第2話 始まりの日

 私は死神として現世の街に降り立った。目的はただ一つ。タナカナオヤという人物に会うためだ。


 死神は基本的に目的の人間の居住地に直接訪れることはしない。なぜなら、死神を恐れて逃げ出そうとする人が圧倒的多数だからだ。事前にその街の公共交通機関や道路状況を調査し、退路をある程度確認したうえで相手に接近するのが死神のやり方なのだ。

 

 人間に擬態してタナカナオヤの周辺を調べ上げる。そうすると以下のことがわかる。


 漢字表記は田中尚弥。二十五歳男性。フリーター。山羊座のA型。両親とは死別。独身。


 死神が直接人間を見れば隠している情報なども瞬時にわかる。


 私は田中尚弥の住むアパートへと足を進めた。


    ※※※


 アパートに帰るとそこに紙幣の山があった。


 高くそびえ立つ一万円の山。百万円の束が全部で一、二、三……と数えきれないほどある。何だこれは、と独り言ちると、それを合図にしたように声が聞こえた。


「現金百億円よ」


 振り向くとそこに少女がいた。顔立ちが整っていて、艶のある長い黒髪が風が吹いているわけでもないのにゆらゆら揺れている。華奢な体型に見えるが、着用している黒いローブに隠れて身体全体は見えない。


「これを今から三日間で使い切りなさい。さもなくばあなたは死亡する」


 少女は言い切って、ほんのわずかに笑みを浮かべる。


「じゃあ、殺してくれ」


 僕は言った。


    ※※※


 彼の言った言葉が間違いではないとしたら、田中尚弥は死を望んでいる。


 そんなことまでは知らないし、そもそも死神は自殺願望のある人に対してわざわざ出向いて殺すような連中ではない。馬鹿げているわ。と心の中で言いつつ、話を続ける。


「あなたは死を望んでいる人間ではないはずよ。もう一回言うわね。そこに転がっている現金百億円を今から三日で使い切りなさい。できなければあなたは死ぬ。どう? 簡単でしょう?」


「わかった。じゃあ殺してくれ」


「……ねえ聞いていた? そこに転がっている百億円を使えばいいのよ? 常識的に考えてみてくれるかしら。三日間で百億円という金額を使いきれる? 言っておくけど、銀行に預けるとか、紙幣を燃やすとかはカウントしないからね? 三日で使い切るのよ。どう?」


「理解はしているつもりだ。だったらもったいぶらずに殺してくれ」


「いや、あのね? あなたは自殺願望の持ち主ではないことを私は知っているの。だから、あなたが今こうして殺してくれと言っているのは正直な話演技と思っているわ。わかる? ねえわかるでしょう? わかるって言ってよ?」


「そこにある金を使えば殺してくれるのか?」


「……ねえあなた。今置かれている状況を理解している?」


「僕はある程度察しているつもりだ。僕はここにあるお金を使ってもいいし、使わなくてもいい。ある意味で僕は自由だ。しかし、自由という言葉にはある種の責任がついて回る。僕が何を言っているかわかるね? とでも言えばいいのだろう?」


「そんな、日本を代表する作家みたいな物言いではないわよ」


「誰のことだ? 僕は確かに自由な生活を送っていて、不自由はない。しかし、世界に向き合ってそれを破壊しようと模索している別の僕を想像してもいるんだ。どういうことかわかるかい?」


「何もわからないわ」


「それなら、君にいくつか教えてあげようか」


「間に合っているわ」


「もったいぶらずに聞いてくれ。ギンスバーグによると世界は聖だ。だが、僕はこう考えていて……」


 長たらしい説明をされるのが嫌だったので、私はとりあえず彼を殴り飛ばした。

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