第9話
目が覚めた、と言っていいのだろうか。ぼくはロベルタさんの家のソファに座っており、隣にはヒトラーさんがいた。彼は抑揚を付けつつ飄々とお喋りをしていて、居間のテーブルにいるロベルタさんがその話を聞いている。
彼女は白い鉢にすりこぎを押し当て、何かを潰していた。ぼくはそれがスナウサギの肝、アンデッドマンの骨、そしてリグリア鋼の粉末であることを思い出す。彼女は妹さんの薬を調合していたのだ。それは死ぬ前の昼に見た光景と同じだった。
スターゲイザーには時を巻き直す力があると天使は言った。ぼくはその言葉を100%信じたわけではなく、信じられないという思いもどこかにあったようだ。その証拠にぼくは、目の前の光景が現実かどうか確かめようとした。
「痛いぞ、アドルフ。なぜ我の口ひげを引っ張る?」
「特に意味はないです。あなたが生きているか調べたかったので」
「妙なことをぬかすな、死んでおるわけがない」
「アハハ、君たちは会って間もないのに仲が良いな」
ぼくとヒトラーさんがじゃれ合っていると思ったのか、ロベルタさんがやわらかく笑みを浮かべた。
巨神の襲撃時、ぼくはとても混乱していたので、周りの人がヒトラーさんの出現をどう受けとめたのか把握してない。けど、突然現れて巨神を葬った以上、味方であるという認識は持ったようだ。
さもなければ、ロベルタさんはヒトラーさんを受け入れはしなかっただろう。前回は気にとめなかった事柄がぼくの心を占めた。
やがてロベルタさんは治療薬の調合を終え、それを妹さんに飲ませた。するとたちまち熱が下がり、しつこい咳と汗も引く。
泣き出しそうなくらい喜んだロベルタさんは、ヒトラーさんに何度も感謝した。
その後、近所の町民が差し入れを持ってきた。ロベルタさんが事情を話すと、その町民は青ざめた顔で帰っていった。
★11のことは黙っていたほうがいい。そんな助言をするタイミングはあったけど、迂闊に口に出すとぼくが時を巻き戻したことがバレると恐れ、意見をすることはできなかった。
いずれにせよ、これが人生のやり直しならば、前回起きた出来事がほぼ間違いなく再現されるだろう。案の定ロベルタさんは市場へ行くと言い出し、準備をはじめた。ぼくは食卓のある居間で、ヒトラーさんと二人きりになった。
天使の言うとおりなら、ぼくが死後の世界から甦ったのはスターゲイザーのおかげだ。そうだとすれば、ぼくのやり直しをヒトラーさんは知っている可能性が高い。
ぼくは事態を正確に把握すべく、ヒトラーさんに問うた。
「これはあなたがやったんですか」
「……何の話だ?」
込み入った話はできないため端的に聞いたが、ヒトラーさんは表情ひとつ変えずに答えた。はぐらかしたというより恍けた様子に見えたが、家の奥からロベルタさんが戻ってきて秘密の会話はすぐにできなくなる。
三人で連れ立って市場に行くと、ロベルタさんは妹さんが食べられそうなものを次々買い物かごに放り込んでいった。そして何を思ったか、中腰でしゃがみ込んだ。視線の先にはきれいな花が売られていた。ロベルタさんは気に入ったらしく、赤いバラの束をかごに入れた。それは前回の行動では目にしなかった出来事だ。
しかし同時に前回をなぞる展開もあった。ヒトラーさんが周囲の注目を浴びているのだ。★11の持ち主という噂が早くも広まりつつある証だった。
ぼくの記憶どおりなら、彼はそうした視線を物ともせず、不審の目を楽しんですらいたはずだ。ところが今回は、ぼくを庇うようにして町民に背中を向けた。ロベルタさんは商店の会計にむかう。その様子を見届けながら、体を密着させたヒトラーさんがぼくに言った。
「前回は派手にしくじった。今度は同じ真似はせん」
「ヒトラーさん……?」
「言いたいことはわかる。我も時間の巻き直しを認識しておるか知りたいのであろ。答えはヤーだ」
ヤーとは肯定の言葉で、それを聞いたぼくはついに確信を得た。ヒトラーさんも人生のやり直しを生きていると。
だがヒトラーさんの話はそこで終わらなかった。彼はロベルタさんが不在のうちに伝えておきたいことがあったようだ。
「我はお前の死を見届けたが、だれが犯人かを特定するまでには到らなかった。食堂にいた連中で、フリーデ一行にはスターゲイザーを奪うという動機がある。毒を仕込んだ点でもっとも怪しいのは食堂の店主だが、こちらは動機が不明だ。そこで我は考えた。毒殺の黒幕はロベルタではないかと」
「ロベルタさんが!?」
「驚くだろうが根拠はある。トルナバはあの女の故郷だ。食堂の親父も顔見知りだろう。シチューに毒を盛らせることくらい容易い。何よりロベルタにはお前と我を殺すだけの動機がある」
