帰還準備
Day5、午前。
春人は大学でほんの少しだけ残っている履修項目の講義があると出かけて行った。
私は久々の寝具しかない部屋に戻り、急いで『メティス』を起動する。
すっかりスリープしてしまった画面の復旧を待って、まずは3日ぶりにセルフチェックを起動。随分と間が空いてしまったので、今回はそれなりの時間が掛かってしまうと予測できた。
無駄にできる時間はない。同時に待機エネルギーを駆使して『メティス』の管理画面のチェックを行う。
私たちの時代には当たり前のような設備は、この旧世界にはない。
次元収納バッグから取り出したのは掌に乗るサイズのコインサイズのAI本体で、起動させれば展開して複数のパネルモニターや入力端子となる。実体がない分、その投影の全てにはエネルギーを要している。
普段使う入力端子は、仮想キーボードだ。思考を読み取っての入力も可能であるが、人間の頭脳は並列思考を持っている。そのため、一つのことに集中して事を運ぶ以外ではエラーが多くなって、精密作業では逆に修正作業に時間を取られてしまうから、私は敢えて最初からの手入力を好む。
物心ついた頃から当たり前のように行っている作業は手慣れたもので、まだ起動中の『メティス』に次々と処理すべき設定を積み重ねていく。
この何もない狭い部屋にほんのりと青みを帯びた光の輪郭をもつ立体が多数浮かんでいる光景はひどく不似合だった。
スリープからの再生時のチェックが終わり、管理画面が開く。
前回、Day2の起動以降にはメッセージが数件。
此方のエネルギー消費を最小限に抑えるためにだろう、本当に最小限の文字で。
『無事』『待つ』『祈る』『信じる』『願う』
ジャンザリは朝晩に一言ずつメッセージを送ってきている。
『メティス』の本体は私の手元にある。ほんの一本の情報端子だけを残して。
その情報端子は、千年を超えて新世界の私の研究室に繋がっている。
この一本の情報線の維持コストは途方もないものだったが、それを使って情報を送るのもまた途方もないコストを要する。
つまり、ジャンザリはこのメッセージを送るために、多大なエネルギーをかき集めたはずだ。
『諾』
私は一言だけメッセージを返す。
そのメッセージは、思ったようなエネルギーの減少をもたらさずに送信された。
確認するとジャンザリの送ったメッセージには全て復路のガイドがついていた。
待っているのだ。
私の言葉を待っている。信じて、願って、祈りながら待っているのだ。
私がこの恋に溺れきっている間、ジャンザリはずっと私を案じて画策していたのだろう。
何度も何度も、私を引き止めようとしていたジャンザリの顔を不意に思い出す。
苦しそうに潜めた眉が、悔しそうに噛みしめた唇が。滲みながらも私だけを見ている瞳が。いつも見ていたはずの顔が、脳裏で再生された。
初めて彼が人間だと気付いた思いだった。
そして、その彼は、今の春人と同じ瞳で私を見ていた事も理解してしまった。
そう、知ってしまった。私は、情を。恋を初めて知って、そこにある想いを。
帰らなければ。私は、一人ではない。
『メティス』のチェックの結果、十分とは言えないだろうが帰還へのエネルギーは何とか履行可能なギリギリの範囲であるとわかった。
状態には問題がない。何一つエラー表示や確認申請がない辺り、これももしかしたらジャンザリが手を加えて管理していてくれたのかもしれない。
タイムリミットは、今晩。夜更けくらいまでは、何とか。それ以上はエネルギーがもたない。
タイムリミットまでに、帰らなければならないのだ、必ず。
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