第5話 妖怪たちとランチを


 午前5時。施設を出る。

 入所日に施設長へ早朝ルーチンを説明し、6時50分には戻ると約束。外出許可をもらった。


 片道15分のランニング。やや深く前傾姿勢を取って音をたてず走る。行き先は静かで交通の少ない場所がいい。開けた眺めの荒川より、江戸川を目指して東にする。


 篠崎公園にきめた。芝生で裸足になり、軽く屈伸などの準備運動をして、稽古にはいった。


 象、馬、獅、猪、蛇、猫、魚、孔雀クジャク紅鶴フラミンゴ。これらの型を5クール。中腰のまま摺り足で進む姿勢が多いので、こなすと息が上がる。いまだに呼吸が不充分だ。

 そこから蹴りの練習。蹴り上げた爪先がひたいに達するようになったのは年明けから。頭上まであげた手のひらに蹴りが入らなければ正式な型にならない。気長にやるしかない。


 この謎の鍛錬を始めたのは12歳の冬。もう丸2年を越えた。これをやっていなかったら、


(……弟に殺されてたかも、なっ)


 空手や柔道、合気道、武道はビーンズチョコみたいにいろいろあった。

 けれど、弟の動きは獰猛な動物のそれ。刃物を持った猛獣が飛びかかってくる。


 組み付こうと腕を伸ばせば、その手首を切断。両眼を真一文字に斬り裂き、首を刎ね飛ばす。そんな本能的なイメージが先に立った。姉弟ケンカじゃない。殺し合い。本能的に弟の方が上だとわかった。理性的な武道で弟の前に出れば、死ぬと。


 その直感は外れてくれなくて、死が迫る時がやって来た。


 12月。クリスマス。

 五つ年下の弟は7歳。発作は、父が仕事で茨城に行っている間に起きた。


 なんとか祖父を家から逃がし、チハヤは公園まで逃げて追い詰められた。

 太ももの傷が深くて、ひどく全身が冷たかった。もうダメかと思った時、突然、弟の殺意がパタリとやんだ。


「この子は、〝鬼童〟じゃのう」


 しもの降りた砂場に突っ伏した弟を見下ろして、ガンジーは言った。たまたま通りかかったホームレスの爺さん。ガンジーは通り名で、ホームレスになる前はずっとインドにいたからというシンプルな理由だと、だいぶ後になって聞いた。


 その爺さんが、弟を止めてくれた。殺気立つ猫の全力疾走をカカト落とし一発で。


「神童は幼くして修め、創造するというが、鬼童は幼くして修め、破壊するものよ」


 ちょっと何言ってるかわからなかった。


「お前たち、母親はおらんのか」

「え……うん」

「惜しい。いつくしみがあったなら神童であったろうに。いや、惜しいおしい」


「あたしじゃ、代わりになれなかった」

「まあ、無理じゃろな。お前さんも鬼童じゃから」


「は?」

「姉弟で、その相がでとるのよ」


「じゃあ、あたしらどうすればいい? 死ぬしかない?」


 ガンジーは伸ばし放題の白ヒゲをしごいて、

「破壊する3倍の人助けをする。これかな」


「そうじゃなくて、弟のこと。この子を人殺しにしたくない」

「なら、護身術の手ほどきをしてやってもいいが……。半年で物にしろよ」

「半年? なんで?」


 ガンジーはこともなげに肩をすくめた。


「わしの余命が、あと半年じゃからよ」


 その言葉通り、ガンジーは半年後に死んだ。高校生6人からホームレス狩りに遭った。

 ライターオイルをかけられて全身火傷をおい、救急隊員が気道挿管──この時も医師法違反を覚悟しての救意だった──に手間どっている間に、救急車の中で心肺停止に陥った。


 その後、間もなく高校生6人は似顔絵で5人逮捕された。最後の1人は海外に逃亡。それっきり音沙汰がなくなった。


 チハヤは祖父に頭をさげて、ガンジーの葬儀を挙げてもらった。すると斎場にどこから聞きつけたかホームレスが50人ほど集まってきて、持参の酒で2時間ほどどんちゃん騒ぎをして帰っていった。


