第1章 女河童は乙女男子に恋をする

第1話 都営新宿線でガール・ミーツ・ボーイ


 東京都五徳市。


 住み慣れた墨東区からさらに東へ流された帝都の果て。

 そこから江戸川を渡れば千葉県で、太平洋にはまだ、ちと遠い。

 かの有名な〝夢の園〟にはぐっと近くなったが、ここ最近はご時世に乗って休みがち。残念すぎる。まあ、夢見る金もないんだけどさ。


 次は海の見える町がいいなあ。一応、要望は出してみたけど、児童相談所長から冗談も受け付けない目でにらまれた。


 あたしは悪くねー。

 悪いのは、人の顔を見て牢屋にぶち込めなかったサツ公が、節穴なのさ。


「チハヤさん。向こうでは大人しくしていることね。でないと親元に帰されることになるわよ」


「悪りぃんだけどさ、所長」チハヤはさっさと席を立ってテーブルに手をつき、相手に目を近づけた。「その心配は他の境遇のヤツにしてやんな。金輪際、あたしとあんたは、ここで縁切りだ。そうだよな?」


「ぐっ……できることなら二度と、あなたにだけは会いたくないわね」

「ふっ。キタンのない本音をありがとさん。……じゃあなっ」


 スポーツバッグを肩に引っかけ、ドアを閉めた。児童相談所を出た直後、チハヤはもう所長の顔と名前を忘れていた。


 彼女だって、学校のセン公とおんなじだ。

 事務を処理する目で同情のフリなんか、やめてくれ。

 あたしは、お前らおとな達に愛されたいわけじゃない。


 手を差し伸べる素振りもない親の愛情や家族の温もりが欲しいわけじゃない。

 ほんとはね。誰でもいいんだ。善人でも悪党でもかまやしない。


 誰かを守って死にたい。


 それがちっぽけなクズ・雨宮あめみや千速ちはやの、名誉ある魂の救済だと思ってる。

 

  §  §  § 


 しばらく見納めになりそうな墨東の町を昼過ぎまでぶらついて、チハヤは菊川駅から都営新宿線に乗った。

 世はまさに受験戦争終盤の日曜日。春の気配でも探しに、さぞ家族連れやカップルが多かろうと気合いを入れて車両に乗り込んだら、そうでもなかった。


「おっ。割とすいてんじゃー……ん?」


 左右にならぶシート座席。そのとある区画だけが災難を避けるように乗客が遠巻きに離れていた。

 チハヤはとっさに横を通り過ぎようとしたオバサンの肩を掴んだ。


「ねえ。なにかあったん?」

「えっ。なんか、あそこの人……刺されたみたい」

「車掌には?」

「えっ。さ、さあ。だ、誰かが呼びに行ったんじゃないかしらっ」


 自分は悪くないとばかりに強く無関係をアピール。チハヤはうなずくと、丸っこい肩を叩いて通路を奥に進んだ。


「ちょ、ちょっとぉ。ねえ。あんた何をする気?」


 常識に引きとめる声は自動ドアが黙らせた。チハヤはスポーツバッグを肩にかけたままファスナーを開く。

 シートに座っているのは長髪の男性。長身ながら肩は女性のようにほっそりしている。そこに女子小学生が両手を広げて立ちはだかった。


「状況は」チハヤは訊ねた。

「えっ?」


「状況っ。撃たれたのか刺されたのか、持病のシャクか」

「えっと……撃たれた、みたい」

「弾は?」

「撃たれたところは、見てなくて……」


「そうじゃなくて、キズ。貫通したのかそうじゃないのかっ。どっちだよ」

「ええっ……わかんないですっ」


 じれったくなって少女を横に押しのけて、負傷者に近づく。


 負傷者は、身長180㎝前後。三〇代前後の男性。左脇腹を押さえ、指の間か流血していた。呼吸不整。発汗多量。負傷したばかりか。


「なあ。話できそうか。医療処置免許は持ってないけど、応急処置くらいなら面倒見てやれる。状況を教えな」


「ここに来ては、いけません。……私に、近づいてはいけません」


 中国訛り。でも、きれいな日本語を使う。日本滞在期間は長そうだ。意識はまだしっかりしてるから急所は外れてるのかもしれない。その時だった。


 彼に触れようとして、ぞわっと肌に静電気を帯びた気がした。


 とっさの対応だった。左手で負傷した男の胸倉を掴み、右手で女子小学生の胸倉を掴むや、同時に自分へ引き寄せた。身体は床へ突っ伏す。


 カーンッ!


