第二幕
「あー、お客様、帽子とコートはあちらに」
バイトが虚ろな目で、古びたコート掛けを見ながら言った。
「すみませんが、着たままで」
「あー、そういう決まりになってまして」
「いや、このままにさせてください」
困り顔になったバイトが黒スーツの社員を見つめると、男は立ち上がって俺の前まで来た。相手はウミヘビみたいな柄のベルトに、金のイヤリングをしている。
「お客さん、あんまりウチの若いのをいじめてもらっちゃ困りますよ」
「脱がないと不都合ですか?」
「不都合って、ウエットスーツの上から、襟の立ったコートと帽子。そんななりでよく人前に出られますね」
黒スーツの男は失笑しながら言った。
「平気ですよ。都会の人間は、どんなやつとすれ違ったかなんて、誰も気にしません」
「ああ、そうですか。まあ、さっさとオーダーしちゃって下さい」
言うだけ言った男は、再び元の席に戻った。社員らしい仕事をする様子もない。
「とりあえず、握りの松を」
「…はい」
バイトは疲れ切った声で応じた。昔ドラマで豊臣秀吉を演じた俳優のような元気の良さ、とまでは求めないが、並のバイトでさえ、もう少し元気そうなものだ。忘れているのか、決まりになっているのか、アガリは出てこない。椅子は硬くて塗りがはげている。
「大学生ですか?」
待っている時間が手持ち無沙汰だから、板前に尋ねてみた。
「…はい」
気の抜けた声で返事をした板前は、ゾンビのようにゆっくりと寿司を握っている。
「何時からのシフトなんです?」
「あー、四時です」
時計の針は零時をまわっている。俺は目の前の若者が、気の毒に思えてきた。この店に味は期待できないが、深夜まで働かされている学生バイトに、多くを求めるのは酷だろう。
俺が小皿に醤油をたらすと、どす黒くて香りが全く無い液体が出てきた。使う気になれない代物だ。
「…はい、松です」
俺は軽く頷いて、とりあえずトロを食べてみた。案の定、不味い。
ご丁寧にお品書きが添えてあるが、カニとされているのはどうみてもカニカマだ。
ニューミールという謳い文句を信じてみれば、とんだ裏切りだ。ニューもなにもあったものじゃない。
「これ、カニカマだろ」
流石にイラッときて、奥にいる社員の黒服に呼びかけた。
「いいえ、カニです」
相手はいけしゃあしゃあと、見え透いた嘘をついた。
「いや、カニカマだ」
話は平行線だ。
ゴトリ。
思い出したかのように、板前がアガリを置いた。この音がきっかけであるかのように、黒服が立ち上がった。
「ちょっと来て下さい」
黒スーツの男にしたがって、俺は店の外に出た。寿司はカウンターに残したままだ。
俺が連れていかれたのは、隣のビルの六階だ。なにかの会社らしい。
蛍光灯で照らされた床にはカニの甲羅がいくつも転がっている。事務所には、俺を連れてきた奴のほかに、三人の男がいる。全員、上から下まで黒ずくめで、ピカピカに磨き上げた黒革の靴をはいている。
どうみてもマトモな会社のオフィスじゃない。
「阿野河さん、またアレっすか。アレっすよね?」
三人ともビールでご機嫌になっていて「うぇー」だの「うぇーい」だのと、囃し立てるような声を上げたり、カニのハサミで遊んでいる。
酔っ払いを見るよりはと思って窓の外を見る。すこし離れた表通りをトラックとタクシー、それに走り屋のスポーツカーが行き来している。
「ですからね、あれはカニなんです」
阿野河と呼ばれた黒服の男が、騒ぎには構わず、ニコニコと語りかけてくる。
「ほら、その証拠に、こんなにカニがあるじゃありませんか」
あなたも一ついかがですと、いいたげに、まだ身がのこっているカニを示した。
「あれはカニカマだ」
「いいえ、カニです」
黒服が一歩踏み出し、わざとらしくカニの甲羅を踏んづけて大きな音を立てた。
「とにかくね、寿司の四千五百円と、バイトを困らせた慰謝料の五万円、きっちり払ってもらいますからね」
相手をする気になれず、俺は無視してやった。
「だいたいお客様こそ、ウエットスーツの上からコート羽織って入ってきて、帽子も取らないなんて、どういう了見です?『帽子とコートはあちらに』って、ウチのものがご案内したでしょう?だいたい寿司屋ってのはねえ…」
パーーーーーン!
黒服の余計なお説教を、表通りでタイヤがパンクする音が中断させた。
「帽子とコートはあちらにって…」
俺は呼吸を整えるようにゆっくりと言葉を吐き出す。
「セリフはなあ…」
続いて手足に力をこめる。
「てめえらには勿体ねえっ!」
帽子とコートを脱ぎ捨てて、ギザギザ模様の入った吸盤のある頭と、真っ赤な色をした首筋のエラを見せつける。
おまけにヒレブレードまで展開してやると、酒盛りをしていた三人は「半魚人」と、叫んで卒倒した。
なんとか踏みとどまった阿野河はといえば、非常識にも俺の平たい頭を指差して「カッパ」と、叫んだ。
「違う。俺は、
怒りとともにスピンを決めると、深海の圧力で鍛えあげたカミソリのような刃が、相手のベルトをバッサリと切り落とした。阿野河は、緊張の糸が切れたかのように、ばったりと床に倒れ込んだ。
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