生ハム

 あくる日、ジャンにとうとう限界が来た。


 空腹はとっくに頂点を超えた。床に敷かれている藁でよいから食べたい。土に鼻を突っ込んで、ミミズでも掘って食べたい。


「さぁ、今日もジャンに聖なるお恵みを……」


 大道芸人はその日も生ハムを食べていた。


 ジャンは決意を固めていた。


 ジャンは、これまで他者を虐げようと考えたことすらなかった。だから大道芸人に必死に語りかけ、なんとか穏便な解放を願ったのだ。


 しかし、今日まで召使いの助けも、大道芸人のひとかけらの慈悲もなかった。


「さぁジャン、己を解き放つ日が来た–––––今日が、儀式だ」


 大道芸人は芸の道具を取り出す。


 今日は、大きな刃が光る剣だった。


 いかにも、肉を斬るのに向いていそうな––––。


 ジャンは、背中がぞわりと粟立つのを感じた。


 とうとう、この日が来てしまったのだ。


 ––––大道芸人が本格的に壊れる、その日が。


 こちらを一度も顧みることがなかった大道芸人が、今ばかりはジャンを穴が開くほど凝視していた。


 ジャンは躊躇するのをやめた。


「……さぁ、こちらへおいで」


 大道芸人は初めて語りかけてきて、歩み寄ってくる。


 ジャンは自身を拘束する縄を噛みちぎった。


 存外、簡単に縄が切れて、ジャンはそんな場合ではないのに驚いてしまった。


 大道芸人も驚いているようだった。動きが一瞬鈍る。


 ジャンはとうに覚悟を決めていたので、大道芸人に飛びかかった。


「……ああ、尊き方!」


 てっきりあの剣で抵抗されるかと思ったが、大道芸人はそれをしなかった。大道芸人自身が何かに抵抗を感じているかのようだった。


 大道芸人を床に倒すと、ジャンは剣を持った腕を噛みちぎった。


「あ……ぁあああ! 玉体が! ジャンの玉体が! どうして!!」


 どくどくと血が溢れ出す腕を庇い、大道芸人は叫んでいた。


 大道芸人が無力であるうちに、ジャンは部屋中をくまなく探し、とうとう見つけた。


 巨大な肉の塊。


 ジャンは知っていた。これを、刃物で薄く切ると、生ハムとして食べられるようになるのだ。


 ジャンは我を忘れて生ハムの原木にかぶりついた。


 独特の塩みが、ジャンの頭をいっぱいにした。


 ああ、これがご主人様がしょっちゅう作っていた生ハムか。ああ、そうだ、そうだった––––。


 ジャンの脳を喜びと痛みの伴う記憶が駆け巡る。


 ジャンは二口目にいこうとした。


 そのとき––––薄暗い部屋に、まばゆい光が広がった。


「ようやく……ようやく見つけましたよ、ジャン坊ちゃま!」


 ジャンは顔を上げた。


 そして、希望を抱いて目を見開いた。


 ––––召使いの助けが来たのだ!!


「––––何ということ! ああ……尊い方が––––何ということ!!」


 ずっとずっと待ちわびた。待ちすぎて、不届き者を倒してしまった。


 召使いの声は気色ばんでいる。幾日も飲まず食わずで監禁されてボロボロになったジャンの姿を見て、今にも卒倒しそうなのだろう。


 帰ったら、うんと労ってやろう。共に草原を駆け巡り、頭を撫でさせてやろう。


 ジャンは笑った。


 さぁ、神にも等しいこの身を救い出したという大手柄を上げたお前の顔を、よく見せておくれ。


「……それよりも今はお手当を、ジャン坊ちゃま」


 召使いは、大道芸人の頭を自身の膝にのせた。


「いくら族長の御子息だからと言って、儀式の生贄の豚を盗み出して独り占めしようなど! だから我らの神が生贄を通してバチを当てたのですよ」


 ジャンは召使いの顔をよく見た。


 その顔は––––奇妙奇天烈なメイクを施した、大道芸人のそれであった。

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