第260話 願い
なぜここに人獣がいるのか。
そんな修介の疑問は、獣のような雄叫びによって掻き消された。
咆哮を上げたのは人獣ではなかった。
それまで岩のように沈黙を貫いていたタイグが、はっきりそれとわかる怒りの感情を露わにして、人獣に飛び掛かったのだ。
雷光のごとき一撃が人獣の肩に叩きつけられ、骨の砕ける音が響き渡る。普通の人間であれば間違いなく致命傷であろう。
が、致命傷を負ったのはタイグの方だった。
攻撃とほぼ同時に、人獣の強靭な爪に腹部を貫かれていたのだ。
タイグの口から大量の血が吐き出される。
人獣は無造作に拳を引き抜くと、したたる血もそのままにタイグの頭に手をかけ、マレイドと同じように首をへし折った。
その間、修介は一歩も動くことができず、目の前の惨劇を見ているだけだった。
人獣の鋭い眼光が修介に向けられる。あっ、と思ったときには、ほんの数歩先の距離まで近づかれていた。
ただ、先ほどまでの獰猛な姿から一転、すぐに襲い掛かってくる様子はない。
「助けてくれた、ってわけじゃなさそうだな」
修介はそう話しかけてみたが、答えは返ってこなかった。
ここに来たということは、おそらくこの迷宮の主となにかしらかの関わりがあるのだろう。今にして思えば、カシェルナ平原で戦った人獣がヴィクロー山脈に現れた時点で、そのことに気付くべきだった。
「仲間の仇討ちか?」
再度の問いかけにも答えはなかった。
よく見れば、人獣の目には初めて遭遇した時に宿していた知性の輝きが完全に失われていた。
おそらくイニアー達と戦った時の傷だろう。頭部に酷い怪我を負っており、側頭部から肩にかけて血で灰色の体毛がどす黒く変色している。先ほどのタイグから受けた傷も相当な深手であることを考えれば、生きているのが不思議なくらいである。
人獣は低い唸り声の混じった荒い呼吸を繰り返しながらじっとしている。まるでこちらの準備が整うのを待っているかのようだった。
何を望んでいるのか。
人獣の放つ、混じり気のない闘気がその答えを教えてくれた。
「俺と戦おうってのか?」
肯定するように、人獣が唸った。
なにがこの人獣をそこまで駆り立てているのか、理解できるはずもない。
ただ、ひとりの戦士として、その挑戦には応えねばならない気がした。
「柄じゃないんだけどな……」
修介は小さくぼやきつつ、ゆっくりとアレサを構えた。
よもや勝てるとは思っていない。死が避けられぬ運命ならば、この世界の戦士たちと同じように、せめて最期は誇らしくありたいと思ったのだ。
「いいぜ、かかってこいよ、獣野郎!」
戦士の雄叫びが空洞内に響き渡った。
……ぼんやりとした視界のなかで、黒髪の戦士が魔剣を構えている。
人獣キリアンは、己の心が満たされていくことを実感した。
主であるルーファスが死んだことは、魔力の繋がりが途切れたことで把握していた。
ただ、その事実が心を動かすことはなかった。
あれほど己の手で殺したいと願っていたはずなのに、いざ死んだと知っても、心には何も去来しなかった。
あまりにも使い魔でいる時間が長すぎた。今さら自由を取り戻したところで、大切なものは何も残っていない。
命令で奪った命は数百を超える。そして無聊を慰める為に奪った命はその数倍にも及ぶだろう。
次は己の命が燃え尽きる番だった。
本来の寿命を遥かに超過する時を生きてきた。使い魔でなくなった今、肉体が滅ぶのは自然の摂理である。
朦朧とする意識のなか、本能に従っているうちに気が付けばこの場に来ていた。
キリアンはあらためて目の前の黒髪の戦士を見る。
二度戦い、生き残ったこの戦士に、敬意に近い感情を抱いていた。
残された願いは、ただひとつだけ。
最期は己の望んだ相手と戦い、その者の剣で倒されたい。
今、その願いが叶う。
キリアンは歓喜の咆哮をあげ、拳を振り上げた――
「グオオオオオォォッ!」
人獣が雄叫びをあげて迫りくる。
「うおおおおおぉっ!」
修介も負けじと気合の声をあげ、相打ち覚悟で渾身の突きを放とうとした。
『ダメです、マスター!』
今度は間に合った。
アレサの声で、修介は辛うじて踏みとどまる。
その直後だった。
すぐ目の前を、白い閃光が音もなく通り過ぎていった。
続く衝撃波をもろに受け、後方に吹き飛ばされた。
したたかに背中を打ちつけ、一瞬息ができなくなる。
わけがわからないまま、それでも修介は無我夢中で顔を上げた。
「なっ――」
目の前の光景に思わず息をのむ。
人獣の上半身が消えてなくなっていたのだ。
下半身だけとなった人獣は、そのままよたよたと歩き、やがてスローモーションのように横に倒れた。
修介はその場にへたり込んだまま、視線だけを動かして光が飛んできた方を見やる。そこには、片手を前に突き出したナーシェスが呆然とした様子で立っていた。
「……お前が、やったのか?」
修介の問いに、ナーシェスはぎこちない動作で頷いた。
「き、気が付いたら君が人獣に襲われていたから咄嗟に……」
「そ、そうか……助かったよ、ありがとう」
礼を口にしたものの、修介の心を占めていたのは、命が助かった喜びや安堵ではなかった。
