第261話 修介とナーシェス

 呪文を詠唱するナーシェスの声が広い空洞内に響き渡る。

 これまでに聞いたことがないような朗々たる声。


「ナーシェス……どうして……」


 悔恨の思いが口を突いて出る。

 だが、嘆いたところで意味はない。今この場で彼を止められるのは自分だけだ――修介はそう己に言い聞かせ、足を引きずりながら魔力炉を目指す。

 分の悪い賭けなのは承知の上だった。

 この足では詠唱が完了するよりも先に魔力炉にたどり着くのは不可能だろう。攻撃されれば躱すことも防ぐこともできない。

 それでも修介は、その瞬間が訪れるまでナーシェスを信じると、心に決めていた。


 だが、そんな悲壮な覚悟もむなしく、ナーシェスの詠唱の声は徐々に大きさを増していく。凄まじい魔力が彼の周囲に渦巻いているであろうことが振り返らなくてもわかる。

 魔力炉までの距離が異様に長く感じられた。

 絶望の影が容赦なく迫ってくる。


 しかし、次の瞬間――

 詠唱の声がいきなり途絶え、次いで激しく咳き込む音が聞こえてきた。

 思わず振り返ると、ナーシェスが片膝をついて苦しそうに蹲っていた。口から吐き出したであろう大量の血がローブの胸元に黒い染みを作っている。


「ナーシェス!?」


 修介は状況も忘れて駆け寄ろうとする。


「――近寄るな!」


 普段のナーシェスからは想像もつかない鋭い声だった。


「……邪魔を、しないでくれ。私の最初で最後の大魔法なんだ……」


 ナーシェスはよろよろと立ち上がると、口から零れる血もそのままに、魔法の詠唱を再開する。

 だが、その目は修介ではなく魔力炉へと向けられていた。

 修介はそこで初めてナーシェスの魔法の対象が自分ではないことに気が付いた。


「お前、なにをしようとしてるんだ?」


 ナーシェスは答えない。

 ただ一心に魔法の詠唱を続けている。口からだけでなく、耳からも出血していた。

 どう見ても普通の状態ではない。

 このまま詠唱を続ければ、間違いなく無事ではすまないだろう。

 それがわかっていても、修介はナーシェスの鬼気迫る姿に圧倒され、魔力炉へ向かうことも忘れ、ただただ見入っていた。


 ナーシェスが呪文の最後の一節を口にすると、魔力炉を覆うように巨大な魔法陣が出現した。

 そして次の瞬間、魔法陣から火柱のように赤黒い光が吹き上がり、魔力炉を飲み込み、天井を容赦なく貫いた。

 凄まじい衝撃波が空洞全体を激しく揺らし、天井から大小の瓦礫が降り注ぐ。

 世界が終末を迎えるかのような凄まじい轟音と振動に、修介はとても立っていられず床に倒れる。そのままアレサを抱え込んでただひらすらミノムシのように蹲った。


 ……しばらくして、ようやく揺れが収まった。

 修介はゆっくりと顔を上げる。そして視界に広がる光景を見て絶句した。

 魔力炉があったはずの床と天井に、円形に繰り抜かれた巨大な穴が開いていたのだ。当然、その周辺には何も残っていない。

 魔力炉はまるで最初から存在していなかったかのように完全に消失していた。


「こ、これは……」


 修介がそう呟いたのと同時に、背後でどさっという音がした。


「ナーシェス!!」


 修介は傷の痛みも忘れて駆け寄った。

 ナーシェスの血に染まった口元には、かすかに笑みが浮かんでいた。


「……どうだい? 私の一世一代の魔法……分解消滅の術だ……。魔法王クラスの魔力と技術がないと扱えない極大魔法さ……」


「しゃべるな! 今すぐシーアさんを連れてくるから待ってろ!」


 そう言って立ち上がろうとする修介の腕を、ナーシェスは弱々しく掴んだ。


「無駄だよ……もう、助からない」


「うそ……だろ……?」


「残念ながら本当さ。君の言ったとおり、なんの代償もなしに力を得られるはずがないんだよ……」


 そう言うと、ナーシェスは指輪を見せるようにゆっくりと手を掲げた。


「この指輪は『魔法王の指輪』といってね……その名の通り魔法王のみが身につけることを許された指輪なんだ。資格なき者が身につければたちまち死の呪いがその身に降りかかる。おまけに一度はめたら死ぬまで外すことができないという厄介な代物さ……。私がこうして君と話せているのは、魔力炉からもたらされた膨大な魔力によって魂が一時的に肉体に留まっているからにすぎない……」


