笑み
珈琲の香り。
外は、しとしとと冷たい冬の雨が降っていた。
目の前の席ではサラリーマン風の男が新聞を広げながら黙々とスマートホンを触っている。隣の席では近所の大学の学生カップルだろうか、男の方は一緒に居ることがただただ嬉しいという様子で、女の方は、ひょっとするとただ仕方なく付き合っているだけかもしれないような、何とも言えない不思議な表情をしていた。まあ他人の人生だどうでもいい。それよりも、皆それなりに目的があってこの場にいるんだなあと、よく分からない感慨にふけいる。
午前10時半。昼にはまだ早く、朝には少し遅いこの時間。
人気がまばらな喫茶店でカップの珈琲を320円出して頼んだ。
大して美味しくもない珈琲だが、ここにいることを、このお金で許してもらう、そういうシステムなんだろう。このお金を払えば目的なんかなくても不審者扱いされないのだ。それに、雨はまだ止んでいない。
ぼんやりとまずい珈琲を口に運ぶ。
サラリーマン風の男の席にOL風の女が来た。姦しい会話が耳に触ったので、イヤホンを入れることにする。周りの風景が急に背景になる。
真の孤独は社会から遠く離れた所ではない、雑踏の中の個人こそ真に孤独である。みたいな格言をだれかが言っていたなぁ、とふと思い出した。
そうか、僕の今の状態は孤独なのか。そうかそうか。
スマートホンは机の上に出してある。暇をつぶせる文庫本はいつだって持ち運んでいる。一人で公園で文庫本を読んでいるふりをする分には職務質問はされないが、何もしないで公園にいると警察官は頑張って仕事をしようとする。この世の中は何もしない人間に著しく厳しい世の中なのだ。
ここでは、いつもいつも何かをしてなきゃいけない。何かの為に生きなきゃいけない。ただそこにいて、ただ存在する人間は異端なのだ。
だって、みんながそうじゃないから。
何かに向かって努力する人間の美しさ、眩しさ。
その太陽みたいな光の強さは、僕みたいな日陰の植物にはちょっと強すぎる。
ちょっと弱い雨でも降ってくれたらいいのだけど。
だから僕は珈琲を買ったのかもな、なんて、誰も見てないところで笑ってみる。
外は、ざあざあと相変わらずの音を立てて降っていた。
何もしたくなさ過ぎて存在すら億劫になってきた。
顔を横にしてそのまま机に突っ伏してみる。隣の席のカップルの男がこちらを見ているが無視した。鬱陶しいので目を瞑ってみる。
これはまた、やはり、ずいぶんな孤独じゃないか。イヤホンから音量ゼロの音楽がなっている筈である。ノイズキャンセリングで周りの音はほとんど拾わない。くぐもった小さな声だけが聞こえていた。死んでもし意識が残っているとしたらこんな感じなのだろうか。周りの声はくぐもったどこか違う世界の音みたいに聞こえる。こりゃあいい。ちょっとした死じゃないか、これは。経験しえない第一人称の死を、たった320円で体験できるなんて、随分喫茶店ってのは凄い環境だな。
パッと、目を開ける。いつの間にか隣の席は誰もいなくなっていた。身体を起こし首の骨を鳴らす。変な体制で寝ていた為か首が痛い。唇がぱさぱさしている気がする。すっかり冷たくなった不味いコーヒーを口に含む。外に目を移すと色とりどりの傘が足早に道路上を流れている。ほんの少しだけ雨は弱くなっているように見えた。今僕は周りからどんな風に見えているだろうか。上手く雨宿りをして手持ち蓋さになっている男を演じられているだろうか。そとに見知った赤い傘がすーっと流れていく。それがたまたま目についた。さしている人間は見たこともない女だった。髪型がちょっとだけ彼女に似ていて、不覚にも心臓が掴まれたような気分になり、そして安堵と共に薄暗い気持ちが再び押し寄せてくる。
そして不味い珈琲を一気に飲み干す。泥水みたいな苦さは気分をちょっとだけ明るくしてくれた。外は軽いシャワーみたいな雨で、きっと傘を持っていなかったらびしょびしょになるだろう。だから傘は傘立てに置いていくことにした。
「ありがとうございましたー」
気のない店員の声を後ろに、雨に濡れた。別段気持ちよくもなかった。でもそのまま少し歩くことにした。髪の毛の中がすっかり濡れて、髪を伝った雨が額から落ちて目に入り、頬を流れる。鬱陶しいったらありゃしないが、なんだかやっぱり心が少しだけ軽くなる。通り過ぎる人が少し距離を話すように、まるで側によっちゃいけない物みたいに僕を扱うのが分かる。おかしいな、今の僕はただ傘を忘れて、濡れるしかない、哀れな仕方のない、可愛そうなやつなんだけど。
ああ、そうか。なんでだか分からないけど、僕は笑顔みたいだ。手で自らの頬に触れてみる。やっぱりそう。空を見上げる。雨が顔中に降りかかって目にも入る、頬を流れる。なぜか目が痛い。そうして鬱陶しい髪を上に掻き上げる。
「ははははは、ははは、はは…」
これが気狂いというものか。気狂いと言うのは社会から淘汰された人間に周囲の人間が貼る境界線だとばかり思ってた。でも、今僕は僕を気狂いだと思っている。なんなんだこれは。僕は自分がくるっているなんて思ったことは無い。でも今まさに僕は狂いの渦中にいる。いったいなぜ、僕は今狂っているんだ。
そうして僕は赤信号を、一歩だけ前に出ることにした。
だって雨が気持ちよかったから。
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