 鉄板に何か硬いものが跳弾した音を確かに聞いた。いや跳ね返らなかった。

 負傷者がいたシートの背後。金属の壁に黒い矢が尖った頭を出していた。


(マジか……ッ!?)


 矢の素材はカーボンとも違う。なんだか見ていると心まで不快にさせる黒い矢柄だった。


 カーンッ! カーンッ!


 続けざま、刺さった矢の下に、2本の鏃がタテに壁を貫いた。

 明らかに負傷者の命を追いかける精密さがチハヤを恐怖させた。それにしても、車両はすでに時速数十キロで動いている。どうやって同じ座席を直線上に精密射撃してるんだ。


「くそったれ、窓ぎわに近づいて確かめたくもねーやっ」


 チハヤは、頭を低くしたまま、床に横たえた負傷者の手をどけて傷口を見せてもらう。

 押さえた白いハンカチはすでに赤黒く染まっていた。ハンカチをどけると直径8㎜前後の穴。息をするたびに鮮血が押し出されてくる。あの矢を自分で抜いたのか。

 背後を確認したが貫通した様子がない。鉄板を貫く矢をとっさに筋肉で掴み止めたのだろう。そういうはがねの腹筋をしてる。優しげな顔に似合わない武術熟練者らしい。


「なんで抜いたのっ?」小声でチハヤは文句を言ってやる。

「血を……追ってくると、思いました。おかげで少し、遠回りを、しすぎたようです」


 嘘だとわかった。刺されたばかりなのだ。そこら辺に抜いた矢が落ちていた方がむしろ自然だ。


「これ、ボウガンじゃないよな。傷の直径がそこの矢とぱっと見で適合しそうだ。初弾、どこで撃たれたわけ?」

「……」


 言いたくないか。ま、いいけどさ。チハヤは開いたバッグから使い捨てのゴム手袋をはめ、消毒液と止血パッチを取り出す。消毒液で傷口と血を洗い流し、止血パッチのセロファンを剥がして脇腹に押し当てる。強く。

 男性は短く呻いたが、それはチハヤだけに聞こえた程度。


「病院には。行く気ある?」

「残念ですが、諸事情でこの傷を警察に報せたくないのです」

「でも、シーフーっ!?」


 女子小学生が強く抗議してきた。頭が浮きそうだったのでチハヤが押さえ込む。

 男性は少女を強く見つめて顔を振った。

 彼が守りたいのは自分の命より、この娘。なぜか、そんな気がした。


「オッケー。幸い急所は外れてると思う。歩ける状態じゃないけど、あんた達どこまでいくわけ? まさかこれから〝夢の国〟まで遊びに行くってわけでもないんだろ?」


「船堀です。そこからなら知り合いのタクシーを呼べます」


「なら持久戦だね。住吉、西大島、大島、東大島の四つの駅までにあの気色悪い矢が尽きて、追っ手がこの車両に入ってこないことを祈りな。あたし割と豪運もってるから、荒川を渡るまでここにいてやよ」


 男性を床に仰向けに寝かせて、体重を乗せた掌底で患部を圧迫する。男性は苦痛の呻きもなかった。別の心配をし始めた。


「車掌さん……来ますかね」しーふーが柳眉を困らせて言う。

「来るだろうね。だから。──ちょっとあんた。ぼけっと突っ立ってないで。あたし今、手ぇ放せないんだからさ。そこに流れた血、拭いといてよ?」


「は、はいっ」

 消毒液とバッグから厚手のティッシュを片手で箱ごと女子小学生に渡して、床にこぼれた血の跡を拭き取らせる。

「お若いのに、応急処置、手慣れていますね」


 男性が話しかけてくる。気絶しないよう努めてしゃべっているようだ。チハヤは彼の脂汗ではりついたほつれ髪を払ってやりながら、


「うちの弟がちょっと頭おかしくてさ。よく刃物振り回してケガするわけ。そのキズが大人にもバレそうなレベルになってきたから、自分たちで処理するようにしてた。悪いね。大したことできなくて、まだ2年目の駆け出しなんだ」


