蟹の立つ屋上で待っている

Wkumo

屋上にて

 薄曇りの冬空の下、俺と彼女はフェンスにもたれて立っていた。

 寒すぎる、と俺。

 そう? と彼女。

 そうじゃない、と思うが言わない。

 本当は受け流してほしかった。けれどそれをわざわざ言って雰囲気を悪くするのも得策とは思えなかったので黙る。

 三階建ての校舎の屋上はうんざりするほど寒く、背をもたせかけたフェンスが体温を奪っていく。

「Kくんは考えすぎだと思うよ」

 唐突に彼女が言ったので、そちらを向く。

「MHと剣の話は聞いたよ。何がしたかったのはわかる。でも、何がそんなに苦しかったのかはわからない」

「何を……?」

「一つの生き方に拘りすぎなのよ。それ以外に生きる道はないとでも思ってたの? あなたが懸想してたお嬢さんは生憎、あなたを助けに来てくれるほど剣に生きちゃいないの」

「いったい何の話を」

 屋上の風に吹かれ、彼女は何重にもぶれて見えた。俺は自分の手を見る。自分の手もまた何重にもぶれていた。

「ストレイシーブ、お可愛そうに。す」

「僕は」

「お可愛そうに」

 数え切れない数の彼女が、数え切れない数の俺に話しかけていて、数え切れない数の俺が答えている。肝心の俺自身はそのことに戸惑って言葉を発せないでいる。

「いつもいつも同じことばかり。連れ出す勇気もないくせに」

 彼女の方はさまざまなことを同時に喋っているようだが、俺にはひとつしか聞き取れない。聖徳太子は十二人の人の声を一度に聞けたというが、俺には。

「興味が持てないわ。燃やせばすぐに壊れてしまうような文化。情念だ情念だってうつろいゆくものばかり見て、風流とか粋とか言って暗黙の了解を愛でたって、説明してくれなきゃわからないわよ。結局は仲間内で面白がってるだけ。他者にはわからない。あなただってそれが苦しくてこんなことになったのではないの。こんなところで、私と二人で、屋上の隅っこで、言葉の嵐に付き合って。壊してしまわなければいけないの。潜ってしまわなければいけないの。察する文化に引導をあなたが、今、」

 言葉が途切れる。彼女の姿が見えなくなる。

 蟹。

 空から降ってきた蟹が彼女のいたところに立っていた。

 蟹は通常のサイズより少し大きく、苦労して見上げないとてっぺんが見えないくらいの大きさだ。

 少しだけ彼女の言葉に心動かされていたところだったので、話の続きが聞けなくなったことを残念に思った。

 大蟹はそこに鎮座したままハサミをゆっくり開閉させている。

 自分の手を見る。手だ、手しかない。

 しゃきんという音に顔を上げると屋上のフェンスがばらばらになっていた。蟹がはさみを開閉させるうちに切り裂かれていったらしい。

 彼女がいなくなって、今ここに蟹がいる。

 それだけが確かに感じられる現実だ。

 蟹、誰だったか、蟹が嫌いな小説家がいたような気がする。

 金張りの家に住んでいて、空虚だと言っては自分を磨いていたそうだ。

 彼女はその小説家のことを大層嫌っていた。そんな彼女は今、蟹の下にいるのかいないのか。

 潰されてしまったのなら血でも出てきそうなものなのだが、そんなものは全く見えない。

 彼女が蟹に変わった、と言われても納得してしまいそうな雰囲気だった。

 空は真っ暗で、灰色の風が屋上に吹き付けている。

 蟹に近づくのは危険そうだった。何を考えているかわからないからだ。



 昔から、甲殻類の考えていることはわからない。

 以前にも、友達の友達が海老を学校に連れてきたことがあった。

 海老は体育の時間にコースを逆走したので、怒った先生が給食のシチュー鍋に投げ入れてしまった。

 海老の通常サイズは三歳児の身長ほど。友達の友達が連れてきた海老も例にもれずそのくらいの大きさだった。だもので、給食のシチューは鍋からあふれ、床に流れだしてしまった。