人獣の半身を吹き飛ばしたあの閃光……あれは間違いなく魔法だろう。あれほどの威力を持つ魔法をナーシェスが使えるはずがない。
ふと、ナーシェスの手に紅い宝石のついた指輪がはめられているのが見えた。
「お前、その指輪……」
「あ、ああ、これかい? 落ちていたから拾ったんだ」
「拾ったって……」
「そ、そんなことよりシュウ君も見ただろう? 私の……私の魔法が人獣を一発で吹き飛ばしたんだ! 私の魔法がシュウ君の危機を救ったんだよ! 凄いだろう!?」
ナーシェスはそう言うと、タガが外れたかのように笑い出した。その目は興奮で血走り、身体も小刻みに震えている。いつもの彼とはまるで別人のようだった。
過ぎた力は身を滅ぼす……修介の脳裏にそんな言葉が浮かんだ。
あの指輪がどういった物かはわからないが、あれほどの力をなんの代償や副作用もなく手にすることができるなんて都合の良い話があるはずがない。
「ナーシェス、とりあえずその指輪を外そう」
笑い声がぴたりと止んだ。
「なぜだい?」
ナーシェスは不思議そうに首をかしげて修介を見る。
「なぜって……人獣は倒したんだからもう必要ないだろ?」
「別にこのままでもいいじゃないか」
信じられない言葉だった。
「いいわけあるか! なんの代償もなしにあんな強大な力が使えるはずないだろ! 絶対に良くないことになるから!」
「……仮にそうだとしても、君には関係ないだろう?」
「あるに決まってるだろ! 俺はパーティのリーダーだ。仲間の健康に気を使うのは当たり前だろうが」
よほど思いがけない言葉だったのか、ナーシェスは再び声を出して笑った。
「健康って……まさかこの状況でそんな言葉を聞くことになるとはね」
「別におかしな話じゃないだろ」
「……ひょっとしてシュウ君は、私がこの指輪の力を悪用するとでも思っているのかい?」
「そんなこと思ってねぇよ。俺が心配しているのはお前の身体だ。いいから一旦その指輪を外せ。話はそれからだ」
「悪いけど、それはできない」
そういう答えが返ってくるであろうことを、修介は心のどこかで予想していた。
「冗談はよせ、ナーシェス」
「冗談なんかじゃないさ。シュウ君だって、さっきの魔法を見ただろう? 魔力炉からとてつもない量の魔力が指輪を通じて身体に流れ込んでくるんだ。私がずっと望んでいた力をこの指輪はもたらしてくれたんだ!」
ナーシェスは恍惚とした表情を浮かべながら両手を広げた。
「今ならどんな魔法だって唱えられる! もう誰にも私の魔法を役立たずだなんて馬鹿にさせない!」
「なに言ってんだ! それはお前の実力じゃない。お前が望んだ力ってのはそんな借り物の力なのかよ! そうじゃねぇだろ!?」
「そんなこと、どうだっていいじゃないか」
唐突に、ナーシェスの顔から表情が消えた。
「私は力を欲した。目の前にそれがあったから手にした。それだけのことさ」
「ナーシェス……」
「心配しなくても、私はこの力を使って世界をどうこうしようなんて考えていない。この地下迷宮に引きこもって魔法の研究をするだけだ。思う存分ね。だから、私のことは放っておいてくれないか?」
「そんなことできるはずがないだろ。お前が違法な魔術師になってどうすんだよ! その力を求める連中やお前を逮捕しようとする奴らがこぞって押しかけてくるぞ」
「追い払えばいいだけさ。大丈夫、今の私に逆らえる人間なんて君以外にはいないだろうからね」
「そんなことしても不毛な争いが延々と続くだけだ! どうしちまったんだよ! そんなことがわからないお前じゃないだろ!?」
「それじゃあどうする? 力ずくで私から指輪を奪うかい?」
ナーシェスの纏う空気に剣呑なものが混じった。友と思っていた存在から向けられる敵意に、修介の心に言いようのない悲しみが広がっていく。
「……俺はダチに向ける剣は持ってない」
「なら、大人しく見逃してくれるかい?」
その問いに、修介は首を横に振ってアレサの切っ先を魔力炉に向けた。
「いや、あれを止める。そうすればお前に魔力がいかなくなるからな」
「……それは困るね」
ナーシェスは心底困ったという顔で後頭部をかいた。
「なぁ、もうやめよう、ナーシェス。俺はお前と争いたくない」
心の底からの懇願だった。
だが、その想いは友に届かなかった。
「……ごめん、シュウ君。私はこの力を諦めきれない。君が魔力炉を止めると言うなら、私はそれを全力で阻止する」
修介は目を閉じて天を仰ぐ。そしてやるせない気持ちを息と共に吐き出してから、ナーシェスをまっすぐに見据えた。
「……わかった。俺も覚悟を決めた。先に言っておくが、俺に状態異常系の魔法は効かないからな、阻止したいなら殺す気でこい」
「そうか……残念だよ。君ならわかってくれると思ったんだけどね……」
ナーシェスの瞳に悲哀の色が帯びる。だが、すぐにそれを振り払うように両手を大きく広げ、魔法の詠唱を開始した。
「……馬鹿野郎が」
修介は震える声で呟き、ナーシェスに背を向けた。
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