備えあれば患いなし

ビジネス(前)

 とある昼過ぎ。


「へくしょん!」


 車の後部座席に乗って移動中のミソラは大きなくしゃみをした。

 そんな彼女に「風邪でも引いたかい?」と運転中のマネージャーがルームミラー越しに心配そうな顔を覗かせる。


「大丈夫、ちょっと鼻がムズムズしただけだから」


「本当に大丈夫か?」


「大丈夫だって、きっと誰かが私の噂でもしてるんでしょ」


 彼の様子は少し過保護すぎるような気もするが、事務所でトップを張る稼ぎ頭のアイドルの面倒を見る身からすると、どれだけ心配しても足りないのかもしれない。

 星の数ほどにある芸能事務所の中の、更に数ある仕事の中で随分と厄介な仕事に就いた上に厄介な少女――こと自分――に振り回される辺り、彼も随分と運の無い男だなぁ、とミソラは肩をすくめた。


「ならいいが……。ところで――」


 彼は心配そうな表情を浮かべ続けながら、


「あの件、本気なのか」


「全部冗談でしたって、言ってほしいの?」


「……」


 沈黙が車内を支配する。

 その時間は赤色に灯った信号によって、二人には永遠にも感じられた。


「私は本気よ」


 それからしばし後、車内を包んだ気まずさを切り裂くようにミソラは強く言う。


「そうか……」


 マネージャーは大きなため息を付きながらハンドルを人差し指でとんとんと叩く。それは彼が話の切り出し方を考える時の癖だった。説得に関することだろうか、言い出しにくい話があるらしい。

 こういう時は毎度気を利かせて、元凶たるミソラから聞くのが通例となっていた。


「また社長と揉めたの? 私の事で」


「それはいつもの事だ。君が気にするような事じゃない」


 傍から見ると未成年アイドルのマネージャーなんて犯罪者一歩手前に見られているのかもしれないが別にそんなことはない――二日ほど前にミソラの同級生に警戒されたことで彼は随分落ち込んでいた――彼は人柄が良く頼りがいのある好青年で、高校卒業後直ぐに就職したためまだ若く社会経験には乏しかったが、その実直な性格によってミソラのみならず彼女の家族からも信頼を勝ち得ていた。


 この二人、元新人マネージャーと元新人アイドルは強い信頼関係で結ばれているのだ。そして、そうした関係の中で「美咲ライカ」という名のブランドの方針を巡っては千崎ミソラという人間の意見を重視する彼と、利益を追求する社長とで衝突することが多く、


「いつもの事、ね」


 彼は芸能界という特異な世界の中でも、或いは社会一般的に見ても、まだ若く未熟だ。にもかかわらず彼が人気アイドルのマネージャーという傍からは輝かしくも見える職で負っている責任や負荷は途方もないほどに重く、そんな現状にミソラは負い目を感じていた。


「それで、何を話したいの? 言いたい事を直ぐに言わないのは悪い癖じゃない?」


 呆れるミソラにマネージャーは大きくため息をついてから、


「新しい仕事の話だ」


「なんだ、気をもんで損した、最初から断る道なんて無いでしょうに。ライブ以外なら何でも受けますって、前に言ったでしょ?」


「受ける受けないの選択肢はある」


「有って無いような物でしょ。件数こなすのが引退の条件なんだから」


「そんなこと言ったってな、この前のライブだってあんな仕事受けなくて良かったんだ。あれは社長の嫌がらせだ。IPASが介入してくれたおかげて事件こそ起きなかったが、本当どうなっていたことか……」


「嫌がらせでもなんでも、最後のライブになるかもしれないんだから断る道は最初からなかったし。それに、最終的に上手くいって逃げ切ればそれでいいの、それがこの商売でしょ」


「あの社長の事だ、このまま言うことを聞いていたらきっと付け上がるぞ」


「次の契約更新までの辛抱、お互いにね」


「社長……いや、その裏の連中にお互いだいぶ恨みを買った身だ。引退したら、君の身を守れない。どうか、考え直してくれないか?」


「行くも引くも、そんなの針地獄か蟻地獄、所詮は同じ一文字違いよ。そもそも、私の前に自分の心配をしたらどう?」


「そんなことができりゃぁなぁ……。はぁ、先代……どうして逝っちまったんだ……」


「聡明な死人の話をしたって仕方ないでしょ、バカ息子は生きてるわけなんだから。……で、仕事の話って何なの? 今度はストリップショーに出ろ、とか?」


「違う。凄く重大な話だ。君の未来に関する、重要な事だ」


 冗談めかしく言うミソラを咎めるように、彼は強い口調で言った。

 視線の先を足元に落としていたミソラがふと窓の外に意識を向けると、車は地下駐車場に入って行くところだった。どうやら、その仕事の相手が会いたがっているそうで――普段、仕事の詳細はマネージャーが代わりに話を付ける場合が多い――今回の移動も最初からそこに向かっていた様だ。


(やっぱり拒否権なんてないじゃん)


 口では自由があるように言うが、その実、何もかも初めから決まっていると言わんばかりの彼の行動に、頭ではそれが彼の仕事だから仕方ない、と理解はしながらもミソラは少し不貞腐れた。


「格好はどうするの? まさかここで着替えろと?」


「服装はそのままでいい、ウィッグもだ。相手は”正体を隠す高校アイドル”をご所望のようでな」


「ふーん、高校生好きのロリコンじゃない事を願うばかりね」


「会うのは結構なお偉いさんだそうだ。くれぐれも口に出すなよ」


「分かってる。ところで、誰と会うか知らないの?」


「……どこの会社かは知ってるんだがな」


「会社ねぇ。コマーシャルの仕事?」


「いや、今回は……とにかく、話せば嫌でも分かるさ」


 言い出しずらい事を結局言わずに曖昧に「会えば分かる」だの「話せば分かる」だの言うのも癖の一つであり同時に彼の数少ない重大な欠点だ。ミソラからすると、そういう事は早めにはっきりと言ってほしいのだが、治る事は無く仕事の度に一々言っていても仕方がなかったのでこういう時はサプライズを楽しむ羽目になるのだった。

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