第2話「何て誘ったらいい?」



「とーみーおーかーせーんーせー! 失礼しゃーす」


 間の抜けた声とともに開けられた扉を、キャスター付きの椅子に座ったまま振り返る。


 見れば両手が塞がっているせいか、反抗心がゆえか、扉は片足で器用に開けられ、動きを止められていた。


 足を使うな、足を。と、真っ当な教師ならば、注意の一つもくれてやるのだろうが、生憎、真っ当なんて言葉は数年前の良心に置いてきた。


「さんきゅ、ここ置いてくれ」


 ざっ、とサイドテーブルの上の荷物を退かし、即席で場所を作る。


 その横着さを見た古河こがが、辟易したような、残念なものを見たような、絶妙にこちらが物言いたくなる表情を見せた。


「……何だ」


「トミセン、ほんっとまじで、いーかげんだよな?」


 はいよ、と紙の束をテーブルに乗せながら、言った。


「いい加減で結構。形になってりゃいーんだよ、教師なんて」


「そういうこと言うし」


「今更だろ。俺に期待するもんがあるわけでもなし」


 は、と零した自嘲の笑みが、いっそわらえた。


 すると、適当な場所で遊んでいた椅子を引っ掴んで、古河が勢いよく腰かけ、ぐいっと俺の身体を自分に向けた。


「――何だ」


 つい先程と同じ問いが口をついた。


 吸い込まれそうな黒目が、じ、と俺を見据え、意識を引き寄せる。


 僅かな逡巡しゅんじゅんの後に、古河が声を潜めた。


「……なあ、トミセン。今日もこの部屋、誰も来ないよな?」


「まあ、他の先生方は職員室のが居心地いいらしいから……」


 俺はそうではないが。



 だからこうして、自分に与えられた控室で、ひっそりと息を殺している。


 俺は反射的に答えたものの、第六感的な直感が、嫌な予感を訴えかけているのを感じた。


「トミセンのぼっち事情は、どうでもいいんだけどさ」


「どうでもいいわけあるか」


 人が人なら、場所が場所なら、そこそこニュースになる問題だぞ。


 と、問題にする気もないくせに内心で突っ込みを入れた。


 そうでもないと、予感が近づいてくる気がしたからだ。


「あのさ、相談があるんだけど」


「断る」


 即答すると、古河が、むっとした表情で顔を上げた。


 その顔に、言い聞かせるように、もう一度告げる。


「――断る」


「断んなよっ。あのさ……」


「いや待て、勝手に話し始めるな」


 顔を背けながら、ひらひらと手で空気を掻くと、逃げ道を塞ぐように古河が俺の眼前に顔を突きつけた。


「……ッ」


「あのさぁ、今度の花火大会に、亜美あみちゃん誘いたいんだけど……何て言ったらいいと思う?」


「でっ……た」


「ん?」


 でた。出たよ、亜美ちゃん。



 うんざりしたように項垂うなだれると、僅かに慌てた声が頭上に降ってくる。


「ど、どういう意味だよっ」


「……お前さぁ、何でそういうの俺に相談してくんの?」


「トミセンがいーかげんだからだろ」


「はあ?」


 質問に対する答えが返ってきていない。


 これでは期末試験も心配だ、と脳内の一部が、古河の成績に向いたところで、ずいっ、と古河が更に身を乗り出した。


「何て誘ったらいい?」


「…………」


 あと五センチ。ちょっとした弾みで鼻先がぶつかってしまいそうな距離。


 そんな近さで、教え子が俺へ相談事を持ちかけてくる。



 真剣な眼差し、固く結ばれた唇には気恥ずかしさが覗き、けれど、呼吸を呑み込み活路を待つような。



 そのどれもが、眩し過ぎる。


 キラキラと、水面に反射する太陽に似て。



 俺は、ふ、と瞼を下ろし、その光から逃れるように目を閉じた。



 次開く時には、俯き、視線を逸らし、テーブルの上を探る。


 慣れたフィルムの感触に、すぐさま煙草を抜き取り、愛用の百円ライターで火を点けて、くゆらせた。


「けほっ」


 小さくせた古河から離れ、テーブルに正面から座る形で、ひじを乗せた。


 脇が締まり、少しだけ纏まった身体を抱き込むように、一息つく。


 俺の横顔に刺さる視線に束の間耐え、煙の流れを追いながら、しかし、古河に一瞥いちべつをくれた。


「――んなもん、自分で考えろ」


「えっ」


 不安そうに揺れた声音に、頭を掻いた。


 深いため息の拍子に、煙が溢れた。


「花火大会に誘いたいって、まあ、そういうことだろ? だったら、告白の内容、人からの受け売りなんかじゃなく、ちゃんと自分で考えな。上手くいかなかった時に、後悔するぞ」


「……っ、縁起でもないこと言うなよ」


 口を尖らせたのを見るに、俺が言った意味は理解しているらしい。


 気まずそうに細められた目の端に、正しい羞恥を、感じる。


 ふ、と鼻から抜けるような笑みが零れた。




 “クラスに一人はいるような調子者”。


この男に、キャッチコピーを付けるなら、そんな表現を選ぶだろうが、俺は“素直”という言葉を選んでやりたいと思う。



 素直で、年相応で、前途ある分岐の最中さなか


 きっとどの道を選び、掴み取っても、それは失敗じゃない。――俺と違って。



 瞬間、目の前の男がとてつもなく羨ましく、くらむ。


 その歳、その容姿、その性格、その分岐、その未来、通り過ぎた過去ですら、美しく。


「……いいなぁ、お前」


 無意識に、漏れた。


「は?」


 唐突さに驚きながら、意味がわからないと首を捻る仕草が愛らしく、俺は潰れそうな胸を押し隠しながら、手を伸ばした。


「何でもねーよ。……精々せいぜい、青春謳歌してくれ」


 赤茶色の髪を、くしゃり、と撫でると、


「また触って! セットすんの大変なんだぞ!」


 と、非難じみた声が飛んでくる。


 俺は「へーへー」と相槌なのか何なのかわからない適当な返事をして、灰皿に灰を落とした。


「ほら、そろそろチャイム鳴るぞ。友達待ってんだろ」


「あ、やべ。ほんじゃ、トミセン、また来るな!」


 ぱっと立ち上がり、几帳面に椅子を端に寄せながら、忙しなさそうに出入口へ向かう。


「来なくていい。つか、トミセンじゃなくて、富岡とみおか先生だって……」


 言ってるだろう、と続けるはずの言葉は、勢いよく開け放たれた扉の音に消された。


「じゃな、トミセン!」


 軽快な声音とともに走り出した。


「ったく……」


 俺は中途半端に閉じられた扉の隙間を、きちんと埋めるために、席を立った。


 古河は、まるで台風のように凄まじいエネルギーをはらみ、周りの全部を巻き込んでゆく。


 あれくらい強い意思や影響力があれば良かったのだろうか、と俺はまた一つ胸に落ちた感情に、死にたくなった。








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