「看護師さんなのですか」

「ううん、中2」


「えっ。これは……失礼を」なんの失礼かは聞かなくてもわかる。


 そこへ車掌乗務員がやって来た。ツイてる。知り合いの小松だった。

 若い車掌はあたしを見るなり、反射的に苦り切った顔で回れ右しそうになった。


「小松っ、伏せろ。外から矢で攻撃されてるっ。ちょっと面倒に巻き込まれてくれー」


 車掌は頭を低くし、中腰でそばまで寄ってくると、隠し事をするみたいに声をひそめた。


「勘弁しろよ。チハヤ。これ見て職務中なのわかんだろう。傷病人は報告義務があるんだって!」


「わーかってるって。通報はしてくれていい。けど、東大島駅を出た後でな」

「だからっ。そういう手心が後で問題になるんだって! ヘタすりゃオレの首が飛ぶっ」

「なら、黙ってりゃいいじゃん。何も起きなかった。見なかった。それでいいじゃん」


「お前。オレを失業させる気かよ……リセと婚約したばっかだぞっ」目がマジになった。


「頼むよ。この二人は船堀で降りる。それはあたしが保証するよ。てか、あたしもそこで降りるから」

 チハヤは遠巻きに奇異な視線を向けてくる乗客に両手を振った。


 カーンッ! 4本目の矢が走行列車の壁を貫いた。背筋が寒くて敵わない。


「みなさーん! すみませーん。この親子が悪いヤツらに追われてるみたいなんです。ですんでぇ、知らん顔してていいですから他の車両で人垣作っててくれますかあ。あー、そこの男子。スマホの動画投稿は勘弁してやってよ。敵に見られると足ついちゃうからさあ。今日だけ我慢してやってー」


 いろいろしゃべって笑顔で無事をアピール。乗客はなんだかよくかわからないが、危害がなさそうだとわかると協力してくれる気になったらしい。他の車両に移っていく。まあ、都営新宿線はすぐに席が埋まる車両だ。残り三駅。そこから入ってくる乗客には説明が難しい。座れるならせっかく空いてるスペースは有効に利用したいというのも、わかる。


「チハヤ……恨むからな」車掌乗務員が上目遣いでにらんでくる。


「だから、ゴメンて。ほんと応急処置はしたし、シートや床の血糊もきれいに拭いたから。な? しばらくは大丈夫だって。ねえ、しーふー?」


 名前だと思ってた呼んだら、驚いた顔をされた。名前じゃないらしい。中国語は知らん。


「すみません。車掌さん。船堀までお騒がせしますが、よろしくお願いします」


 きれいな日本語だ。顔立ちもきれいだ。車掌を黙らせる説得力にはカンペキだ。

 小松は車掌室への戻りぎわ、あたしの肩をはたいていった。ってぇな。なんの肩パンだよ。


「あ、あの……ありがとう」

 少女が瞳を潤ませながら、あたしを見てくる。


「まあ、これも何かの縁じゃん?」

 笑顔で応じて頭を撫でてやる。女子小学生は顔を真っ赤にして照れた。

「ううん。ぼく達を信じてくれて、ありがとうってこと」


「ああ、そういうこと……。んっ?」

 ぼく……?

