猶予
Day4、私たちが目を覚ましたのは、もう太陽が高くなった頃。
温かくて満たされた思いで瞼を開ければ、春人と視線が絡む。
「……おはよう」
少し枯れた声でそう囁いた春人は、その頬をほのかに色付けて少しばつが悪そうな笑みを浮かべた。
出しっぱなしのこたつの上を一緒に片づけて、順番にアパートの共用風呂でシャワーを浴びて。
春人のスウェットを身に纏って二人で食事に出かける。私の服は春人の部屋の洗濯機で洗って、乾かしている所だった。本当は着替えは持っているのだけど、そういうのも不自然だからありがたく借りている。
昔はこういうアパートが立ち並んでいたらしいというこの近辺には、こじんまりした大衆食堂がいくつも並んでいて、どこも昼時には学生や会社員で溢れていると聞いた。
春人が選んだ店は、カウンターにいくつかのテーブル席、大人数のグループが適当に寛いでいる奥座敷を構えた賑やかしい場所だった。
勝手知ったるように空いていた隅のテーブル席に座って、春人が手作りのメニュー表を広げる。
「ノゼちゃん、好き嫌いある?お洒落なお店とかじゃなくて悪いけど、ここ、割と何でもおいしくてボリュームもあるからさ」
周囲の雑然とした話し声に合わせて、向い合せに顔を近づけていつもより心持ち大きな声で春人が言う。それから、文字の並ぶメニュー表を指していくつかを勧めてくれた。
どれもが馴染みない料理だったが、店の中いっぱいに立ち込める匂いはとても美味しそうで、ひどく空腹を感じた。
「じゃ、春人と一緒のがいい」
そう伝えると、春人はメニュー表をしばらく眺めて少し考え込んで、それからカウンターまで注文を伝えに行く。
そういえば、私はずっと身一つだ。出会ってからずっと、春人は当たり前のように私の世話をして、それなりに出費もかさむだろうにそれを一言も口に出したことはない。
「ごめんね、全部面倒みて貰ってて」
両手に水の入ったグラスを持ってテーブルに戻ってきた春人に、急にその事を実感した私は頭を下げる。
春人は驚いて静止するように片手を振って、頬を赤くしてへらりと笑った。
「ううん、いや、僕こそノゼちゃんにはいっぱいお世話になってる気がするんだ。こんなにもね、息をするのが楽しかったことって、もうずっとなかった気がするから」
どこか遠くを見た瞳は、すぐに私に戻って来て、じんわりと温かい熱を伝える。
胸がドキドキした。
私は今、春人にとってかけがえのない
それは舞い上がりそうなほど嬉しくて。同時に酷く切なくて苦しい。
本日Day4、もうとっくに帰還していたはずの午後。
私は春人と離れがたくて、春人は私を求めてくれている。
明日はDay5、その先はない。
私が全てを捨てたとしても、私はここにはいられないのだ。時の運行が破綻してしまう。
その変わらぬ事実を頭の片隅に追いやりながら、残り僅かとなった逢瀬に浸っていた。
そして、Day5。
目覚めると目の前にいる春人は、昨日と変わらずに優しく私を見つめている。
昨日は食事の後には雨が降り出して、いつもの映画の撮影にも出かけなかった。
私と春人はずっと一緒だった。
春人の部屋で、彼のお勧めの映画を見て、初めて一緒に料理したりもした。
そんな技術は一切なくてあたふたする私に、丁寧に教えながらできる仕事だけを与えてくれる春人。
彼女を見つめ続けていた瞳に宿っていた熱が、今は私と絡む視線に灯っている。
本当はずっと、このまま、ここにいたい。
だけれど、タイムパラドックスはそれを許してはくれないだろう。
私がいなくなってしまう未来。私に関連するものが消えてしまう未来。
私がもしも何かを発明する予定であれば、それも未来から失われる。
もし私が子孫を繋ぐ道筋があったならば、その血族は全てなくなってしまう。
そして、本来春人が歩むべきだった道もまた変わってしまう。
春人が一緒に笑いあうはずだった相手はどうなる?
結婚するはずだった相手は?
繋いでいくはずだった血は?
エラー。『時』は正しい姿を失ってしまう。
その歪みが私たちのいた現在点にどう作用するかはわからない。
未来は変わってしまう?
それが許される訳はない。
タイムパラドックスの議論の中では、一つの仮定がある。
いつか時を超える技術が出来て、時を操れるようになって。その時の運行を捻じ曲げる誰かがいたならば。
それよりも、もっともっと優れた技術を持つ、遥か遠くの時点から介入される。いわゆるタイムパトロールだ。
勿論、時は一限ではなく、多次元に、つまりは多くの
未来からのアクセスで事実を変えてしまったなら、在るべき世界から逸脱するのは確かだった。
だから、そもそも接触してはならなかったのだ。
もしも変わってしまった未来が、通常の時の運行にとってひどく不都合であった場合。私が春人に接触した事実は消されるだろう。
どうやって消すかは分からない。何が時の運行にとって損失が少ないのか、未来を知らない私には判断材料がないのだ。
私が消されるのならまだいい。でも、春人の存在そのものが消される可能性だってある。春人がいなければ私はここに来なかったのだから。
そう、だから、私はこのままここにいることはできない。
絶対に、できなかった。
恋は盲目という。
もう二日も『メティス』にアクセスすらしていない私のように、溺れきって。
それでもこの時間を手一杯にかき集めて、離したくないと駄々を捏ねるように。
目を瞑って、耳を塞いで、忘れてしまいたいのだ。そう知った。
Day5。私は決心した。
全て、春人に話そうと。
そして、彼にさようならを言う決意を、痛む胸の奥で固めていた。
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