第14話ー① ほんとうのじぶん

『良い子にして待ってるのよ?』


 笑顔でそう言ってから、扉を閉める女性。


『いってらっしゃい、ママ……』


 そう呟きながら、扉の前で一人取り残される幼い少女。


 それから少女は、先ほどの笑顔の女性――母が出て行った扉をじっと見つめて、その扉が開くのを待っていた。


『良い子にしてたら、ママがすぐに帰ってくる。ユウが良い子じゃないと、ママは帰ってこられないんだ。だから、ユウがもっと良い子にならなくちゃ……ママに、嫌われちゃう……』


 そして、少女はずっとその扉が開くのを待ち続ける。


 しかし待てども、待てどもその扉が開かれることはなかった。


『ママ、ママ……いつ帰ってくるの? ユウがまだ悪い子だから帰ってこないの? ねえ、ママ……』


 そして少女の目から、涙がこぼれる。


『一人は、嫌だよ――』




「!?」


 布団から飛び起きる優香。


「ここ、は……」


 それから優香は周囲を確認する。


 ここはあの家じゃない。今の私は、もう――


 そう思いながら、優香は顔に両手をあてる。


 そして頬に涙が流れていたことを知ったのだった。


「でも、なんであんな夢――もうあの時の私じゃないんだ。今の私は、もう大丈夫なんだから」


 優香はそう言い聞かせるように呟いた。


 それから優香は身体を起こし、クローゼットから制服を取り出して着替え始める。


 その後、着替えを終えた優香がふと窓の外を見ると、そこには朝焼けがとてもきれいな空が広がっていた。


「朝食にはまだ少し早いかな。ちょっと散歩しよう」


 そう呟いてから、優香は部屋を出たのだった。




 優香は誰もいない静かな廊下を歩きながら、今日見た夢のことを考えていた。


「なんでまた、お母さんの夢を……」


 それから優香はその場で足を止めて、朝日が差す窓の方に向かう。そしてそこから見える空を見ながら、昔のことを思い出していた。



 * * *



「ユウちゃん、ごめんね。ママがちゃんとしなかったから……。ごめん、ごめんね……」


 母はそう言って泣きながら、まだ幼い優香をそっと抱きしめた。


 幼い優香は母の涙の意味を知らず、たぶん母に悲しいことがあったのだろうと思い、ただそっと母の胸に顔をうずめたのだった。


 そしてその日から、優香は母と二人きりで生活していくことになったのだった。両親の離婚が原因で。


 それからの優香の母は、女手一つで優香を育てるために朝から晩まで働き詰めだった。


 優香の為なら――と初めこそ頑張っていたものの、もともと身体が強くない母は、いつしか心も身体もボロボロになっていた。


「ママ、頑張るね。ユウがちゃんと生きていけるように、ちゃんとした親になるから」

「うん! ユウも頑張ってママのことを応援する!」


 優香が満面の笑みでそう言うと、


「ありがとう、ユウちゃん……」


 そう言って母はやつれた顔で微笑んだ。


 そしてある日の事。追い詰められていた母は、ついに心が崩壊する――


 母は唐突に仕事をやめ、毎日酒に溺れるようになり、日替わりで知らない男性と夜中に出歩くようになった。そして、出かけたまま何日も帰らない日もあった。


「じゃあユウ。良い子で待っていてね?」


 派手な服に身を包んだ母が、幼い優香の顔を見ながらそう告げる。


 またお出かけ……次はいつ帰ってくるのかな――


 そう思いながら、優香は母を見つめる。


「おーい、まだか??」


 母の後ろから聞こえる男性の声――それは優香の知らない男だった。


「ちょっと待ってよー! 今行くわ! じゃあね、良い子にしてるのよ? 行ってきます」


 そう言って、母はその男と共に家を出た。


 幼い優香は家に一人取り残され、玄関の扉の前でぽつんと佇んでいた。


 ユウが悪い子だから、ユウのことが嫌いだから、ママは家にいたくないんだ――


 それから母にこれ以上嫌われたくないと思った優香は、必死に良い子を演じるようになった。


「じゃあ、優香。ママは出かけるわね。良い子にしているのよ」


 香水のきつい香りと厚化粧を見た優香は、今日もまた知らない男の人と出かけなんだ――と思う。


「うん。いってらっしゃい! 気をつけて行ってきてね!」


 優香が笑顔で送り出すと、母は嬉しそうに家を出て行った。


 そして優香は母が出て行ったあと、またいつものようにぽつんとその場に佇んだ。


「これでいいんだ」


 良い子でいなくちゃ、私は嫌われる。これ以上、ママに嫌われたくない……ママが好きって言ってくれる子にならなくちゃ――


 母に嫌われたくない優香は、この頃から必死に自分の気持ちを殺して生きるようになった。


 そしてどんな言葉に母が喜ぶのか、どんな行動が母にとってベストなのか――優香は常にそんなことを考えるようになっていた。



 そして私は、母にとってとても『都合の』良い子に育つ――



 ――数年後。


 優香は算数のテストで満点を取り、それを母に見せると、


「すごいわ、優香! 優香は私の誇りよ」


 嬉しそうに母はそう言って優香を抱きしめた。


 お母さんが、初めて褒めてくれた……私のことを。もっと、もっと褒められたい。お母さんに褒められるためなら、私はなんでも頑張れる――


 それから優香は、母に褒められる良い子であるために、身を削りながら頑張るようになっていった。


 テストはいつも満点を取り、かけっこはクラスで一番早く、誰にでも好かれるように努めた。


 どれもこれも母から言ってもらえる『私の誇り』という言葉のためだった。


 そして優香はこの生活を続けるうちに、黙っていてもクラスメイトがいつも集まるくらいの人気者になっていた。


 そんな優香の活躍を耳にするたびに、


「私の子でいてくれてありがとう」


 母は優香にそう言った。


 その言葉を聞く度に嬉しく思う優香だったが、何か心に引っ掛かるものを感じるようになっていった。


「よかった、これでよかったんだよ……」


 優香は自分にそう言い聞かせ、心の引っ掛かりを見て見ぬふりをする。


 このままの私でいれば、もう私は一人じゃなくなる。みんなに――ママに愛してもらえるんだから――


 そしてそれからの優香は、自分の本当の気持ちを出すことが怖くなった。


 きっと本当の私は嫌われる……みんなに嫌われて独りぼっちになるくらいなら、このまま本当の気持ちは隠していたほうがいいんだ――と思うようになったからだった。


 しかし、それでいいと思っていた優香は、まさか自分が『白雪姫症候群スノーホワイト・シンドローム』に覚醒するなんて思いもしなかったのである。




 中学1年生の冬。学校で行われた定期検診で、優香は『白雪姫症候群スノーホワイト・シンドローム』が覚醒したことを伝えられた。


「あの、それで。私のクラスって……」


 優香は検査員に恐る恐るそう尋ねる。


「心配しなくても大丈夫ですよ。糸原さんはC級です」

「そうですか……。よかった」


 優香は検査員の話を聞いて、安堵した。


 C級クラスは日常生活に支障をきたさないレベルの能力。もしもS級クラスだったら、今まで積み上げたものがすべて無駄になってしまうところだった――


「これで私はまた、お母さんのために頑張れる……」


 そして優香は、いつも通りの日常に戻っていったのだった。

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