第4話

   *  アドルフの相部屋  *


 彼は何も考えず、ぼんやりとナイフを眺めていた。「おいちゃん」というコックの仕事を手伝うときに使う肉切り用のナイフで、夜の闇を吸い取ったそれは鈍い光を虚空に放つ。

 昼間の失敗は晩食の内容にまで及び、罰としてパンは一切れしか食べることができなかたった。そんな空腹も手伝ったのか、アドルフの思考は限界まで研ぎ澄まされていた。


 ――このナイフで刺せば、恨みを晴らせられる。


 大人でも子どもでもない奇妙な声が、彼の心に湧き上がった。それはアドルフ自身の声に見えて彼自身の声ではなく、まるで別人が殺人を唆しているように聞こえる声だ。

 同部屋の従者はすでに眠りへとつき、いまは盛大ないびきをかいている。エジルという性格の悪い従者だが、アドルフは彼に憎悪を抱きはじめており、ナイフの刃を撫でているのは凶行の予行演習だと言えた。


 ――完全犯罪を実行する術はある。「おいちゃん」に罪をなすりつけるのだ。


 声の内容は次第に具体化していくが、アドルフはそもそも悪事をなすのに向かない真っすぐな性格で、勝手に浮かびあがる心の声に不快感を催したのか、机の引き出しへとナイフをしまい、椅子に前傾姿勢で座り込んだ。そのまま頬杖をした彼は、やがて眠りの淵に落ちてしまう。


 一連の心の働きは、昼間の出来事を忘れようとしてもそれが不可能だったことを意味する。アドルフがいかに良心的な少年だとはいえ、理不尽で救いようのない真似をされれば腹も立つし、ミステリー小説が描くような復讐をイメージするだろう。

 この世界でもそうした通俗小説は読まれているが、問題はアドルフが寝落ちした直後、何者かが前ぶれもなく彼の部屋をノックしたことだった。


   *    *


 何となく人の気配で目覚めてしまった。体は寝汗をぐっしょりかいており、寝間着は水が絞れるくらい濡れていた。


「ごめん、起こしてしまったか」


 薄闇の向こう側から声がした。灯りがないので目を凝らすと、そこにいたのはロベルタさんで、彼女はぼくの机に手を突いて顔を覗き込んでいた。

 いったい何の用だろうと思ったが、勘の良いぼくは気づいてしまう。昼間のことがあったから、ロベルタさんは心配して様子を見に来たのだ。彼女は執事として、下僕や従者の監督責任がある。ぼくの落ち込み様を目の当たりにしていたのだから、その後の行動を気にかけても不思議はない。

 実際、ぼくはナイフをもてあそび、凶行に到る自分をイメージしていた。家に残してきたジイちゃんのことを思うと実行には移せなかったけど、あとひとつ心のスイッチを押す要素があれば、ぼくは今ごろエジルさんを殺していたかもしれない。その意味で、ロベルタさんが様子を見に来たのは正解だった。


「すみません、たぶん昼間のことですよね?」

「……うん。やはり頭から離れなくて。一応わたしは執事だ。傷つく君を放ってはおけない」


 やはり予想どおりだった。ただ、想像と違ったのは、彼女はそこから意外なことを提案しはじめた。


「幸いきょうは当直なんだ。少し気晴らしをしないか。お館様たちは眠っている時間だし、多少羽目を外しても怒られやしない」

「気晴らしですか?」

「昼間のこと、忘れたがっていたらごめんな。わたしでよかったら話し相手になるよ」

「ありがとうございます。本当は地味にへこんでました」


 ぼくは感激こそしなかったが、社会の最底辺にいる自分を慮ってくれたことに感謝した。そしてベッド脇に置いてある自分の宝呪を腕にはめた。眠りにつく際は外しているのだ。無駄な魔力を消費するから。


「で、気晴らしって何ですか?」


 声を潜めて尋ねると、ロベルタさんが片手をかざした。その手には30サンチほどの紙袋が握られていた。


「アドルフ君、焚き火をしよう」


   *    *


「どこまで行くんですか?」

「焚き火用の食糧調達だ。魚とか肉を焼かないと気分が盛り上がらないだろう?」


 火をおこすだけなら炊事場の裏手で出来たけれど、何かを焼かねば気が済まないと言ったロベルタさんに従い、ぼくたちは軽く森のなかに足を踏み入れ、獲物を探した。

 もちろん手にはランプを下げているから、小動物なんかは逃げてしまうだろう。だとすれば、必然的に獲物はそこそこ手強い魔獣になる可能性が高く、星無しのぼくは小刻みに震えていた。

