第3話ー① 好きなこと

 神宮寺じんぐうじ奏多かなたは、日本でトップクラスの財閥、神宮寺家の長女をして生まれた。


 優しい両親と裕福な家庭の中で育った奏多は、幸せを感じながら日々を過ごしていた。


 しかし。とある事件をきっかけに、奏多の幸せな日々は一変することになったのだった――。



 * * *



 ――奏多の自室にて。


 午前5時30分。奏多の自室では、いつものように目覚ましアラームが鳴り響く。


「んん……」


 アラームの音に気がついた奏多は、唸りながらゆっくりと目を開いた。


 そしていつもと同じ天井が視界に入ると、落胆の表情を浮かべる。


 何度目を覚ましても、ここに来た事実は変わらないのですね――と思いながら。


「また今日が始まりましたか」


 奏多はため息交じりにそう言いながら布団から出て、それから朝の支度を始めた。


 今日もいつもと同じ。何もなく、つまらない一日が始まる――


 奏多はそんなことを思いながら、無表情で制服に着替えていく。


 それから着替えを終えた奏多は、机の上に置いてあるバイオリンケースを手に持ち、そのまま部屋を出ていった。


 ――施設内、廊下にて。


 静まり返っている廊下を奏多はゆっくりと歩き進めていた。そして、窓からうっすらと朝日が差し込むのが見えると、「はあ」とため息を吐く。


 これもいつもと同じ。何の変哲もない日常――


 そんなことを思いながら、奏多は目的地に向かって足を進めた。


 非常階段を上り、屋上に来た奏多は適当な場所にバイオリンケースを置くと、背中に朝日を浴びながら、そのケースをゆっくりと開く。


 そのケースの中には、長年使い続けている奏多の宝物バイオリンがあった。


 奏多はケースからバイオリンと弓を取りだして、いつものようにそのバイオリンを構えた。


 そしてゆっくりと右手の弓を動かし、その音を奏でていく。


 すると、まだ誰も目覚めていない施設内に、奏多のバイオリンの音が響き始めた。


 この早朝の演奏は、奏多が施設へ来た時から毎日欠かさずにやっていることだった。


 私がバイオリンをやめれば、きっとお父様もお母様も悲しむから――そう思いながら、奏多はこの日までずっと一人でバイオリンを弾いていた。


 そして、いつかまた2人の前で演奏する時に恥ずかしい演奏はできないから、と言う思いもあった。

 

 今の私の演奏を聴いても、お父様やお母様は私の音色が好きだとそう言ってくれるでしょうか――


 ふとそんな不安が頭をよぎる。


 そんなとき、バイオリンの音が乱れた。


 はっとした奏多は、意識を指先に移す。


 今は2人のことは忘れましょう。それよりも、今はこの幸せな時間を堪能したいですから。大好きなこの時間を――


 それから奏多は夢中になって、バイオリンから音を奏で続けていた。


 好きなことを好きなだけやる権利を失ったことも、忘れるほどに――。



 * * *



 奏多は3歳の時、初めてバイオリンに出会った。


 それは音楽好きな両親が、奏多を演奏会に連れて行ったときのことだった。


「わあ。お母様、あれは何? すごく素敵な音がする」


 奏多はステージを見つめながら、母にそう言った。


「ええ、そうね。あれはバイオリンって言うの」


 母はそう言って笑った。


「バイオリン――ねえ、お母様! 私もあれ、やってみたい!」


 それから奏多の両親は、そう言った奏多のためにバイオリンを贈ったのだった。


 思えば、あの日から私は、無我夢中にバイオリンを弾いていたのかもしれない――


 バイオリンって楽しい――ただそれだけの気持ちで、始めたばかりの頃の奏多はバイオリンに触れていた。


 そしてそんな思いでバイオリンを弾けば弾くほど、奏多の腕は上達していった。


 上達していくことはもちろん嬉しく思う奏多だったが、もっと嬉しかったのは、演奏を聴いた両親が喜んでくれることだった。


「奏多は本当にバイオリンが上手ね。奏多の演奏を聴いているだけで幸せな気持ちになるわ」

「ああ、とても美しい音を奏でてくれる。もっとその音を聴かせておくれ」


 両親のその言葉を聞きたかった奏多は、毎日飽きもせず練習を続けていた。


 そして小学6年生になると、奏多は初めてバイオリンの発表会に出ることになったのだった。


「奏多の演奏は人を幸せにするから、会場の方々にも同じ気持ちになってもらえたらいいですね」

「奏多なら大丈夫さ! だっていつも素敵な音を奏でてくれるだろう? そんな奏多のおかげで、私は鼻が高いよ!」


 それを聞いた奏多は、両親が自分に期待をしてくれていると思い、嬉しく感じていた。


 期待してくれる2人のために、神宮寺家の名に恥じない私でいなくては――


 奏多はそう思い、小さく頷くと、


「お父様、お母様。神宮司家の長女として、必ず恥じない演奏を致します。どうか期待していてくださいね」


 笑顔で両親にそう伝える。


 それから奏多は、演奏会に向けて練習を始めたのだった。


 これまではお父様とお母様を喜ばせるための演奏だったけれど、今度の演奏会は、神宮司の娘としての私の器が試される――


 奏多はそう思いながら、険しい顔をしてバイオリンの練習をしていた。


 そしてちょっとしたミスをすると、


「あ、また――」


 そう呟いてから、また同じ所を何度も繰り返して練習をしていた。


 私は多くの人たちからの期待に応えなくてはならない――


「だって私は、神宮寺家の長女なのだから……」


 それから奏多は学校へ行く時以外、ずっと部屋に籠り、バイオリンの練習を続けていた。


 そんな奏多を見た母は、


「無理していない? 大丈夫??」


 不安な顔で奏多にそう尋ねた。そして奏多は、


「大丈夫ですよ」


 と無理やり笑顔を作ってそう答えた。


 大丈夫――大丈夫と言っていないと、私は神宮寺家の長女ではいられなくなりそうなんだもの――


 奏多は笑顔の裏でそんなことを思うのだった。


 それからも奏多は無理をしながら、練習を続けていった。


 そして発表会の3日前のこと。


「違う!! 違う、違う違う!!! こんな出来なんかじゃダメなのに! なんで、出来ないのよ!!」


 思うように練習が捗らず、奏多の苛立ちはピークに達していた。


「私は神宮司の長女なのよ! このままじゃ、お父様もお母様も笑われ者になってしまう――私なんかのせいで、お父様とお母様に恥をかかせるわけにはいかない!!」


 奏多は苛立った感情のまま、練習を続けた。


 その行動が、自分の人生を大きく左右することと知らずに――。

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