「おれも、久しぶりに良い葬式を見たよ。チハヤ、いい人に出会ったな」

 祖父・佐吉の言葉に、チハヤは初めて声をあげて泣いた。


 それからも、チハヤはガンジーから教わった鍛錬をやめなかった。


 朝早くにガンジーがいた公園に行き、動物の型を5クール。蹴り上げ。それで汗びっしょりになって家に帰り、水シャワーを浴びて学校へ行く。学校から戻ると、黄昏の時刻を選んで練習した。

 学校では寝てばかりで勉強しなかったから、成績は悪かった。でも、身長が異様に伸びた。


 弟はその後、殺人衝動が2度ほど発症し、ついに自分から精神病院に入った。ベッドしかない白い病室で、チハヤと同じガンジーから教わった謎の鍛錬をやっているらしい。7クール。

 弟は手紙で難しい本ばかりを読んでいる。最近の心の師は、ハンニバル・レクターっていう外国人らしい。なんだか、おしゃれだ。


 チハヤも祖父に頼んで、児童養護施設に入所した。どうしてもやりたいことがあった。家に迷惑をかけたくなかった。あと、弟の殺気が残る家では、どうしても眠れなかったのもある。


『破壊する3倍の人助けをする。これかな』


 あのガンジーの言葉が心のどこかに刺さっていた。

 いつかやってやる。破壊3倍の人助けを。


  §  §  §


 なんとなく振り返ると、〝しーふー〟が歩いてくる。

 朝の散歩のようだ。この辺に住んでいるのだろうか。


「あ、えっと、おはよう。超しーふー。だっけ?」

「おはようございます。申し遅れました。私は、ちょう策霖さくりん。英国名はアイザック・チャンです」


 アイザックちゃん。なんかかわいい。


「傷はもういいのか。散歩?」


 張策霖は、笑顔で応じた。

「はい。おかげさまで。朝の散歩は、古い気を出して新しい気を取り込めるのです。その途中で、あなたが走って行くのを見かけたので、ちょっと様子を……どうぞ続けて」


「あ、うん……」

「ただし、蹴り上げる時、頭の頂きに玉があると思って蹴るとよいでしょう」

「玉?」


 張作霖はそっと歩み寄って、チハヤの頭上に拳を置いた。


「ここです。ここを目指して蹴るのです。その際、全身の力を抜くとよいでしょう」

「全身の力を抜いたら、ふにゃふにゃになるって」


「ではあなたは、ここに立つのに力を使っていますか。前に歩く時に力を使っていますか?」

「それは……あ、そうか」何かピンと来るものがあった。

「さあ、どうぞ」


 チハヤは蹴り上げた。爪先が頭上に届いた。が、その足を掴まれた。


「うぐぐぐ……」

「苦しく感じるのは、まだ身体のあちこちで力を使っているからです。力を抜くのです。力とは向かう方向であり、波です。力を一つ所に留まらせるから筋肉が硬くなり、伝わらない。力を放出──流すのです。さあ、もう一度」


 足が自由になり、また蹴り上げる。そしてまた足を掴まれた。けれど前よりもキツくない。


「チハヤ。蹴る時に呼吸を止めるのではありません。吐くのです。身体全体で息を素早く吐き、そして口で吸うのではなく全身で一気に取りこむのです」


 手が離れ、また蹴り上げる。


 パシャンッ。頭上で水飛沫に似た奇妙な──撥水はっすい音?──音がした。

 今度は足を掴まれなかった。


「ほぅ。これは……」

「あの、今。変な落としなかった?」


 自分の蹴った足を見る。蹴りの練習は裸足になる。別に濡れた様子はない。

 張策霖の整った顔立ちが、少し戸惑いまじりに考え込んでいた。


「あなたは、想像以上に飲み込みが早いようです。今の蹴りを忘れないように」

「あ、ありがとう……で、いいのかな」


「まあ、今日は行きずりで声をかけたまでです。お気になさらず。では良い一日を」


 張策霖は笑顔で会釈して、散歩を再開した。

 その背中を見送ると、チハヤはすぐにさっきの感じを忘れないよう練習をくり返す。


 あの水音が3回鳴った。帰りは手が痛かったが、ニヤケが止まらなかった。

 ひりひりしたこの手に、始めてやっと何か掴めた感触があったから。


  §  §  §


「腹減ったぁ……」

 昼休み。机に突っ伏して、チハヤは窮状をグチってみる。


 運動後、朝食には間に合って普通に登校した。そこまではよかったが、1時間目から体育が長距離ランニング。ついてない。とどめは、弁当をもってくるのを忘れた。あと財布も。