 それでも歩みを止めなかったのは、恐怖に打ち克つ気持ちが湧いてきたのと、一緒に進むロベルタさんに任せておけば、魔獣との戦闘に敗れることはないと考えていたから。


「獲物が現れませんね」

「そうだろうか。わたしは近くに魔獣の匂いを感じるよ」


 ロベルタさんがそう言ったとき、ぼくは野犬が発するような唸り声を聞いた。ランプの光をかざすと、前方に四つ足の獣が身構えていた。野犬に似ているが、顔つきがはるかに険しい。


「ダークウルフだな。お誂え向きの獲物だ」


 ウルフということはオオカミだ。ぼくは以前、お屋敷の裏手で出くわして腰を抜かしたことがあるため、その顔を見た瞬間、裏返った声を出してしまった。


「怖がらなくていい。少し下がってて」


 ロベルタさんが落ち着いた声で言ったが、ぼくはその場を動けない。そして運悪く、ダークウルフが飛びかかってきたのはロベルタさんではなく、ぼくのほうだった。


「――クッ!」


 声にならない叫びをあげてしまった。どうにか突進を交わしたが、鋭い爪がぼくの腕を撫でた。弾みでランプの灯が揺れるけど、十分に間合いを測ったとおぼしきロベルタさんが両腕を振るった。


 ぼくはその芸当が、【サバイバル術☆☆】にもとづくナイフ投げであることを知っている。一度に二本投げ、返す刀でもう一本投擲する早技であることも。


 事実、合計三本のナイフを食らったダークウルフは激しく身をよじりながら、やがてその場を動かなくなった。応戦する力を失ったことを確認し、慎重な足取りでロベルタさんがダークウルフに近づく。何をするのかと思った途端、彼女はナイフをもう一本取り出し、オオカミの喉を深々と刺し貫いた。


「これでよし」


 ぼくの知る限り、ロベルタさんは白属性の持ち主で、【サバイバル術☆☆】という宝呪は白属性のなかでは珍しい攻性魔法のひとつなのだった。その威力を垣間見て、ぼくは思わず溜め息を吐いてしまう。


 だが、そんな余裕はすぐさまかき消された。


「大丈夫か、アドルフ君!?」


 ロベルタさんが振り返り、ぼくのほうに駆け寄ってきた。それもそのはず、緊張の糸が切れたぼくは、ダークウルフと交錯した際にできた傷の痛みに襲われ、森に響き渡るような呻き声をあげてしまったからだ。


「傷は深いか?」

「そんなひどくはない気がしますけど、痛いことは痛いです」

「腕から出血しているな。上着を脱いでごらん」


 ぼくは看護師という職業の人と出会ったことはないけれど、ぼくの怪我に向き合う彼女の姿を見ていると応急措置の専門家に任せているような安心感を覚えた。見た目は少し冷たく感じるロベルタさんだが、付き合うを重ねると本当はすごく優しい人であることに気づく。痛みを堪えるぼくに高圧的な態度をとることもなく、子どもだから見下すようなこともない。


「傷は少し深いね。わたしが無理に誘い出してしまって悪かった。すぐ直るからじっとしてて」


 患部をかざしたランプを地面に置き、ロベルタさんが端末をいじりはじめた。


「何をしているんですか?」

「ああ、何と言えばいんだろう。わたしは枠が◇4つしかないから、使わない宝呪を外して【回復魔法☆☆】と入れ替えているんだ」


 星無しのぼくは必然的に宝呪の知識に疎く、だからこの話を聞くまで、宝呪が着脱可能であることを知らなかった。


「じゃあ、ロベルタさんは三つの宝呪を?」

「もうひとつ、【薬剤師☆☆】という宝呪を持っているけど、これらを状況に応じて使い分けている。できれば星3つもほしいけど、高くて手が出ないね」


 ロベルタさんのかざした手のひらに光のような粒子が集まってくる。その光を患部にあてがうと、驚くことに深い傷の痛みが消えていき、出血まで止まっていく。

 時間は大してかからなかったと思う。気づくと傷口全体が塞がり、周囲の皮膚となじんで綺麗になっていた。

 お勤めの最中に怪我したくらいではツバをつけて治すのが日常茶飯事だったけど、まるで本物のお医者さんに診て貰い、治療を受けているような気分にぼくはなった。

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