第8話
目を覚ますと、そこは真っ白な空間だった。
寝そべっていた場所から起き上がり、頭を振った。不思議なことに呼吸は楽だった。吐き気も喉の痛みもない。
見渡すと、白い闇がどこまでも広がっていて、視線の先に小さなテーブルがぽつんと置かれている。他に目立つ物がないため、ぼくはそこをめざして歩いた。広場を横切り、階段を昇って、踊り場のような所に出る。テーブルはそこにあり、二つある椅子の片方に白装束の人が座って何かを食べている。音もなく。
「すみません、ここはどこなんでしょうか?」
そばに立って問いかけると、白装束の人は反対側の椅子を指差した。白装束の顔には仮面があり、表情も人相も判別することはできない。
指示されたとおり椅子に座ると、白装束は再び食事を開始した。蒸した麦にミルクを浸したものを食べている。ぼくは図太いが勘の悪いほうではないため、このときすでに自分の置かれた立場に思いをめぐらせていた。そしてそれを、目の前の白装束にたいして問うた。
「ぼくは死んだんですか?」
そう、盛られた毒に悶絶したあと行く場所など限られている。状況を受けとめたわけではなかったが、心は混乱から遠かった。そんなぼくを仮面越しに見つめ、白装束が奇妙な声を発した。
「ずいぶんと落ち着いておるの。もっともお主の言ったとおりじゃ。ここに来たからには、その魂はもう下界にない」
その声は子どもにも大人にも聞こえ、男女の区別もつかなかった。長年、ぼくの心に響いていた声質と似ている。
「もうひとつ教えてください。ここはどこですか?」
「お主が察したとおり、天界じゃ。とはいえアドルフよ、聞きたいことは他にあるじゃろ」
白装束は仮面についた麦の粒を拾い、それを口の空いた部分に押し込んだ。
「魂に宿っていたヒトラーのこと。一世紀以上ぶりに出現した巨神のこと。そしてこれからお主を甦らせるやり直しのこと……。見たところ暗愚ではなさそうじゃ。心に浮かんだ疑問をてきぱきとこなせ」
「ちょっと待ってください、あなたはだれなんですか?」
せっかちな白装束は勝手に話を進めるが、ぼくにはぼくの順序があった。
「儂か? 儂は《主》の代理人である天使じゃ。人の子の魂は死ねば消えるが、一部例外が存在する。お主のようにまだ死んではならぬ者などが儂との面談に通される。これで満足かの?」
白装束は食事の手を止め、誇らしげに胸を張った。天使が何者かは半分くらいしかわからなかったが、思いのほかテンションの高いことにぼくは驚く。死後の世界といえば、もっと神聖かつ厳かなイメージがあったからだ。おかげでぼくも、自分の死に落ち込む間もなく、普段どおりに振る舞うことができた。
「質問ばかりで申し訳ないんですけど、聞かせてください。さっきあなたは変なことを言いましたよね」
「変なことじゃと?」
「そうです。ぼくはまだ死んではならないとか、甦らせてやり直しをさせるとか。普通は死んだら全てはおしまいだと思うんですけど、なぜそんな例外的な措置をぼくに?」
「お主はタフな心をしておるな。このまま滅びるのが怖くないのか」
「失礼を承知で言えば、あなたに威厳がないので実感が湧かないんですよね」
「フハハ。その調子では人生をやり直させても張り合いがないの。ともあれ、なぜお主を甦らせなくてはいけないのか、その発端はあのヒトラーじゃ」
「ヒトラーさん?」
「そうじゃ」
思わせぶりな発言に応じると、天使を名乗った白装束は椅子を立ち上がり、片脚を引きながら歩き出す。どういう意図か不明だったが、心配したぼくは反射的に手を貸してしまう。
突然のことに天使は「すまんの、アドルフ」と言い、その体はとても柔らかく、ぼくには女性のものと感じられた。
けれど天使の性別はこの際、二の次だった。彼女は何もない空間に手を振って、するとそこには透明なパネルが出現する。
そして次の瞬間、パネルには群衆に囲まれたヒトラーさんが映じられた。彼は見たこともない乗り物に立って、群がる人々に手を振っており、周りの街並みはぼくの知るそれとは大きく異なっている。
「これは写真と言って、お主の住む世界には存在しない技術じゃ。ヒトラーが転生者であることは知っておるかの?」
「はい、直に聞きました。同姓同名のぼくと混線してしまったと」
「なら話は早い。実のところ、同姓同名という理由は正しい説明ではない。お主は◇11の枠を持つ特別な人間として世に生まれる運命を授かり、それを知った儂らは同じく◆11の枠を持つヒトラーを封じるためにお主と一組にすることを決めたのじゃ」
「封じるためって……彼が悪人だからですか?」
「そのとおりじゃが、やつはただの悪人ではない。この写真の世界でヒトラーはあらゆる人類史のなかで最悪の殺戮を命じ、にもかかわらず《主》はやつの転生を決められた。その結果、人類世界を司る全ての天使がやつの転生を拒み、最後に残されたのが、お主の生まれ落ちた世界……セクリタナだったのじゃ。それもこれも、お主が◇11の持ち主になることがわかっておったからじゃ」
人の運命にも大小があると思うけど、ぼくは自分の身に考えも及ばないほど壮大な秘密が隠されていたことをかろうじて認識する。
そんなぼくに、パネルをコツコツ叩きながら天使が言った。
「今宵、お主に使命を与えようと思う。ヒトラーを使いこなし、世を統べる勇者となれ。ヒトラーは魔力供給をお主に頼っておるため、いまの時点では本性を露にしておらん。とはいえそれも時間の問題じゃ。お主が成長して魔力を高めたとき、何が起きると思う?」
「ヒトラーさんの自由度は増し、ぼくは封印としての意味を失う……」
「そのとおりじゃ。いまは太くつながっているお主たちの絆は弛み、ヒトラーは誘惑にかられるだろう。世界を再び戦争の渦に陥れ、おのれが全ての権力を握る独裁者にならんとする誘惑に」
「ただ成長するだけじゃなく、もっと強くなる必要があるということですか?」
「それだけの力が☆11の宝呪には秘められておる。☆11の宝呪は【福音】という。民より絶対的な帰依を得て、最高位の聖者になり、ヒトラーが持つ【全知全能】に対抗できる唯一の手段じゃ。世界のどこかに【福音】は眠っておる。それを探しに出ることがお主の目的になる」
極悪人であるヒトラーさんと旅をはじめ、彼はぼくの保護者のように振る舞っていたけど、それは嵐の前の静けさに過ぎず、本当はぼくが彼を凌駕しなくてはならないことが天使の口から明らかになる。
けれど急に責任を負わされ、ぼくはその重圧に押し潰されそうになった。
「正直、身に余る期待です。勇者なんてとても……」
「自信はないが不満はあったはずじゃ。行き過ぎた実力主義の世界にたいする不満が」
「怒りは全部ヒトラーさんが持っていってしまいました」
「ならば思い出すのじゃ。お主が星無しとして感じた苦痛は、世界の落伍者全てが共有しておる。本来正義の使徒だった勇者は、国の指導者となって事実上の差別を肯定した。その現実を変えるだけの見込みがお主にはある。そもそもなぜ巨神が130年ぶりに出現したと思う?」
「宝呪を守るためだと聞きましたが」
「違う。あれは《主》の怒りじゃ。130年前に出現したときも、当時の皇帝が国民を奴隷のように扱い、苦役に従事させながら腐敗した富を貪っておった。それを見かねた《主》が巨神を遣わし、地上に起きた混乱はやがて革命へと結びついた。今回も同じことが起きておるのじゃ。時はすでに動いておる」
「でもぼくは死んでいます。何もできることはありません」
「最初に言ったじゃろ。だからこそのやり直しじゃ。スターゲイザーには時間を巻き戻す力がある。いま頃ヒトラーのやつが慌ててお主の救命に動いておるはずじゃ、魔力の源を失えばやつは星無しになるのだからの」
当初交わした会話がここでつながった。まったく実感のなかった人生のやり直しだ。けれど天使の願望にくわえ、《主》の意志が介在していることがわかったいま、その程度の神秘は普通に起こりうるだろうと思えた。だからぼくは、相手の心を探るように言った。
「やり直しは一度きりなんですか。それとも目的を叶えるまで何度でも甦るんですか」
「スターゲイザーが壊れるまでじゃ。無限ではない。ただし、お主が期待どおりの力を身につけ、ヒトラーという悪を制御しながら、二人で力を合わせて勇者になることができると我らは信じておる。さすればその過程で、実力主義に染まった世界を変革させられると。あまたの人間の心を変え、正しき行いへと導いてほしい」
そこまで言うと天使は、深々としたお辞儀をして体を二つに折った。
「でもぼくはまだ、ろくな宝呪を持ってないです」
「実力主義者は最初から高ランクの宝呪を手に入れようと躍起になるが間違いじゃ。お主が正義を体現し続けることさえできれば、勇者への道は開かれよう。幸い選挙は公平じゃ。民の心が直に反映される」
一方的に天界の都合を押しつけられただけなら、ぼくは釈然としなかったに違いない。しかし言葉を重ねるごとに、天使の願いが切実であること、ヒトラーさんという害悪を受け入れながらそれを逆手にとるしたたかさが同時に垣間見え、ぼくは抵抗する材料を失っていた。
「わかりました。力の及ぶ限りやってみましょう」
我ながらあっさりした返事だったが、天使は両手を組み、ぼくの目の前で祈りを捧げた。そして透明なパネルをしまい、椅子に戻ってミルクに浸した麦を再び口に運び出す。
ぼくもその前に座り込むが、ふと何かを思い出したように、天使はぼくの顔を凝視しながらこう言った。
「これは儂からの助言じゃが、ヒトラーのやつも13年間、ただ黙って眠っていたとは思えん。足枷があることを前提に、何らかの戦略を立ててお主や儂らを出し抜く心づもりである可能性は十分考えられる。ヒトラーを味方につけつつ、心を許すな。あれは人間の皮を被った邪神じゃ」
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