 海老のいい香りがした。

 先生はあふれたシチューを全て自分の皿によそい、俺の責任だからな、と言って食べた。

 それを見た友達の友達も、

「俺にも責任がありますから」

 と言って、残ったシチューを全て食べた。

 次の日、友達の友達は学校を休んだ。

 たまたま日直だった俺はそいつの家までプリントを届けにいったのだが、インターフォンを押しても誰も出てこない。

 仕方がないので、プリントは扉のポストに投函しておいた。

 帰ろうと後ろを向いた瞬間、がちゃんという音と、ざりざりと何かがこすり合わされるような音がした。

 振り返ると、赤いハサミのようなものがポストから突き出ていて。

 うごうごと動き、何かを探しているような様子で。

 そうか、と呟くと、俺はうちに帰った。

 彼は責任を取ったのだ、と後に友人から聞いた。



 そんな記憶は今まですっかり忘れていた。

 目の前では蟹のハサミがうごうごと動いている。

 忘れたままの記憶というものは、普段は思い出せない。存在自体がないようなものだ。

 いくら強烈なことが起こっても、記憶はいずれなくなってしまう。そうしていつもの日常に戻る。

 強烈なことは確かに重みのある記憶で、色々なことを考えたりもしたのに、ある日いつの間にか意識からなくなっているのだ。

 自分ではそれがなくなったことに気付けない。ないな、と感じてはいるが、何がなくなったのかわからない。

 強烈な記憶が残した癖だけが思考を縛り、記憶自体は消え失せる。

 そんな風だから、俺は普段自身のことを「薄っぺらくて何も背負っていない、ぺらぺらの紙みたいなやつ」と感じながら過ごしていた。

 しかし、ふとしたとき、なくなったと思っていたはずの記憶が到来して、俺を三次元的記憶の嵐に呼ぶ。

 拒否権はない。準備する間も与えられず吸い込まれる。

 嵐の中にいるとき、俺から周りは見えないが、周りからは俺が見えている。

 異世界に行ったみたい、とかそんな夢のあるものじゃない。

 意識と一緒に身体も飛んでくれれば申し訳も立つんだが、生憎そう融通は利かないもので。記憶の嵐も所詮は現実であると思うのはそういうときだ。

 嵐の後、意識が帰ってきて、相手からは「お前は話を聞いてない」と責められる。何度も何度も責められる。責められすぎてだんだん慣れてきてしまったほどだ。

 俺がそんな風なせいか、彼女の方も、話の繋がりなどに気を遣わず一見関係のないような話を連続して繰り出すような奴になってしまった。

 そんな彼女のことを俺は「めんどくさいやつ」だと思うようになった。

 しかし、今思えば、ひょっとすると、彼女は俺に気を遣ってくれていたのかもしれない。

 記憶の嵐で飛んでしまっても、俺にそうだと気付かせないように。

 飛んでしまった俺が罪悪感を覚えないように。

 そういう思惑でやっていたのだとしたら、彼女は本当は「そうめんどくさくもないやつ」だったどころか、「とても親切な人」だったのかもしれない。

 まあ、もしそうだったとしても今更だ。

 なあ、と俺。視界には蟹の腹甲。

「彼女は海老と友達だっただろうか?」

 友達の友達が海老のシチューを食べたとき。クラスのみんなは笑ったが、彼女だけは笑わずにただ鍋の中の海老を見ていた。

 あの事件が彼女の性格に影響したとは思わない。それはあまりにも短絡的だ。

 しかし、人の性格というものは結構短絡的に変わってしまうものだ。物語の中のようなドラマチックな出来事が起これば、それを受けた人も物語のように変貌してしまったりもする。

 空から蟹が降ってきてそれで彼女が蟹になったとしても何らおかしくはない。物語のようなこととは現実にあり得ることだから。

 真っ暗な空にはずっと風が吹いていて、どこから来たのか洗濯物の白いシーツが舞っていた。

 あれが蟹のハサミに引っかかったら、それもばらばらになってしまうのだろうなと思う。

 ただの端切れになってしまっても白いシーツは白いまま。

 目の前で開閉する蟹のハサミは生物のものとは思えないほど鋭利で、鮮やかすぎない赤色が張り付いていて、吸い込まれるように光っていて、ついふらふらと近づいて、

 触れてしまった。

 触れる直前、俺もフェンスみたいにばらばらになるのだろうかと少し考えたが、それは不思議とあまり痛くなさそうに思えた。



 それから俺がどうなったのか。

 目の前には屋上と大蟹とシーツとばらばらのフェンスと黒い空と灰色の風と、蟹のハサミに触れた俺。

 それらが全て載って静止した場面が広がっている。

 外がどうなっているかはわからない。屋上があるところより先に視線を動かすことができないからだ。

 身体も固まっている。手も足もフリーズ状態。

 大変なことだと思うだろうか。

 可哀想なことだと思うだろうか。

 大きな蟹を見ながら、俺は、俺の記憶を思い出している。

 全てを忘れて生きていた俺。

 ぺらぺらの紙のように生きていた俺。

 屋上というただひとつの「面」に留められている今だからこそ、後ろに置いてきた記憶たちを思い出すことができる。嵐の中ではなく、静止した状態で、冷静にひとつひとつ。

 静止しているがゆえに記憶たちは嵐を起こさず、俺の過去でいてくれる。もう忘れることはない。見失うこともない。

 そして俺はぺらぺらでなくなる。記憶たちが俺の後ろにずらりと並び、俺が形になるからだ。

 悪くない。そう、悪くない。

 ぺらぺらの紙のまま生きるより、ここでずっと、自分が立体だという錯覚を持ったまま、彼女がいたことを覚えておける最後の場面を眺めたまま、終わりを知らぬまま、永遠にずっとこうしていたほうがいい。

 綺麗に並んだ記憶の列をズームして、蟹の目を見て脚を見て、何度も確認した蟹の脚の下を見て。

 何もないことを確かめると、俺は目を閉じた。


 蟹。

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