「動機があるって……」
「思い出せ、食堂で町民がだべっていた話を。ロベルタの家には借金がある。やつの両親が博打打ちであることが原因だ」
ヒトラーさんの指摘したことは、かろうじてぼくの記憶のなかにもあった。けど、そんな理由を根拠にロベルタさんを疑っていいとは思えなかった。
「スターゲイザーを金に換えるのが目的だと言いたいのでしょうけど、あなたは知らないんです。彼女がお屋敷勤めのぼくを支え続けてくれたことを。本当の姉みたいに感じたこともありました。そんな人が、世話をした子どもを簡単に殺すでしょうか」
「お前が擁護したくなる気持ちはわかる。心のなかに閉ざされている間、我はお前の行動を逐一観察しておったのだから。確かにロベルタは献身的な女だ。しかしその事実と、金を目当てに人殺しをすることは両立しうる」
「そうかもしれませんが、あの食堂にはフリーデさん一行もいました。あなたが言ったとおり、ぼくたちを殺す動機はあると思います」
「これは直感だが、フリーデたちは毒殺などという姑息な手段をとらない気がするのだ。昨晩夜営をともにしてわかったとおり、遺恨があるのに慎重な連中だった。スターゲイザーの力を心の底から恐れている証拠だ」
「だとしても、ロベルタさんを疑って警察隊に突き出すような真似はやめてください」
ぼくが必死に訴えると、ヒトラーさんは「確証を得るのが先だ。そのために時を巻き戻したのだから」とにこりともせずに言った。
買い物を終えてロベルタさんの家に戻ると、彼女は妹さんの世話を熱心にこなし、前回と同じくヒトラーさんが部屋の隅々まで掃除をする光景がくり広げられた。暇を持て余すぼくは、彼の掃除をなりゆきで手伝ってしまう。
「すまなかったな、ヒトラーさん、アドルフ。二人のおかげで家は見違えるほどきれいになった」
ようやく手の空いたロベルタさんは、居間に現れると満面の笑みで言った。妹さんの病気がよくなったことで心の曇りが晴れ渡ったのだろう。前回は意識に残らなかったが、その笑顔はぼくの心も明るくする。
「これから夕食を作ろうと思う。何か食べたいものがあれば言ってくれ」
「どうします、ヒトラーさん?」
特別打ち合わせをしたわけではなかったので、ぼくはヒトラーさんの判断を仰いだ。
「厚意に甘えよう。食堂に行く手もあるが、ロベルタがどんな料理を作るか興味がある」
事情を知っているとドキリとするような台詞だったが、ぼくは彼の真意を掴んだ。もしロベルタさんが毒殺の犯人なら、彼女の料理に毒が仕込まれる確率が高い。文字どおりどんな料理が作られるか次第で、容疑者であるロベルタさんに白黒つけるつもりなわけだ。
そんな企みも知らず、ロベルタさんはぼくたちに野菜の皮むきを頼んだ。「総統にジャガイモの皮むきをやらせるのか?」とヒトラーさんは嫌な顔をしたが、ぼくは「総統ってなんですか、意味わからないですよ」とツッコミを入れる。
そんなぼくたちを見てロベルタさんは楽しそうに笑ったが、彼女が作りはじめた料理は奇しくもホワイトシチューだった。偶然だろうけど、ぼくは良い気分がせず、野菜の皮むきを終えても不安な気持ちが拭えなかった。
しかしロベルタさんが犯人なら暗い顔をしていると疑われると考え、あえて明るく振る舞った。料理を待ちわびる子どものように、ヒトラーさんを巻き込んで唄を歌いながら踊る。正直はしゃぎ過ぎかもしれないが、迷惑そうなのはヒトラーさんだけで、ロベルタさんは一緒に唄を口ずさんだ。その陽気な笑顔は、これからぼくたちを毒殺しようとする人間のものとは到底思えなかった。
「もう煮えただろう、食事にしよう」
鍋の様子を確認し、ロベルタさんは深皿にシチューを盛りつけていく。実はその少し前くらいから、ヒトラーさんは神妙な顔で宝呪をいじっていた。そしてほんの一瞬だが、青くぽわんとした光がこの家全体に広がった。謎の発光に気づいたのはぼくだけで、そんなぼくに向けてヒトラーさんは親指を立てた。会話はなくても意図は伝わった。用意された料理に毒はないとスターゲイザーが判断したのだ。
ぼくはほっと安堵し、ロベルタさんの言うままにテーブルへ料理を運んでいき、椅子に座ろうとした。ヒトラーさんは洗面所のほうで水を流し、手を洗っているようだ。ふと見るとぼくの両手も掃除で汚れていたため、家の奥に足を向けた。
ちょうどそのとき、入口のドアを叩く硬い音がした。
「こんな夜更けに誰だろう?」
市場で買ったバラを花瓶に差し、ロベルタさんが戸口へむかった。ぼくは咄嗟に大声で叫んでしまう。
「開けちゃダメだっ!」
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