第10話 森の遺跡 その二
森のなかの遺跡。
その祭壇に誰かがよこたわっている。うつぶせになっているので、顔は見えない。だが、裸体であることはわかった。月光がその肌を青く染め、神秘的に見せていた。
(満月——)
昨夜、ほとんど丸いと思った月が、今日には完全な円を描いていた。森の端から中天をめざす姿が遠景に見える。
思いだした。
満月の夜には儀式があると、ベルンハルトが手記に書いていた。
この場所が、それだったのだ。神に生贄を捧げたという祭壇。古代の遺跡。儀式を行うにはピッタリだ。
「何が見えるの? 僕にも見せて」
青蘭が言うので、龍郎は「しッ」と人差し指を口元にあてがったのち、青蘭をベッドの上に立たせた。
窓は十五センチ四方だから、二人同時にのぞくにはコツがいる。二人で片目ずつ見る感じだ。
青蘭は龍郎より背が低いので、背伸びしている。そんな仕草も可愛い。龍郎は青蘭の腰に両腕をまわし、支えてやった。
遺跡では、フードの男が呪文のようなものを詠唱していた。何を言っているのかわからない。龍郎がこれまで聞いたことのない言語だった。
人間の発音できるとは思えないような言葉を、男はしぼりだすようにして叫んでいた。
「IA! イア! FUNGUルーイ MUグRUUナフ クトゥルフ ルルイエ UGAFU=ナグール FUTAGUN!」
龍郎は脳髄にちょくせつパンチをくらったほどの衝撃をおぼえた。わからないはずの言語の意味が理解できたのだ。
——死したクトゥルフ、ルルイエの都にて、夢見のうちに待ちにけり——
そうだ。クトゥルフだ。なぜ、今まで忘れていたのだろう?
アルバートがあやつられていたのは、クトゥルフ。そして、ヤツが苦痛の玉の最後のカケラを待っていると、そのとき、感知した。自分はヤツと戦うことを決心した。
(クトゥルフだ! この城にひそむ悪魔の正体——)
そう思った瞬間、森が轟いた。リントブルムの咆哮だ。樹木をゆるがしている。
突風が吹きぬけるように、超低周波の圧力が全身をつらぬいていった。
「青蘭。大丈夫か?」
「平気……」
咆哮とともに、大地がゆれる。とてつもなく
「あれだ」
龍郎はベッドの反対側の窓に移動し、外を見た。樹間を、人間の背丈より遥かに巨大な蛇が地を這い、こっちへむかってきていた。高さだけで人の身長を超えるのだ。全長がどれほどあるのか想像もつかない。
(リントブルムだ)
伝説のリントブルムは蛇形のドラゴンだ。おそらくはこの地をくねる巨体を目撃した者が、すさまじく著大な蛇だと吹聴したのだろう。
だが、それの正体がなんなのか、龍郎にはわかった。
触手である。クトゥルフの触手が谷底のどこかから、山全体を抱くようにして這いあがってくる。
あッと青蘭が声をもらしたので、龍郎はもとの位置に戻った。遺跡の見える窓にとびつく。
祭壇の上で生贄に捧げられた少年が、今まさに邪神の触手にとらえられている。
先端でも人間の胴まわりより太い触手が、くねりながら少年の全身に巻きつく。吸盤がいくつも白い肌に吸いつくのが見えた。そのなかの一つは変形して長く伸び、少年の足のあいだに消えていく。
少年が弓なりにそって、愉悦に狂う。何度も嘔吐しながら、としゃぶつを祭壇脇の水瓶にまきちらしていた。
いや、魚だ。吐くたびに、魚や軟体動物のようなものが口からとびだす。
見ているだけで、こっちが吐きそうになる光景だ。
(人魚だ。人魚を生まされてる)
クトゥルフは淫欲の悪魔だ。生殖し、自らを増殖させることが存在のすべてだ。それが宇宙規模であるがゆえに、抗いようのない原初的な本能なのだ。
あんなことをされたら、それは、人間は狂ってしまう。精神を破壊され、よくてヴィクトールのように記憶喪失だ。忘却しなければ生きていられないと、彼の心が判断したのだろう。
助けてやりたいが、ここから出られない。どうにかできないだろうか。
そう言えば、扉の蝶つがいが古びていた。あそこを壊すことができれば……。
とにかく、とりあえず全裸のままだ。急いで服をまとう。
「青蘭。君も服を着て」
「うん」
すんなり会話が成立している。さっきから言葉も日本語だ。青蘭の記憶が戻っているようだ。
「青蘭。あれと戦うよ?」
「うん。アイツがほんとに狙ってるのは僕なんだ。僕にアイツの卵を生ませるつもりだ」
そんなことはさせられない。
今ここで、絶対に倒さなければ。
しかし、さびついた蝶つがいが思いのほか固い。何度も体あたりするが、いっこうに壊れるようすがない。
すると、外からカタカタと、何かが扉をゆらした。触手が這いながら地面を打つときの振動のせいだろうか。
もっとゆれて運よくかんぬきが抜けないだろうかと、安易な期待をこめて見つめる。と、まるでその願いが通じたように、キキイと扉がひらいた。
(えっ? なんで? まさか、今このときにヨナタンが来たとか?)
いや、違う。
キイキイと風にゆれるように動く扉のすきまから、何かが入りこんでくる。スルスルと地を這う姿は蛇のようだが……。
「クトゥルフだ!」
扉が大きくひらき、触手がとびこんでくる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます