閑話

ある日

 ――声が聞こえる。あれは叫び声? 唸り声?


 ――とにかく、声はすぐそこから聞こえる。


 ――いや、これは自分の声だ。


 ある日の夜。街灯の無い真っ暗な道に五人ほどの男女が倒れていた。

 皆、血を流している。

 腹から、肺から、頭から。

 動いているモノはその死体たちに囲まれるような位置にいる少女一人だけ。


「あ、ぁ、あぁ。エ……リ、ン」


 少女は辺り一面を覆いつくす血の海を這いつくばりながら、死体たちに囲まれるような位置で仰向けに寝転がっている、エリンと呼ばれた少女に必死に近づこうとしていた。二人の少女はどちらも血まみれで、今にも死んでしまいそうなほどに、その息は絶え絶えだ。


「ぁ、た、すけ」


 エリンは口から絶えずに出てくる鮮血で上手く話せずにいたが、それでも、その声が自分を呼んでいる物だと少女には分かっていた。


 少女は手を伸ばす。

 あと少し。

 あとほんの数センチでその手が届く。


 だが、その瞬間に少女の手からは力が抜け、まるで魂が抜けるようにして体が動かなくなり、そのまま血の海に顔から突っ伏す。


 少女はその血に溺れるのを待つしかなかった。


 その血は少女の体から流れ出たもの。


 その血は彼女の体から流れ出たもの。



 その血が少女の肺をいっぱいにする前に。




 目が覚めた。


「うっ、あ、あぁ」


 シュミットは不愉快な朝に声を上げながら目を開いた。

 ベッドの横にある小さなサイドテーブル、その上に置かれた目覚まし時計を見ると、彼女がいつも目覚める早朝の時間を指している。彼女は何時に寝てもこの時間に起きてしまうのだ。悪夢を伴って。


「ゲホッ、はぁ……はぁ……」


 ベッドから起き上がり、咳交じりの荒い息を整えたシュミットは床に投げ捨てられているシャツや下着を踏みつけながら半裸のままでドアへと向かった。


「眩しい……」


 朝の日差しがカーテンに遮られているので、朝にしては随分と暗い自室から出れば、二階の廊下を照らす暖かな太陽が出迎えてくれる。


 そんな、眠気眼には眩しすぎる朝の日差しを全身で浴びながら階段を下りてバスルームへと向い、脱衣所に着くなり唯一身に着けていたシャツを脱ぎ捨て、冷たいシャワーを全身で浴び、体と意識を無理やり覚醒させた。


 ざっざっと重たい雨音の様に降り注ぎ、体を流れ落ちて排水溝へと流れていく水を見ながら、自分に何度も言い聞かせる。


 アレはあくまでも悪夢だ。現実とは異なる物。実際は、そうでは無かった。


 たぶん。


 もはや、記憶という曖昧な存在の中に悪夢と現実に境界がなくなっている彼女には実際どうだったかは思い出せない。しかし、それは考えないようにしていた。

 気休めとはいえ、とりあえず気持ちを落ち着かせたシュミットはバスルームを後にし、脱衣所で体を拭こうとする。

 しかし、ふと脱衣所の洗面台に設置されている鏡に目が行った。


 そこには当然、自分がうつっている。


 白く細い体と、それを貪るように這う、幾多の刺創、切創、裂創、銃創。


 継ぎ接ぎのような跡の残る右手の指。


 光を失った右目。


 それらは、刻み込まれた彼女の過去。曖昧ではない現実。


「……」


 鏡合わせの自分と向かい合っていたシュミットは次の瞬間、突如として鏡に映る自分に掌底打ちを食らわせる。

 薄いガラスが砕け散るような甲高く大きな音と共に鏡にはヒビがが入り、その一部がポロポロと崩れ去る。残りの、辛うじて壁に張り付いている鏡には彼女の手から流れ出た血が付いていた。


 その音を聞いてか、ドダドタと床と階段を駆ける音がしてから、脱衣所のドアが勢いよく開き、「いったい何の音ですか!?」と寝巻を着た伏見が大声で叫ぶ。

 彼女は割れた鏡と全裸で手から血を流すシュミットという状況に、当たり前だが理解が追い付いていないようだった。


「何があったんですか!? てか、なんで服着てないんですか!?」


「なんでって、ここが脱衣所で、ついさっきまでシャワーを浴びてたからだけど」


「それは見れば分かりますよ! そっちじゃなくて! 私が聞きたいのは、何で全裸で鏡を割ってるの、って方なんですけど!」


「え? ……あっ」


 不意に冷静になったシュミットは、そのドクドクと脈打ちながら赤く染まる血まみれの右手を見つめていた。



「とにかく、見た目より軽い傷で良かったですけど、なんであんな事を」


「……」


 それから少し経って、シュミットはリビングにあるソファーに腰を掛けて手の治療をしていた。


「映画の演出で見る分には鏡が割れるのってカッコいいですけど、実際やられると迷惑以外の何物でもないですね。全く」


「悪かった」


「別に謝らなくてもいいですよ」


 シュミットの身に着けている包帯で作られた眼帯は、いつもその表情の半分を隠してしまう。しかしながら、そんな状態でも彼女が落ち込んでいる事が良く分かった伏見はそれ以上に冗談を言うことも、責めることもしなかった。


「……その、昔さ、育て親が言ってたんだ。鏡を見るのが怖いって」


 自分の手にガーゼと眼帯用に買っていた包帯を巻き、その上から毎日使っている愛用の革手袋を履くと、手をグーパーと開いて痛みを確認しながら、不意に口を開く。


「その人を同じで鏡が怖くなった、ってことですか?」


「僕もてっきり鏡が怖いんだって思ってた。でも……」


 シュミットはくたびれたウィンドブレーカーを強く抱きしめると、くしゃくしゃになったままの状態でワイシャツの上から羽織ってソファーから立ち上がり、


「はぁ。今日の朝食は何がいい?」


 その続きは言わずに、大きくため息をついてから話を切り替えた。


「えっ、その手で料理できるんですか?」


「別にフライパンぐらい何ともない」


「今日はいいです。コンビニで何か買ってきますよ」


 それを聞いたシュミットはキッチンに向かう足取りを玄関の方に変える。


「あ、コンビニに行くんですか?」


「いや、今日は歩いて学校に行くよ。いいだろ?」


「別に止めませんけど」


 シュミットは携帯デバイスだけポケットに入れて、玄関で茶色いハンティングブーツを履くと家から出た。二人の住む家は琴似区西側の川沿いにある一軒家で、学校からは近くは無いが別に歩いて行けない距離では無かった。


「はぁ……」


 歩道を歩くシュミットは右手を見ながら今朝ことを考え、深いため息をつく。恐怖や殺気を感じた物に対して、攻撃を加えるのは無法地帯ダークゾーンで生きてきた彼女の体に刻み込まれた反射的な行動だ。

 しかしながら、これまで無機物である鏡を殴った経験などは無く、自分の行動でありながら、その行動を起こした自分自身に困惑していた。


「知ってる? この前オープンしたばっかりのカフェ。昨日さ、宗谷先生と話してたんだけど――」


 木々のざわめき、電気自動車のエンジン音、或いはドローンのモーターが奏でる環境音の合間、俯きながらとぼとぼと歩くシュミットの耳に、宗谷と言う聞き覚えのある名前を挙げる声が届く。

 目を凝らしてみると、彼女が歩く道の真っすぐ先の交差点で信号待ちをしている桜鳥の生徒数名がいた。


「あれ! シュミット先生だ!」


 思わず別の道に行こうかと考えた時には、生徒の中の一人に存在を気が付かれて、声を掛けられてしまった。


「おはようございます!」


 挨拶をした生徒たちは一年生で、シュミットは彼らの名前をまだ覚えきれていなかったが、声を掛けられた以上無視はできないし、ましてドイツからきた眼帯教師と言う無駄に目立つ個性の手前、人違いで誤魔化すことも出来ずに、


「あぁ、おはよう」


 と、悩みを悟られない様にポーカーフェイスを作ってから交差点まで歩き、生徒たちに挨拶した。


「シュミット先生ってこの道、よく通るんですか?」


 集団の中の一人、男子生徒が話しかける。


「え? あぁ、いつもは車なんだけど、今日は気分転換にと思って」


「へー」


「……」


 そこで会話が途切れてしまう。シュミットは年下の子供と、こういった時にどういう話をすればいいのかが分からなかった。


「……ずっと気になってたんですけどシュミット先生って料理得意なんですよね? って言うことはやっぱりお昼はお弁当なんですか?」


 そんな沈黙を気まずく思ったのか、今度は女子生徒が話しかける。


「えっと、僕、昼ご飯は食べないんだ。だから弁当も持ち歩かない」


「シュミット先生もしかしてダイエット中なんですか?」


 実のところダイエットでもなんでもなく、胃が傷ついているせいで食事を取れないだけなのだが、さすがに言えずにできる限り笑顔を作って少し痩せようかと思って、と嘘をついた。


