第3話ー⑥ 好きなこと
――数分後。
時刻は15時になり、授業の終了を知らせるチャイムが鳴った。
まゆおはチャイムが鳴る少し前に教室を退室しており、ノルマの達成ができていない奏多と暁だけが教室に残っていたのだった。
そしてチャイムを聞いたのと同時に、奏多はゆっくりと勉強用具の片づけを始めていた。
そういえば奏多はさっき、気が乗らないって言っていたけど。何かあったのだろうか――
暁はそんなことを思いながら、片付けを進める奏多を見つめる。
そして奏多のその表情が、なんだか退屈そうにしているように感じる暁。
授業中も思っていたけど、奏多ってなんだかずっと退屈そうな顔をしてるよな。バイオリンを弾いているときはあんなに楽しそうだったのに――
暁がそんなことを考えていると、奏多ははっとした顔をしてから手を止めて、
「…………先生は、好きなことってあるんですか?」
と唐突にそう尋ねた。
「え!? 好きなこと、か……」
いきなりどうしたんだ? どこでどうなって、そんな質問が――?
思いもよらない奏多のその問いに、暁は動揺していた。
「ないのですか? 先生には」
奏多は暁の目をまっすぐに見て、そう言った。
これは真面目に答えないと、奏多にも失礼だよな。
そう思いながら、暁は真剣に考える。
改めて聞かれると、俺の好きなこととはなんだろうな――
それから、楽しそうに食堂で食事をしていた生徒たちの顔が頭をよぎった暁は、
「……人が、楽しそうにしているのを見ることかな」
そう答えて微笑んだ。
「何もせず、ただ見ているだけですか?」
奏多はそう言いながら、きょとんとした顔をして首を傾げた。
「ああ! だって誰かの楽しそうな顔とか幸せそうな顔を見ると、俺まで幸せになれるからさ。だから好きなんだよな!」
そう言って、「ははは」と笑う暁。
「なる、ほど」
「そういう奏多は? やっぱりバイオリンか?」
暁がそう尋ねると、奏多は悲し気な表情をしてからゆっくりと俯く。
「バイオリンは好き――なんかじゃないです。あれは人を傷つけるものだから」
奏多は哀愁漂う雰囲気でそう言った。
「そう、か」
なんだか悪いことを聞いてしまったのかもしれない。
そんなことを思いながら、奏多を見つめる暁。
もしかしたら本当は好きだって、胸を張りたかったのかもしれない。でも、そう言えない理由がありそうだな――
「そういえば朝のこと、聞かないんですね」
奏多は視線をやや下に向けたまま顔を上げて、暁へそう尋ねた。
「……ああ、たぶん言いたくない理由でもあるのかなと思ってな」
暁がそう言って微笑むと、
「察しが良くて、助かります」
そう言って暁から顔を背ける奏多。
やっぱり朝のバイオリンの演奏は知られたくないことだったのか。だから誰も起きていない、あの時間にあの場所で演奏していたんだな――
今朝の食堂でのやりとりがようやく腑に落ちた暁。
そしてそれを踏まえて、暁は再び奏多に問う。
「バイオリンが好きじゃないとするなら、奏多の好きなものって一体なんだ?」
「私の、好きなもの……うーん。食堂の絹ごしプリンって事にしておきます」
奏多は少し考えてから、そう答えた。
「しておきますってなんだよ!」
ちょっと興味湧いちゃったけどさ! と心の中で叫ぶ暁。
「とりあえず絹ごしプリンってことです。美味しいですよ、絹ごしプリン?」
「具体的にはどう美味しいんだ?」
暁のその問いに、奏多は顎に指を添えると、
「しっかりと生地こすことで、とてもなめらかな舌触りになっていて、その絶妙な甘さ加減は紅茶によく合い、とてもくせになるおいしさです。
そして――それを一口食べれば、忘れられない場所へと連れて行ってくださいますよ」
と笑顔で答えたのだった。
奏多からの絹ごしプリンのプレゼンを聞き終えた暁は、ごくりと唾を飲み込む。
今夜あたり、あればぜひ頂こう――と心の中で暁は決心していた。
「――まあ、とりあえずはわかった。奏多は絹ごしプリンが好きって事にしておくよ」
あんなに語られたら、さすがに好きっていうのも嘘じゃなさそうだしな――
「事にしておくって――うふふ、さすがは先生。理解が早くて助かります」
そう言って、軽く微笑む奏多。
「というか。それは好きな、ことなのか――?」
「じゃあ私もそろそろ部屋に帰ります。先生、お疲れ様でした」
暁の言葉を遮るように奏多はそう言って立ち上がり、教室を出て行った。
それから暁は一人になった教室で、先ほどまでの奏多との会話を振り返っていた。
「奏多はバイオリンを好きじゃないと言っていたけれど、たぶんそうじゃないんだろうな」
そう呟き、今朝見た奏多の姿を思い浮かべる暁。
あんなに早い時間から誰にもバレないように演奏していて、その音は優雅でとても幸せな音なのに、好き以外に何があるんだろうか――
『――人を傷つけるものだから』
暁は奏多が言ったその言葉を反芻していた。
奏多はきっと自分の能力で人を傷つけないために、大好きなバイオリンを封印しているのだろうな。
そう思いながら、暁は苦い顔をする。
それなら周りの人間を傷つけずに済むかもしれないけれど、でも奏多自身はどうなる? その為に好きなことを思いっきりできずにいることが、奏多にとっての幸せなのか――?
それで奏多が幸せなはずがないだろう、と暁は思った。
「みんなが傷つかず、そして奏多が幸せでいる方法か……」
このままじゃ、俺が思いついた名案を奏多が簡単に受け入れてくれそうもないな。どうしたら、奏多が納得してくれる?
そう思いながら、暁は腕を組んで「うーん」と唸る。
「そうだ、俺がいるじゃないか! 俺の能力があれば、きっと!!」
そして暁は片づけを終えてから、急いで奏多を追いかけた。
俺は奏多の音を多くの人に届けたい。そしてその方法があることを俺は奏多に伝えたいんだ――とそう思いながら。
「奏多の音は、人を傷つけるものなんかじゃない。幸せにする音だと俺は思ってる」
暁はその言葉を、想いを伝えなければならないと思った。
できるかはわからないけど、俺は俺のやりたいことをやるだけだから――!
「確か、自室に行くって言っていたな。まだ間に合うか?」
そして暁は奏多の元へと急ぐのだった。
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