 いや、きっとそういう趣味嗜好の子なんだ。ほら、ここ東京だしさ。


   §  §  §


 それから東大島駅までの四つの区間で、チハヤのいる車両に不審人物が乗ってくるようなことはなかった。ただ入ってくる乗客は床に横たわる人物を見るなり、慌ててその場を立ち去っていた。だが図太いのがいて、車両の遠巻きに座ってスマホをいじるおばちゃんもいる。


 壁に突き刺さっている矢は、7本。攻勢がやんだ。撃ち止めだと思いたい。

 それから荒川の鉄橋にさしかかった直後、矢が黒煙に変わって消えた。穴も残らなかった。


(ようやくウイリアム・テルの圏外に出られた……ことにしてくれ)心臓に悪い。 


「なあ。あのっ、あのさ……っ」

 荒川を通過中に、さっきスマホ撮影しようとした男子高生二人組が車両に戻ってきて、チハヤに声をかけてきた。


「今、二つ向こうの車両にダチがいてさ。そいつから連絡ライン来て、こんなの送られてきたんだ」


 そう言って、スマホを差し出された。

 画面上にサラリーマン風の男二人。一見して、スーツを着た普通の営業マンに見える。けれど、ふたりとも黒い革手袋をしている。しかも、おそろ。偶然ということもあるが。


「いつ。駅どこ?」

「ついさっきだって。東大島」


 この二人がここの情報を友達に流したのだろう。でなけりゃ、不審人物を直感的に撮影したりなんかしない。だが協力者になってくれたことには、感謝する。画像を被害者にも見せる。


「間違いありません。追っ手です。彼らはプロです。お友達にはくれぐれも、これ以上の深入りはしないよう、お伝えください」しーふーがきびしめの声で言った。


「りょ、了解っす」

「あんがとな。後はこっちで頑張ってみるからさ」


 チハヤが片手拝みすると、男子高生がスマホを持った手を掲げて車両を出ていった。東京男児もなかなか捨てたもんじゃない。自分も江戸っ子だけど。


「なあ。しーふー。今のうち駅にタクシー呼んどいた方がよくね?」

「そうですね。──ドウジ。お願いできますか」

「はい」

 女子小学生がスマホを取りだして、自分のアドレス帳を開く。


蒔絵まきえデコとかゲキしぶ~っ。しかも熨斗のし目に花とか、めちゃセンス高っ)


 そして、画面には膨大な個人名が連なっていた。かかってくるはずもないクラス全員の名前を登録しているのとか痛々しい事をとっさに考えて、チハヤは自爆的に少し傷つい……んっ?


 【 いったんもめん 】


 アドレス帳……妖怪の名前ばっかり。


「……もしもし、イッタンさんですか。船堀駅までタクシーを……ぼくは大丈夫ですが、シーフーがケガをしたんです。……いえ、意識はあります。どうやらぼくが目をつけられていたようで……はい。わかりました。お願いします」


 イッタンは人名として……タクシー。個人タクシーかな。それくらいしか想像できない。


「今、東大島駅でぼく達の姿がなかったから、そんなことだろうと思って、あと一分で船堀駅に着くそうです」


 完全にこの電車追いかけてんじゃねーか。なんなんだそのご都合タクシー。この子のファンか? 

 あたしは、負傷者の止血パッチを取り替えると、厚手の包帯で強めに巻き付けた。


「あのっ……あなたにはとても感謝してますっ」


 女子小学生が両拳を作って、頬を赤らめる。そこまで掛け値なしに褒められるのは久しぶりだ。チハヤも面映おもはゆい。


「いいよ。本職からはお前の処置はお医者さんごっこだって言われてるし。でもそれなら、いつか処置代はもらおうかな」


「はい。お支払いできると思います。一緒にタクシーでおうちまでお送りしても……?」

 とっさに、孤児の虫が騒いだ。ほっといてほしいんだが。


「そういうことは、ちゃんと逃げ切ってから話をしようぜ。ちっ……こっちに来てるっ」


 車両が船堀駅への減速態勢に入った。それに合わせて奥の車両から二人のサラリーマンが連結ドアの窓ごしにどんどん近づいてくるのが見えた。ここの車両から追い出した事情を知ってる人垣のおかげで、進みは遅い。


「さあて。どうすっかな。いざとなったら痴漢被害のフリでもすっか……?」


 敵の接近が先か。列車の駅着が先か。

 チハヤはなぜか、ワクワクし始めていた。

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