「先生、ダイエットで食べないのって、確か逆効果なんですよ!」


 食事を少ししか取れないせいで日々体重が減り続けているシュミットの笑顔は、だんだんと苦笑いに代わってゆく。


「へ、へぇ。そうなんだ」


 さすがにこれ以上は耐えられないと思い、シュミットは学校に急ぎの用事が有るのを思い出した、と言って青信号になった途端、逃げるようにその場を去った。


「つくづく、僕は先生って柄じゃないな……」


 本当なら楽しい話を一つや二つして、場を盛り上げるのが良い教師の接し方なのだろう、と考えつつも同時に自分がそういう事を出来るタイプではない事も知っているために、生徒との会話は彼女の抱える悩みの一つだ。

 そんな悩みを抱えながら生徒たちを振り切って数分後、学校に到着したシュミットは玄関の前でゲホゲホと少し苦しそうな咳を交えながらも、数秒で呼吸を整えてから校内に入った。


 この日、彼女が担当する授業は一年と二年生が午前に一時間ずつ。全く授業が無い日もざらにあるので、今日は比較的忙しく、黙々と仕事をこなしていると、気が付けば昼休みになっていた。


「で、なんでキミら居るの」


 シュミットは昼休み中に授業で出した課題の点数を確認していたが、なぜか待機室内で昼食を食べている正多と史家に対して苦言を呈した。


「今日ロッテが女子とご飯を食べてたから、史家とどうする? って話になったんです。俺は別に教室で食べてもよくない? とは思ったんですけど」


「それじゃ寂しいだろ」


 史家は正多の解説に対してセリフのような感じで口を挟む。


「と、言い出して、部室に行ってみたものの」


「あの殺風景な部屋に男二人じゃ、やっぱり寂しいだろ」


「と、なってここに流れて来たんです」


「はぁ、そうか」


 その解説でなぜ待機室に来たのかは分かったが、二人が来ても何も嬉しくないので、二人に聞こえるように大きなため息をつく。


「やっぱり迷惑ですよね。ほら史家、教室で食うぞ」


「……いや、待て。別に追い出したりはしないさ」


「ほんとですか!」


 ふと、今朝の一年生との会話の事を思い出したシュミットは、せっかくだからこの二人を使って若者と会話の練習をしようと思いついた。


「あぁ。紅茶でも出すよ。ミルクは入れる?」


「いいんですか? なら俺は前と同じくミルク抜きでお願いします」


「シュミット先生の紅茶! 俺は有りで!」


 手を止めたシュミットは簡易キッチンへと向かい、手早くお湯を沸かすと、ティーポットに茶葉を入れ、三つ出したカップの内二つに牛乳を注ぐ。


「なんていうか、紅茶ってあんまりドイツっぽくないですよね」


 そんな背中をソファーに座りながら見ていた史家が疑問に感じて話始めた。


「ミルクティーってなんだかイギリスっぽい」


 シュミットは最初それを無視しようとかと考えたが、練習のことを思い出して話を一生懸命考えてから口に出してみる。


「あー、その、育て親がグレートブリテン島の出身で」


「えっ、そうなんですか?」


 その言葉に正多は興味深そうに食いつきシュミットは中々好感触だ、と考えてこの話を続けることにした。


「あの人は旅人でね。偶然出会って拾われたんだ。英語もその人から教わった」


「紅茶の入れ方も?」


「そうだよ」


 史家の疑問に答えた後、紅茶をカップに注ぐと二人の下に紅茶を届けた。


「おぉ! ミルクティーだ!」


「他に何を作ってると思ってたの?」


「いやいや、そういうわけではなく……おいしい! シュミット先生すごいですね! 料理も、お弁当も作れて、紅茶まで入れれるなんて!」


 史家はミルクティーを飲みつつ、シュミットを褒めちぎった。


「やけに褒めてくれるね」


「そりゃ、俺シュミット先生の事好きですし」


「それは嬉しい。でも、どれだけ褒めたって君が0点を取ったことは変わらないよ」


「え、0点? 別にそういうつもりじゃ」


 史家は驚いたように反応するが、シュミットは机の上にあった紙製の答案用紙を二人の方へ向ける。


「それで、今後の補習についてなんだけど……」


「あ、お、俺ちょっと部室に忘れ物したかも!」


 ミルクティーを飲み終えた史家はわざとらしく言うとソファーから立って一目散に待機室から出て行く。


「逃げ足はっや……」


 驚くべき速度で待機室を後にした彼の背中を見て、思わず驚きの声を上げた正多も、紅茶を飲み終わると礼を言ってから教室に戻った。


「結局あんまり話せなかったな」


 シュミットは静かになった部屋で一人小さく呟き、あの話題を振ってしまったのは間違いだった、と反省しつつミルクティーを飲みながら作業を再開した。


 それからまたしばらく経って、日が傾き始めた夕暮れ時、シュミットは他の教師たちよりも一足早く帰路につき、学校付近のスーパーマーケットで合流した伏見と共に夕飯の食材を買っていた。


「そういえば、手の傷、大丈夫ですか?」


「心配してくれるんだ」


「ごはんが食べれなくなったら困りますから」


「傷ならこの通り」


 シュミットは焦げ茶色の革手袋を外すと、手にグルグル巻きになっていた包帯を外し、血の跡のついたガーゼを外した。


「うわ、もう治ってる」


 シュミットの手はツギハギのような痛々しい傷の残る右手を見せる。しかし、今朝その手から出ていた鮮血は止まっていて、切り傷は瘡蓋の様に手に付いている血の跡を除けば完全に治っていた。


「昔はこんな傷、一時間ぐらいで治ったんだけど。僕も歳だな」


「実際に見ると……いえ、とにかく治ってるならいいんですけど」


 伏見はシュミットの怪我の治りが早い事は知っていたが、実際に僅か半日でバッサリと切れていた傷がすっかり無くなっているのを見て、正直気持ち悪いと思いながらもそんな自分の思考から意識を逸らす為に、首を動かして店に並ぶ陳列棚を見た。


「あっそうだ。今晩はグラタンとかどうでしょう?」


 そこにはマカロニが置いてあり、傷の話を逸らす様にとりあえず思いついた夕食の話をシュミットに振る。


「グラタン? まあいいけど。家に玉葱とチーズはあったから、鶏肉とホワイトソースとパン粉と、マカロニを買って……」


「そういえばこの前グラタンを作った時、次に作るときはアスパラ入れてくれるって約束しましたよね」


「そうだっけ。僕入れたくないんだけど……」


「入れましょうよ。いい歳して好き嫌いなんてダメですよ」


「別にそう言うわけじゃ」


 反対していたシュミットに意見を押し通すために、棚からとったマカロニを勢いよくカゴに入れた伏見は引っ張るようにして野菜売り場へと向かった。


「最近、シンジュクアスパラってのが話題なんですよ。広告が沢山出てて、一度食べてみたかったんですよね~。グラタンに入れたたら絶対美味しいですよ!」


「シンジュク? えっと、新しくて……熟してないってこと?」


「新宿は地名ですよ。昔あった東京って場所の地名です」


「えっと、確か東京って日本の古い首都だったはずだけど、そんなとこでアスパラガスを作ってるの?」


「東京が吹き飛んだ後、残った瓦礫を撤去して、その跡地に大規模な農業区画を作ったんですよ。そこで作られたのが件のシンジュクアスパラ、と言う訳で」


「へぇ」


「徹底的に管理された環境で育ったアスパラで、値段こそ高いけど、味は相当いいらしいですよ~」


「そんなに高いものを買おうとしてるの?」


「ごほん。それは置いておいて、ここがお野菜のコーナーで……」


「えっと、伏見が食べたい奴、無くない?」


 値段を誤魔化す様に話を逸らそうとしたのだが、野菜の陳列棚にはぽっかりと穴が開いたように一列だけ何もないスペースがある。そこで売られていたのはシンジュクアスパラで、棚に備え付けられた小さなパネルには在庫なし、と表示されていた。


