第7話

 お屋敷勤めに慣れたぼくにとって、きょうは暇な一日だった。

 それでも皆で力を合わせ、ロベルタさんの妹さんを治療できたのは達成感があった。善いことをすると気分が良い。ぼくは元々、すごく単純なところのある人間だったのだ。星無しの劣等感に苦しみ、実力主義の世界を恨んでいた頃の気持ちは、ヒトラーさんによれば彼が持っていってしまった。ぼくは自分がお屋敷に来る前の自分に戻ったことを今さら実感する。それはとても良いことのはずだ。


 とはいえ★11を実装した悪人中の悪人であるヒトラーさんだが、まだ一日と少し行動をともにした程度だけど、あまり悪人という感じはない。むしろ彼の力なくして妹さんの病気は治らなかったわけで、結果だけ見ればとても善い人に見える。もっともぼくは、宝呪の買い取りを通じて人間には二面性があり、状況次第で善にも悪にもなれることを学んだ。だから本来悪人である彼が突然熱心に掃除をはじめたとしても、それを辻褄の合わない行動とは思わなかった。


「すまなかったな、ヒトラーさん。あなたのおかげで家はすっかりきれいになった」

「礼には及ばん。我は汚れた場所が嫌いなのだ。埃だらけの部屋で寝る気はせん」


 妹さんの看病をしている間に、ヒトラーさんの掃除でロベルタさんの家は見違えるようになっていた。しかし綺麗好きの悪人がいてもおかしくない。ぼくはヒトラーさんとの間に不思議な結びつきがあって、彼がぼくから離れられない事実をこの頃になると実感していた。もしそんな足枷がなければ、彼は勇者候補になったのだから、連邦の各地をめぐって票集めに励み、この国の支配者になるための運動をはじめればいいはずだ。ひょっとすると彼が善い人に見えるのは、ぼくの保護者を引き受けたせいかもしれない。ぼくの身に何かあれば、ヒトラーさんは困る。そう考えると、全てが納得いった。


「これから夕食を作ろうと思う。何か食べたいものがあれば言ってくれ。市場はまだ開いているから」


 妹さんの看病が一段落ついたのか、ロベルタさんはぼくたちの心配をしてくれた。せっかくだし、ロベルタさんの手料理をごちそうになるのも悪くないな、と思ったときだった。


「看病で疲れているのに気を遣って貰うのは気が引ける。お前は妹の世話に専念しろ。我とアドルフは、町の食堂にでも出向いてそこで夕食を摂る」


 ソファに腰をおろしたヒトラーさんが勝手に話を進めてしまうが、ぼくとしても不満はなく、妥当な判断に思えた。

 ロベルタさんの家を出ると、もう夜の帳が下りていた。ヒトラーさんは「フリーデたちも誘ってみよう」と言い、町にある唯一の宿屋を探してフリーデさん一行を食事に誘った。ちょうど食事をどこで摂るか思案していたところだったらしく、彼女は仲間と話し合い、提案を快諾した。


 食堂はレストランと呼ぶには手狭で、客が10人も入れば一杯な広さ。そこにはすでに数人の町民が集まり、食事をしながら歓談していた。

 入店して早々、注文で悩みたくなかったらしく、フリーデさんは「全員お任せでいいかな?」と言った。自己主張の強そうなヒトラーさんだが、意外にもその申し出を受け入れ、注文を取りに来た店員に「ディナーセットのようなものがあれば、それを人数分頼む」と言った。


 注文を終えるとリッピさんとガンテさんが雑談をはじめ、それにハイドさんが絡んで少しだけ賑やかになった。けれど店のざわつきは隣のテーブルのほうが大きく、配られたお冷やを飲んでいるとその会話が嫌でも耳に入ってくる。

 すると、ぼんやり宙を見つめていたヒトラーさんの目つきが急に変わった。隣席の会話が原因だと、ぼくにもはっきりとわかった。


「ロベルタの勤め先は、巨神に襲撃されて主が死んだらしいよ。それで解雇されたから仕方なく町に戻ってきたんだと」

「だが仕送りが途絶えちまうと、あの家は保つのかい? 両親は夫婦揃って博打打ちだろ、相当な借金があるって聞いたぜ」

「しっかりした娘なのに不憫だな、ロベルタは」

「妹も頭のほうが優秀だったはずだろ。木こりなんてやらされて宝の持ち腐れだ。姉妹揃って哀れだよ」

「おまけにとんでもな悪人を招いちまったって聞いたぜ。弱みでも握られてるんじゃないか」


 妹さんが病気で大変だったというのに、町民の話はどこまでも他人事で、ぼくは気分が悪くなった。

 特に最後のひと言は、明らかにぼくたちのことだ。幸いその悪人が隣にいると気づいてないようだったけど、ヒトラーさんは何を思ったか、目で合図を送ってきた。視線の先にあったのはお手洗いだ。