「お前、そのことを知っていてその指輪をはめたのか?」


「いや、知ったのはついさっきだよ。この指輪は古代魔法帝国の叡智の結晶なんだ。魔力炉から魔力を受け取る為の媒体としてだけでなく、歴代魔法王の知識を保管する役割も担ってる。実際、今の私の頭の中には古代魔法帝国の知識が色々と入ってきてるよ。知らないうちに知っていることが増えているっていうのは、なかなかに気持ち悪いものだね」


 あまりに突拍子もない話に、修介は咄嗟に言葉が出てこなかった。

 そんな修介を見て、ナーシェスは苦笑する。


「馬鹿なことをしたと思ってるんだろう?」


「……ああ、思ってる」


 ナーシェスの問いに、修介は掠れた声で答えた。


「だよね……せっかく君に切れ者認定されたっていうのに面目ないよ……。けど、もし知っていたとしても、私はあの指輪を身につけていたと思う」


「なんでだよ! それで死んじまったら意味ないだろうが!」


 修介は思わず叫んでいた。


「……夢、だったんだよ」


 しばしの沈黙のあと、ナーシェスは静かに答えた。


「魔獣ヴァルラダンとの戦いの時に師匠が使った捕縛の術……。サラ君が君を守る為に使った不可視の盾の術……。私も一度でいいからあんな胸の空くような大魔法を使ってみたかったんだ。こんな機会がなければ、その夢が叶うことなんて生涯なかっただろうからね……。だから私は後悔してないよ」


「お前、そこまで……」


 ナーシェスの魔法への想いの強さを思い知らされ、修介は何も言えずに黙り込む。

 とても祝福などできなかったが、同時にその夢を否定することもできなかった。


 突然、ナーシェスが苦しそうに呻いた。

 修介は背中をさすろうとナーシェスの身体を抱え起こし、そのあまりに軽さにぎょっとする。彼の死が避けられぬ未来であるという現実を突きつけられ、激しく動揺した。

 しばらくすると治まったのか、ナーシェスは大きく息を吐き出した。


「お、俺になにかできることはないのか?」


 修介は必死に平静を装って訊ねる。


「特にないよ。強いて言うなら最期の瞬間がひとりぼっちというのは寂しいから、傍にいてくれると助かる」


 ナーシェスの態度は死を目前に控えた者とは思えぬほど、淡々としたものだった。

 そのおかげか、修介も多少の落ち着きを取り戻すことができた。


「他にはなにかないのか? たとえば誰かに伝えておきたいこととか」


「遺言ってやつかい?」


「……はっきり言うな。俺の心が折れるだろうが」


「ごめんごめん。伝えておきたいことか……そうだね……」


 ナーシェスはしばし考える素振りをしてから口を開いた。


「私の薬学の本……あれをサラ君に渡してくれ。たぶんシーアさんが私の鞄を持ってるはずだから、その中にあるよ」


「本だな……わかった。必ず渡しておく。他には?」


「シュウ君のことだから、君に任せるって言うと延々と悩み続けそうだからはっきりとお願いしておくよ……。私が死んだら、この指輪を破壊してほしい。これはきっと表に出てはいけない物だと思うから」