「あぁ~そんなぁ~」


「アスパラはまた今度だな」


「はぁ~」


 相当食べてみたかったらしく、伏見は肩を落として大きなため息をついた。



「あーあー。アスパラ食べたかったなぁー」


「まだ言ってる、キミいくつ? 12歳?」


 夕暮れの道を歩くシュミットは左側をチラリと見て、店を出てからもアスパラのことばかり言う伏見に呆れたように言った。


「22ですよ!」


「僕からすれば似たようなもんだ」


「今の老人みたいなセリフですね。って……ん? あの公園にいる三人組って」


 子供扱いされたことに抗議の声を上げた伏見だったが、ふと道から見える公園にひとだすけ部の三人組が居ることに意識が向く。


「あの三人、また猫探しでもしてるのかな」


「おーい、そこの三人~! 奇遇ですね~!」


 面白そうだと思った伏見は手を振りながら琴似第三公園に入っていった。


「あ、伏見さんだ」


 最初に伏見のことに気が付いた正多が反応し、


「ほんとだ。って、シュミット先生もいる!」


 ベンチに座っていた史家はシュミットの姿を見るなり立ち上がる。


「キミたち何してたの?」


「私たち、今日は犬を追いかけてたんです!」


 シュミットの質問に、ロッテは今日の部活動であったことを二人に話した。


「逃げた犬を追いかけるなんて、漫画みたいっすね~」


「あ、そうだ。シュミット先生、これ要りますか?」


 正多はそう言うとベンチに置いてあった袋を差し出す。


「ん? 何これ……アスパラガス?」


「さっき、その犬の飼い主さんから貰ったんですけど、俺たちじゃ使い道が無くて困ってたんです」


「へー。アスパラ……あ! これ!」


 伏見がレジ袋を開くシュミットの肩越しに中身を見ると、それはまさについさっき売り切れで買えなかったシンジュクアスパラだった。



「持つべきものは、良く分からない部活の顧問やってる同居人ですねぇ~」


 食卓の上に置かれた、あたたかいグラタンを頬張りながら伏見は機嫌よく言う。


「あのアスパラは三人が貰ったものだし、お礼しないと。……そうだな、何かお菓子でも作ってあげようかな」


 伏見の対面に座って、同じくグラタンを食べているシュミットは何を作ってあげようかな、と頭を捻らせた。


「お、いいですね~、手作りのお菓子。クッキーとかケーキですか? 知っての通り私は甘い物好きなんで、今からもう楽しみですよ!」


「いや、キミの分は無いけど」

















 ――昔から悪夢は隣にいた。


 ――小さいときは飢えに苦しむ夢。まあ実際に空腹ではあったけど。


 ――その次は兄が死んだ日の夢。


 ――その後は愛する人や家族と呼べる人たちと出会ったおかげか、悪夢を見なくなっていた。


 ――みんな殺されるまでは、だけど。


 ――そして、最近はあの日の夢を何度も見ている。


 ――ある秋の日、僕の、愛する人が殺された日。


「エリン、エリン、エリン」


 少女は血の海を這いつくばりながら必死にその名を呼ぶ。


「ゲホッ、ゲホッ。た、す、け」


 苦しそうに息をして、時折咳のように鮮血を出すエリンのところまで少女は来て、胸元に空いた穴から流れ出る血を止めようと、両手で強く傷口を抑えつけた。


「ゲホッ、ごぼっ、ゲホッ、ゲホッ。…………だい、じょうぶ。ここは町から近い、きっと……すぐに誰か来てくれる……」


 少女は咳と血を吐きながら、まるで自分の意識が深い闇の中に落ちてしまいそうな感覚に一瞬陥る。それはすなわち、自分の体が段々と死に近づいている、ということだった。


 口から嘔吐物の様にドス黒い血が流れ出ているので、胃のあたりには大きな穴が開いていて、もしかしたら腸が外に出ているかもしれない、と考える。

 しかし、少女にそれを確認する勇気は無かった。


「……も、し、にそうだよ」


 エリンは自分が死の淵に立っていることを知りつつも、少女の頬に手を当てて心配するように声をかける。


 ――やめろ。


 エリンはその青い瞳から涙を流す。

 少女はその涙が痛みからなのか、死への恐怖からなのか、それとも少女のことを心配をしているからなのか分からない。


 ――やめてくれ。


「僕は、いい、から。……とにかく、がんばって」


「さむ……い。こ……わい、よ」


「だいじょうぶ。きっと、ミハイたちが来てくれる」


 少女はすぐには助けが来ないことを分かっていた。

 二人が襲われた場所は町と町の国境付近。周辺情勢がきな臭い中で、ここに自警団が来るとは思えなかった。


 ――聞きたくない……夢なら……早く……覚めて……。


「ゲホッ、くる……し、い」


「だいじょうぶ、だいじょうぶ」


 勢いよく吐血するエリンを少女は抱きしめながら声を掛け続ける。


「……わ、たし、死にたく……ないよ……」


 その言葉を残し、月明りが照らす彼女の青い瞳からは光が消えてゆき、まるで魂とやらが抜け落ちてしまったように体から力が抜けているのが分かる。


 ――助けて……誰か……。


 でも、少女は彼女の手を取ることができない。



 何もかもが、ぼんやりとした意識の中に落ちていく。




 そして、目が覚めた。

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