っている私の重要な物入れに入れた。ついでに裁判費用も入れておいた。娘には心配させないように、ナオに心臓の事を言ってある、と言ってしまったけど、多分確証にはならないから大丈夫。後必要なものはなんだ?とにかく常に気を配って、ナオの無実の証拠と許してもらえる理由を作らなくちゃ。
ナオから、食事のお誘いが来た。その日はナオの誕生日。彼の友人が企画したようだから、本人は誕生日会だとは思っていないようだけど、きっとそうだ。せっかくだから、参加することにした。
大勢来るかと思ったのに、私とナオとナオの友人の3人だった。ごくプライベートな集まりだったみたいで、ちょっと申し訳なかったな、と思ったけど、動画でよく見る友人君は人懐こくて楽しそうに接してくれたから、私も楽しむことにした。2次会は遠慮しようと思ったのに、誕生日だから、と言われ断れず、ナオの家へ。その間ずっと南さんは潜んでいて、心強いことこの上ない。お向かい宅に監視カメラを確認。念のため、ナオの部屋で写真を撮らせてもらって娘に送った。
3人で軽く飲んで話した。ナオと友人君のやり取りが楽しくて、ナオの自然な笑顔が素敵で、幸せな時間だった。私が席を外した間に友人君が帰ったようで、二人きりになったことに気づいて慌てた。心拍数が上がる。すぐに帰ろうとしたのに、なぜかナオに引き留められた。
手を引かれて、そのまま後ろから抱きしめられた。心臓が跳ね上がる。ナオが私の耳元で「好きです」とささやく。冗談じゃないことは、私の前で組まれた腕がかすかに震えていることで分かる。動悸が激し過ぎて息が苦しい。彼の震える腕を抱えて、自分の心臓を押さえつける。死にたくない。死にたくない。鼓動収まれ、ナオから早く離れなくちゃ。ごめんって言わなくちゃ。ナオが好きって言ってくれた。なのに。なのに。ナオの指が、そっと私の涙をぬぐった。この人を絶対悲しませてはいけない。言葉にした。「ごめんね。」
急にナオの腕の力が抜けて自由になる。それが寂しくて、恋しくて、つい振り返る。ナオが辛そうな顔をしていた。息が止まる。そんな顔をさせたかったわけじゃないんだよ。ナオ、大好きだよ。声に出ていたかどうかはわからないけど、ナオがもう一度抱きしめてキスをしてくれた。ごめん、ナオ。早々に判決は死罪。私の心臓はもう駄目だった。
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