「わかった。ぶっ壊して、お前が開けたあのデカい穴に捨てておく」


「それと、できればあの魔術師の死体も同じように処分しておいたほうがいい。理由は指輪と同じだ」


「……気はすすまないが、了解した。あとは?」


 ふいにナーシェスの目がまっすぐに修介に向けられた。


「あとは……そうだね。ひとつ君に謝らなければならないことがあるんだ」


「謝る?」


「ああ、私は君に嘘をついていた。今回の旅に私が同行した本当の理由……」


「別に今そんな話をしなくたっていいだろう」


「いや、聞いてくれ。サラ君の屋敷が襲撃されたあの日、私も現場にいたって言ったことを覚えているかい?」


 修介は黙って頷いた。


「あのとき……サラ君やアイナ君が襲われていたときに私が抱いたのは、恐怖や怒りではなく、強い憧れの感情だった……。あの魔術師の圧倒的な魔法の力に私は魅入られた。奴の拠点に行けば私の魔力を強くするヒントが得られるかもしれないと思って、咄嗟に使い魔をアイナ君に付かせたんだ。その時の私には彼女を救おうだなんて考えは微塵もなかった……」


 ナーシェスが申し訳なさそうに目を伏せる。


「それだけじゃない。私はそんな自分勝手な目的の為に君に協力するふりをして、あわよくばみんなを出し抜いて古代魔法帝国の重要な知識を手に入れようと考えていたんだ。だから負傷者の治療にも協力せずに、ひとりでここに来ようとした。それで途中で紫衣者に捕まって、あとは君も知っての通りだ。君に迷惑をかけた……」


「別に謝る必要はないだろ」


 修介は事もなげに答えた。なかば演技だが、偽りのない本心でもあった。


「お前のやったことが正しいとは思わないが、人それぞれ事情があって当然だし、人間ってのは生きているだけでなにかしらかの迷惑を周りにかけるもんだ。そもそも散々自分勝手しまくってる俺が文句を言える立場じゃないからな。謝りたいって言うなら相手を間違えてるぞ」


 よほど予想外の返答だったのか、ナーシェスはきょとんとした顔で固まっていた。


「――ちなみにそういう話の流れなら、俺もひとつお前に謝りたいことがある」


 ナーシェスの反応がないので、修介は勝手に話を進めることにした。


「前に俺はお前の魔法を戦力として当てにしてないって言ったよな。すまん、あの発言は撤回させてくれ」


「え?」


 ナーシェスの目が驚いたように見開かれた。


「イニアーから聞いたんだ。俺が崖から落ちた時、咄嗟にお前が鎧に魔法を付与してくれたおかげですぐに発見できたって。前に俺がオーガに吹き飛ばされたときの浮遊魔法だってそうだ。お前の魔法は決してサラや他の魔術師が使う魔法に見劣りしてねぇ。お前は偉大な魔術師だ。少なくとも俺にとってはな」


「……過分すぎる評価だね。だけど……とてもうれしいよ。もう少し早くその言葉が聞けていたら、私も道を誤らずに済んだかもしれないね」


「う……」


「冗談だよ。互いに貸し借りなしってことでこの話は終わりにしよう」


 そう言うと、ナーシェスは大きく息を吐き出した。


「――さて、そろそろ時間がきたみたいだ」


「ナーシェスっ……」


 情けない声が意思に反して口からもれる。


「……最後に、君にとっておきの情報を伝えておくよ。この情報を聞いてどうするかは、君が決めてくれ」


 ナーシェスは修介の顔を見て微笑むと、ゆっくりとその情報を口にした。

 それは彼の幼い頃の記憶と、魔法王の指輪から得た知識によって導き出された、ひとつの事実だった。そしてそれこそが、修介が求めていたものに他ならなかった。


「……これでもう思い残すことはないよ」


 すべてを語り終えたナーシェスは全身の力を抜いた。


「ナーシェス……お前……」


「大変だろうけど、後は頼んだよ。彼女の為に……」


 修介は涙を堪え、力強く頷き返した。


「わかった。任せろ。必ず果たしてみせる」


 その答えに満足したのか、ナーシェスは小さく笑うと、まるで眠りに落ちるように、ゆっくりと目を閉じた。

 そしてその目が開かれることは、二度となかった。

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