第3話ー⑨ 好きなこと
翌朝、暁はこの日も奏多のバイオリンの音で目が覚めた。
「今日もやってるな」
相変わらず、朝から幸せな気持ちにしてくれる――
そんなことを思いながら暁は着替えを済ませ、自室を出た。
それから屋上へ向かうと、その扉をこっそりと開けて、暁は奏多の演奏を聴き始める。
こんなに素敵な音なのに、俺の他に誰も聴いていないなんて、ちょっともったいないよな――そう思いながら、静かに奏多を見守る暁。
それからしばらくすると、奏多は急に手を止めて、その場に立ち尽くした。
そんな奏多を見て、何かあったのか――と暁は首を傾げる。
「私は何のために、バイオリンを弾いているのでしょう。お父様、お母様……」
そう呟いて涙を流す奏多。
「え、奏多……」
その声に反応するように、奏多は暁のいる方へ視線を向けた。
「誰ですか!」
やってしまった顔をしながら、暁は奏多の前に姿を現す。
「お、おはよう」
「先生! また盗み聞きですか?」
奏多はそう言って暁を睨みつけた。
「あはは、ごめんな。でもやっぱり奏多のバイオリンの音を聞くと、幸せになれる感じがして、ついな」
暁がそう言っているうちに、奏多は流していた涙を拭い、暁から顔を背けた。
あの涙の意味は何なのだろう。それに、みんなの前で弾けないわけって――
暁はそう思いながら、心配そうな顔をして奏多を見つめる。
「なあ、奏多。なんでみんなの前で弾きたがらないんだ? その理由を話してほしい。そうじゃないと、俺の気が済まないんだよ」
無粋だとは思うけれど、俺は知りたい。奏多のことを、もっと――
暁がまっすぐに奏多を見つめると、
「理由なんて……そんな大したことじゃないですよ」
そう言って暁と目を合わせないように、奏多は目を伏せた。
大した理由もなく、あんな風に涙を流すものかと暁は内心で思いながら、奏多を見つめる。
「仮に大したことがない理由でも、俺は知りたいんだ。だから――」
「はあ、わかりました。隠すことでもないですし、お話しましょうか」
それから奏多は、自身の過去を暁に語り始める。
「小学生の頃、私はとある演奏会でそこにいたお客様を傷つけてしまった過去があるのです――」
奏多は悲し気にそう言った。
そしてその時から奏多は、また同じように自分の能力で人を傷つけるのでないかと思うようになったようだった。
「私はそれが怖くて誰かの前で演奏できなくなったということですよ」
何かあるとは思っていたが、奏多にはそんな過去があったとはな――と目を丸くする暁。
「先生の力を借りて演奏をすれば、確かに力を封印しながら演奏はできるでしょうが、それでは私は過去のトラウマを乗り越えられないのです」
そうか。だからあの時、俺の提案を断ったのか――
暁はそう思いながら眉間に皺を寄せた。
「人を傷つけた能力を持ったままでは、私の音は誰かを傷つける音のままなのですよ。それでは何も変わりません、私の気持ちも抱えている問題も」
悲し気にそう言う奏多を見て、改めて自分がしてしまったことを後悔する暁。
教師として生徒たちを導くためにここへ来たはずだったのに、まだまだ俺は未熟なんだ――と暁は思い知った。
「ごめんな奏多。俺、無神経なことを」
申し訳なさそうな顔で暁がそう言うと、奏多はゆっくりと首を横に振った。
「いいのです。それに――本当は少し嬉しかったのですよ。先生の手を借りれば、また誰かの前で演奏できるかもしれないって思って」
そう言って微笑む奏多。それから表情を曇らせると、
「でも――私にはそんな資格はありませんよね。誰かを傷つけておいて、今更、楽しもうなんて」
奏多は、悲しそうにそう言って俯いた。
そんなわけない。資格があるとかないとか誰かが決めて良いものじゃないんだ。奏多自身がそうしたいと望むなら、そうしたらいいんだよ――
「……別にいいんじゃないか。奏多も楽しんだってさ」
暁がそう言うと、奏多は「え?」と言って顔を上げ、驚いた顔で暁を見つめる。
「確かに一度は誰かを傷つけてしまったかもしれないけど、奏多はその時の罰として、誰かの前で演奏することをやめたんだろう? だったら、もう充分、罪滅ぼしができたんじゃないか?」
奏多はその言葉を否定するように、首を横に振り、
「罰だなんて……私は怖くて、逃げただけですよ。自分が傷つかないために」
そう言って目を伏せた。
「逃げてきたのかもしれないけれど、それでも好きなことを我慢しなくちゃいけなかったんだよな」
奏多は人に聴かせる楽しみを奪われていた。それは奏多にとって、とても重い罰だったに違いないと俺は思う――
「奏多は十分に罰を受けている。だからもういいんだよ。好きなことを思いっきりやったらいいじゃないか」
暁は笑顔で奏多にそう告げた。
「で、でも。また誰かを傷つけることになったら――!」
「大丈夫。俺がいる限り、そんなことはさせないさ。それにお前も他の生徒も、俺が守ってみせるよ」
「でも。私の演奏は誰かを不幸にするかもしれない」
「そんなわけあるか。俺はこうして幸せな気持ちになっているぞ」
「でも、でも――」
奏多は困惑した表情をして、必死に言い訳を探しているようだった。
「奏多。もう嘘をつくのはやめよう。好きなことは好きだと胸を張れ。やりたいことは思いっきりやったらいい。
そして自信を持っていいんだよ。お前の音は、人を幸せにする音なんだからさ」
暁がそう微笑みかけると、奏多は何かから解放されたようにその場で泣き崩れる。
「――本当に、私の音は……みんなを幸せにできますか?」
奏多は両手で顔を覆いながら、暁にそう尋ねた。
そして暁は、
「ああ、俺が保証するよ。だから、大丈夫だ」
笑いながらそう言って、奏多の頭にそっと手を乗せる。
「――先生。私に、力を貸してください! 私、みんなに私の音を聴いてほしい。また聴いてくれる誰かの前で演奏がしたいんです、思いっきり!!」
奏多はそう言いながら、流れる涙を手で拭う。
そんな奏多を見た暁は、
「ああ、もちろん大歓迎さ!」
そう言ってニッと歯を見せて笑った。
「ありがとうございます、先生」
奏多は満面の笑みでそう言った。
それから暁と奏多は演奏会に向けて、準備を開始することとなったのだった。
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