最終予定日の夜更け

 夕暮れ。春人の顔には少し影が差していた。

 昨日より幾分早くアパートへと戻り、それからすぐに春人は私に割り当てられた部屋の扉を叩く。

「少し飲まない?ああ、ノゼちゃんって飲めるのかな」

 戸惑いがちの弱気な視線には、寂寥感が漂っていた。だから、私は考えるより先に頷いた。


 春人の部屋は、私が間借りした部屋と同じ造りであるのに、寝具くらいしかない殺風景な部屋とは異なって生活感がある。

 古い畳の上に小さな炬燵。立ち並んだ背の低い本棚。その上にテレビ。端っこにベッドがおさまってギリギリの、本当に小さな居室だった。

 Day1から、私はここに招き入れてもらい食事を共にしていた。なので、もう目新しいと言うほどではない。

 だけどここは春人の気配に満ち溢れていて、とても恋しい場所だった。ここにある全てのものが春人のものだと考えると、興味は尽きない。


 私はアルコールが飲めなくない。

 夢想国連合での飲酒制限は16歳。遺伝学的研究の発達から、アルコール分解の度合いに応じて体質別に改善薬を接種されるため、中毒症状は酩酊を望む好事家にしか起こり得ない。ずっと昔にこの法ができた時には、『飲酒の楽しみとは』とかなり物議を醸したらしい。

 それでも改善薬が普及した世界で育ったので、この旧世界の人類と比べるとアルコールに対する耐性はかなり強いのだと思う。



 味気ない透明なガラス造りのコップを並べて、春人が綺麗な青い瓶を傾ける。二つのグラスに注ぎ終わると空になるような可愛らしい雰囲気の瓶が、他にも何種類かこたつの天版に並んでいる。夕食にと買ってきた惣菜やおにぎりなんかが一緒に並んでいるから、狭い卓の上は端まで埋まっていた。


「ここ、溜まり場みたいになってる事が多いからさ、お酒のストックだけはたくさんあるんだよね。この辺りなら飲みやすいし度数も低いから試してみて」

 へらりと笑う春人からグラスを受け取り、透明なガラス越しにしゅわしゅわと気泡を浮かべる液体に口をつける。柔らかい甘い香りが漂って、炭酸を弾けさせながら棘のないまろやかな風味が喉を下る。存在感はあるのに、爽やかで優しい。

 なんだか、春人みたいだ。ふっと口元に笑みが浮かんだら、春人は嬉しそうに目を細めて微笑んだ。

 彼はとても、世話を焼くのが好きみたいだ。

「おいしいね」

「よかった、口に合ったみたいで」

 顔を見合わせるのは、小さなこたつの角を挟んで並びあった近距離。

 夢のように温かい空気が漂う。


 耳を傾けるでもなく、テレビから聞こえる笑い声をBGMにしながら、料理を摘まんではグラスを傾ける。たわいない事で笑いあい、くだらないことを延々話していられそうなくらい、この時間は尽きない。

 少し顔の赤らんだ春人は、アルコールには強くないのかもしれない。


 彼の強がりが剥がれて来たころ。こたつの上に残ったのは空瓶とグラスだけで。温んだ液体を一気に煽って、春人はぐっと顔を顰めた。

 この顔が、最初から少し過っていたようで。私は彼を見つめて問う。

「どうしたの?」

「どうしたってほどじゃないんだけど」

 春人はふにゃりと頬を緩めた。皺になった眉根には、未だその苦さが残っていて。寂しそうに唇を噛んで、視線を下げる。泣き出しそうな瞳が、私の胸に突き刺さる。

「へへ、かなこちゃん、結婚の日取りが決まったんだって。……子供が産まれる前にって。見てただけだし、何もできなかったけど。そういうのって、わかっててもまだショックなんだなって」

 アルコールに浮かされて笑いながら言葉を零す春人は、息が詰まりそうなほど切なげだった。


 熱量を感じた。決して本当の想いを口には出さない春人の、皮膚の内側を突き破りそうな、あの瞳にいつも浮かんでいた熱量と、ほんの少しの仄暗さ。

 それが、私が焦がれていた、知りたいと思った春人だとわかった。


「そっか………」

 何も言えなかった。言うべき言葉を私は持っていなかった。

 ただそんな春人が悲しくて、滲んだ涙を眦に力を入れて堪えた。そして、同じように歪んだ春人の頬へと手を伸ばす。

 一瞬驚いたように目を見開いた春人は、小さく笑って瞼を閉ざして、私の掌の思うままにその頬を撫でられた。

 ほろりと涙が伝ったのは、二人同時だったかもしれない。


「ノゼちゃんは、本当に不思議だね」

 トーンを落とした僅かに震える声が、遠くで賑やかな笑い話をしているテレビの音の間に沁みるように響く。

「本当は、僕の夢なんじゃないかって思うんだ。君みたいに優しい人に、縋りつきたいっていう勝手な夢」

 閉ざされた瞼から零れ落ちる滴が、私の指の間を伝う。

 触れた瞬間は熱いのに、手首まで伝う頃には熱を奪うほどに冷たく感じる。

 春人の寂しさが伝わってくるみたいに。


「君は、本当に何者なんだろうね。僕のためにここにいてくれるんじゃないかなんて。そんな風に都合のいい夢をみてるよ」

 平静を装った呼吸が震えて、小さく自嘲染みた笑いを乗せた。


 そう。私は、貴方に会うために。

 それだけのために、全てをかけて今ここにいる。

 言葉にしてはならない想いは、空を舞う涙とともに押し流す。


 ただ心が赴くままに。頬を撫でた掌を滑らせて、震えに耐える春人の肩をそっと抱きしめた。

 アルコールに煽られた高い体温を腕で包んで、飲み込みきれなかった気持ちを吐き出す。

「そうよ、私は春人に会いにきたの」

 それはきっと、慰みとしかとられないだろう、最低限の事実。

 春人は鼻を鳴らして私の背を抱きしめ返した。



 Day3、日が昇れば帰還予定。もう残り半日もない。

 春人と身を寄せて不自然にな格好でこたつで眠る。

 私に本心を明かし、弱さを見せてくれた春人を、置いていくことなどできるだろうか。


 私は既にこの計画の修正の算段を立てはじめていた。

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