「ちょっとトイレに行きます」


 ぼくが席を立つと、ヒトラーさんもそれに続く。二人して突き当たりの廊下に入り込んだが、ぼくの肩を抱きながらヒトラーさんが小声で言った。


「あまり歓迎されてないようだな。追っ手の目をくらますためとはいえ、長居は無用だ。お前の祖父の家までどれくらいかかる?」

「ポツダムは、ここから歩くと三日はかかると思う」

「歩き通しか。車も鉄道もないとは不便な世界だ」

「まだ馬車を警戒しているの? 少し慎重すぎる気がするんだけど」

「あの屋敷の令嬢は必ず追っ手を差し向ける。それが精鋭の連中でないという保証はない。お前の負担を考慮すれば本格的な戦闘はなるべく避けたい。人知れずポツダムに入り、お前の祖父の呪いを解けば、我らの行動もだいぶ自由になる。それまではしんどくても我慢だ」


 お手洗いから戻ると、注文した食事が来ていた。フリーデさんたちは先に料理を口にしている。

 テーブルに運ばれていたのは、小分けされたバゲットとホワイトシチューだった。皿に盛られたチーズとポテトサラダもあり、メインのシチューは湯気と香りで食欲を誘う。

 空腹に駆られたぼくがスプーンを握ったときだった。唐突にヒトラーさんが自分の皿を掴み、キッチンにむかって店主を呼んだ。

 ぼくは困惑を隠せなかったけど、エプロンで手を拭きながら現れた店主にヒトラーさんが言う。


「お前、このシチューを食ってみろ」

「えっ!?」


 予期せぬ命令に、店主は声を失ったが、ヒトラーさんが恐ろしげに目を吊り上げているのを見て観念したのか、ぼくのフォークを使い、人参を口に入れた。

 結果、特に何も起きなかった。けれどヒトラーさんは、その程度で追及の手を止めなかった。


「本命はポテトサラダか。こっちも食ってみろ」


 声量こそ大きくないが、とてもよく通るその声は形容しがたい威厳があり、無礼きわまりないにもかかわらず、慌てた店主はぼくのポテトを毒味した。

 そう、これは毒味だ。思えば昨晩の夜営でも、ヒトラーさんはぼくの食べる干し芋を口にしたりして、念入りに何かを確かめていた。あれは毒が含まれていないことを吟味する行為だったのだ。

 目的は容易に想像がつく。もしぼくが死ねば、ヒトラーさんは魔力の供給先を失う。そうすればスターゲイザーは役立たずとなり、彼を倒して強奪することができるだろう。そうなることを恐れたからこそ、ヒトラーさんは執拗に毒味をしたのだ。店主がだれかの指示を受けた可能性を重く見て。

 事実、店主が毒味したシチューを今度はヒトラーさんがルーだけ丹念に味わう。だがまたしても、何も起きなかった。


 テンポ良く進んだため、こちらの動きをフリーデさんたちは気にしていない。隣席の客も同様だ。店主だけが怖々と怯えているが、ついにヒトラーさんは満足したようだ。


「アドルフ、問題ないようだ。食べて良し」

「う……うん」


 散々脅かされた格好のぼくだが、毒味済みのシチューには安心感を覚え、ヒトラーさんの差し出した皿を引き寄せ、鶏肉を頬張った。

 下味が沁みていて、味わいはこってりしていた。鶏肉は普通に美味だった。しかし、配膳された料理を堪能していられたのはそこまでだった。

 食事が喉を通過したとき、胸元に灼けるような痛みが走った。鶏肉が辛いわけがなく、不可解な思いを抱きつつお冷やに手を伸ばした途端、こみあげてきた。猛烈な吐き気が。


 何の前ぶれもなければ意味がわからなかっただろう。けれど十分な毒味を経たあとでは、自分の身に起きたことを鮮明に理解できた。鶏肉に毒が仕込まれていたのだ――疑う余地もなく。


 激痛に認識が追いついたときには全てが手遅れだった。神経に作用する毒は呼吸の働きを阻害し、酸欠状態で死に到らしめるという話を聞いたことがある。ぼくは喘ぐように息をするが、胸は苦しいままだ。糸の切れた人形みたくテーブルに突っ伏したけど、ぼくは陸の上で溺れる魚の気分を味わった。


 必死に顔を上げると何者かの影が視界に滲む。ついで、大地を揺るがす雷鳴のような叫びが。


「チクショウ、相当な手練が……!?」


 その影がぼくの体を激しく抱き起こしたけど、意識は渦巻く波のなかに吸い込まれてしまった。

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