資料.2 電子新聞記事
「国際平和記念通りの由来は?」
サッポロ・インターナショナル・ネットワーク社 報道部
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・若者の知らない国際平和記念通りの過去
札幌に住む住民か観光に行ったことのある人なら必ず通るであろう国際平和記念通りは、今年で命名から十年目の節目を迎える。
主に道路部分を指して中央通りとも呼ばれるこのメインストリートの周辺には幾多もの企業の本社ビルが建っていて、世界有数の高層ビル群を形成していることで有名だ。
しかし今の若者、特に十代はこの通りがかつて大通公園と呼ばれていた事を知らない者も多いという。
この国際平和記念通りの名は札幌が国連管理都市指定を受ける前に名付けられた物だが、ではどうしてその名が付いたのだろうか?
本日の記事では解説を交えながら紹介していこうと思う。
・そもそも大通り公園って?
この記事は大通り公園を知らない若者向けなので、まず軽い解説をしようと思う。
大通り公園は西暦2020年まで現在の国際平和記念通り(以下中央通り)の位置に存在していた特殊公園だ。
大きさは東西に約1.5 km、面積は7.89ヘクタールで三車線道路に挟まれるような形で存在していたんだ。
・きっかけは世界大戦
さて本題に入るが、そもそものきっかけは第三次世界大戦だ。この記事を読んでる人なら皆知っていると思うけど、8月8日の全面核戦争「流星の夜」で核兵器が投下された地域には北海道も含まれていた。
当時、第二次日露戦争の真っただ中だった北海道では自衛隊とロシア軍の戦闘が続いてたんだけど、戦争自体は日本国とロシア連邦が崩壊したことでうやむやになってしまったんだ。とはいえ、放射能汚染など戦争が残したモノは簡単には消えてくれなかった。
大人たちがよく口にしていると思うけど、20年代は文字通り悲劇の時代だったんだ。具体的に言うと、食料難に加えて、残された食料や飲み水も汚染され、さらに直前までのロシア空軍による空襲でインフラと医療も崩壊していたことから、とにかく沢山の人が死んでいった。
・北海道を襲った悲劇の時代
皆は死者が大量に出ると何が深刻だと思う?
まあ、色々思いつくかもしれないけど、当時深刻だったのは墓地の問題だった。
全面核戦争から一年で全世界、数十億の人間が亡くなったことは知っていると思うけど北海道でも日露戦争から核戦争を経て一年で、数百万もの人々が亡くなった。
札幌は当時、現在の二倍近い約二百万の人口を有していた大都市で、母数が多ければそれだけ死者も多かった。
大戦による死者の統計は日本政府によって禁止されているため、いまだ明らかになっていないものの、札幌での死者は少なく見積もっても十万人以上だろう、と言うのが研究者たち主流な見解だ。
当時の日本でも遺体の処理方法としては火葬が主流だった訳だけど、これだけ大量に亡くなると当然火葬場はキャパオーバーになってしまう。しかし遺体を放置すれば不衛生な環境になって、病気が蔓延し、さらに死者を出してしまう。
そうした状況下では遺体を泣く泣く庭先で燃やしたり、そのまま埋めたり、あるいは焼却炉に遺体入れたり、穴に遺体を入れてまとめて燃やしたり、悲劇としか言えない状況だった。
そんな状況の中で市民は協力し状況を少しでも良くしようとした。
それが共同墓地の設立。当時の北海道大学、札幌競馬場など、とにかく面積がある所に遺体を埋めることになった。ビルの下に墓は掘れないからな。
この時、共同墓地に埋められた遺体は燃やした骨の時もあったが、ほとんどの遺体はそのまま、つまり土葬の形で埋められた。なんせ、火葬どころか、冬を越すにも厳しいぐらいの燃料事情だったからだ。
・そして国際平和キネン通りへ
ここまでの流れで皆さんも分かっていると思うが、大通り公園もまた共同墓地の場所として選ばれたんだ。
墓地としての利用は新憲法の制定され日本国が日本帝国になった後も続いた。
日本国臨時政府と北海道政府との間で亀裂が生じて、独立闘争へと発展するのはまた別のお話だが、闘争の結果国家事業として北海道の復興が始まって、札幌市も北海道の首都として、第一次区画改正や北海道復興計画などを経て復興が進んでいったんだ。
復興計画の中には、墓地の移設も入っていた。
現在、円山の麓、北海道神宮のすぐ近くにある
墓地ではなくなった大通り公園は、第二次区画改正で墓地として利用されていた公園部分を大規模な道路にする事になったが、観光協会や住民からの要望もあって縮小されつつも公園部分を残すことになった。
そして完成した通りに付けられた名前こそ「国際平和記念通り」と言うわけだ。
・終わり
いかがだっただろうか。
最近、一部に上層公園施設が建てられ、アミューズメント施設としての側面も持つようになった今日、この道は市民憩いの場として、ますます発展していくことだろう。
命名から十年の間に新国連の設立、世界大戦の終結など、情勢も大きく変わった現在、世界は平和な時代へと歩みを進めようとしている。
国際平和の名に込められた市民たちの
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