 龍骨中学校は、家庭の事情から保護者から事前申請すれば、1年度分の給食を止めて弁当昼食にできる。給食費踏み倒し問題は、前の学校でもあった。

 チハヤは親と離れて生活するため、給食をことわった。持ってくるのを忘れたら悲惨だけど、一食抜いても死にゃあしないと高をくくっていた。でも今日は、朝から体力を使った。バテちゃあいないが、腹は減る。


「家庭料理同好会。まだ開いてねぇよなあ……」


「おい、雨宮千速」

 机の上で寝返りを打つと、鼻眼鏡が見下ろしていた。


「んだよ、沙門か。相変わらずその制服、似合わねえな」

「ほぅ。今の俺に、そんなディスリスペクトを投げて、あとで後悔するなよ」


「なに? メシでも恵んでくれんの? てか、金貸して」


「ふんっ。恵むのは俺じゃない。……朱住あずみだ」

「行ぐっ!」


 チハヤは思わず顔を上気させ、イスを蹴って立ちあがった。


「雨宮さん、もう給食時間だよお」すぐ前の田村が言う。


「ごめーん。あたし弁当昼食なんだわ。ちょっくら朱住にタカってくるぅ」

「勝手に教室出たの、セン公たちに目をつけられたら、内申響くぞ」


 男子の黒田が挑発か、からかいか軽口を叩いた。

 チハヤは笑顔の前で手をひらひらさせて陽気に払いのける。


「今日だけだよ。うっかりメシと財布持ってくんの忘れててさ。放課後まで飢え死にしそうなんだ。メシをゴチになったら昼休み中に戻ってくるよ。それにもう、打たれて響くような内申でもねーしさ。開き直れば、なんでもできるってなもんよ」


 呆れまじりの笑いがこぼれる教室を出ると、沙門は階段を上にのぼり始めた。


「雨宮。貴様、教室ではいつもあんな態度なのか?」

 不思議そうに沙門が訊ねてくる。


「そうだけど。3日目なんてこんなもんだろ?」

「いや……すでにクラスに馴染みすぎてないか」


「そうか? それよりどこに連れて行かれるんだ。また生徒会室か」

「やれやれ……。ああ、3年生は気にしなくていい。彼らは今月いっぱいだ」


 生徒会室。

 沙門に続いて室内に入ると食い物のいい匂いがした。テーブルにはなんと重箱を三つも広げてあって、1ヶ月も早い桜見体勢だった。


「あら。いらっしゃい」

 神楽木アリサが声をかけてくれた。


 チハヤは手で応じたが、今日は席順が違う。朱住が一番奥。神楽木が左上席。沙門が右上席にすわる。ということはえーと……。


「雨宮さんは、沙門のとなりをどうぞ」生徒会長代行が進めてくれた。

「なあ、やっぱこれって序列が決まってるの?」


「序列?」神楽木にきょとんとされた。「そんなものはありませんけど。ドウジが真ん中に座ると、おかずを取り分けてくれるのがやりやすいからよ」


 フルスイングの勘違いに顔から火が出た。声が出せないほど恥ずかしい。よくよく考えたら、朱住から広くこちらを見渡せる場所に座ってる。昨日の今日で、あの童顔をまっすぐ見れない。


「大丈夫。返事は急いでないから」

 鶏の唐揚げを取り分けながら、彼は余裕をもった笑顔でいう。なんか悔しい。


「それより、手伝って欲しいことがあるんだけど。この間の事件のことで」

「事件?」


 チハヤは聞き返しながら、なんの気なしに重箱のおにぎりに手を伸ばす。そこを神楽木に容赦なく箸でぶっ叩かれた。


「お行儀」

「メチャクチャ腹減ってたのぉッ!」手をさすりながら弁解する。


「やれやれ……こいつ、馴染みすぎだろ」

 沙門が困惑しきりで呻いた。

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