第258話 居場所

 イニアーがデーヴァンと共に旅に出てから十年以上の時が経っていた。

 その間、多くの戦場を渡り歩き、それなりの金と名誉を手にし、代償として身体にいくつかの消えない傷痕が残った。

 他に特別な何かがあったわけではない。

 ただ、イニアーの傍らにはいつだって兄デーヴァンがいた。

 それだけだった。

 意思の疎通すらままならなかった会話は、いちいち言葉にしなくても互いの考えがわかるようになった。戦闘での連携はより磨きがかかり、互いの動きを目で追わなくても機能するほどになっていた。


 だが、傭兵兄弟などともてはやされてはいても、周囲から評価されるのはデーヴァンだけで、イニアーはいつだっておまけ扱いだった。事実、高い金を積んでデーヴァンを雇おうとする傭兵団や貴族はごまんといたが、イニアーに声をかけてくる者は誰もいなかった。


「デーヴァンの腰巾着野郎」


 活躍をやっかむ者からは、そんな心無い言葉を吐きかけられた。

 その評価は正しいと、当事者であるイニアーも思っていた。

 なぜなら、デーヴァンはふたりで戦っている時よりも単独で戦っている時の方が圧倒的に強いことを知っていたからである。

 本気になったデーヴァンの動きについていくことは、イニアーには無理だった。

 今の連携は、イニアーという足手まといが本物の足手まといにならない為の、いわばデーヴァンの優しさから生み出された戦法なのだ。

 だから、イニアーは自分が嘲笑や揶揄の対象になったところでさほど気にならなかったし、特に不満もなかった。むしろ兄が正当に評価されることは望むところであった。

 なにより、デーヴァンはそんなことは気にしていないとばかりに誘いをすべて断り、共にいることを望んでくれた。

 それがなによりも嬉しかった。

 兄だけは自分を認め、必要としてくれる。

 ようやく居場所を見つけたのだ。

 このままどちらかが戦場でくたばるまで、きっと同じような生活が続くのだろう。

 それでいい。兄もきっとそれを望んでくれていると、本気で思っていた。


 ……それが自分勝手な思い込みに過ぎないのではないかという疑念をイニアーが抱くようになったのは、つい最近になってからだった。

 原因は兄デーヴァンの変化だった。

 この十数年、旅を続けていくなかで出会った様々な人との交流を通じて、デーヴァンの心は大きく成長し、少しずつ外へと関心を向けるようになっていたのだ。

 特に修介やヴァレイラ、そして直近ではシーアとパーティを組んでからは、その傾向がさらに顕著になったようだった。


 元々、デーヴァンは情の深い男である。彼の愛情は、今や弟だけでなくパーティの仲間に対しても向けられるようになっていた。

 一方で、イニアーは昔となにも変わっていなかった。他人を信じず、今も兄に依存し続けている。

 俺が仕方なく兄貴の面倒を見てやってるんだ――そう周囲に嘯いたところで、結局は自分が居場所を失うのが怖いだけなのだ。


 自分は兄の枷にしかなっていないのではないか。

 自分が兄のあらたな呪いとなってしまっているのではないか。

 その疑念は少しずつ、だが着実に心の中で大きくなり、今ではほぼ確信するまでになっていた。


(だから、これでいい……)


 意識が再び闇に引き戻される。

 死という深淵に向かって魂が下降を続けていく。

 これでようやく兄は呪いから解放される。こんな疫病神から解放されて、自由を手にすることができるのだ。

 最後に兄の役に立って死ねるのなら、命の捨て方としては最上だろう。そんなことを思いながら、イニアーは闇に身を委ねようとした。


「――あーッ!」


 突然、それを邪魔するように誰かの泣き叫ぶ声が聴こえてきた。


(うるせぇな……静かに眠らせてくれや……)


 だが、声は静まるどころか、さらに音量を上げていく。

 その声の主が兄デーヴァンであることに、イニアーは気付いた。

 すると、温かい何かが全身を包み込んだ。

 その感覚に懐かしさと深い安らぎを覚える。


(このぬくもり……たしか前にも……)


「いにあー!」


 今度ははっきりと兄の声が聴こえた。

 その声に引っ張られるように、イニアーの意識は急速に浮上していった。





 光が去り、視界が元に戻ったとき、シーアが目にしたのは奇跡としか言いようのない光景だった。

 おいおいとむせび泣くデーヴァンの腕の中で、死に瀕していたはずのイニアーの顔に生気が戻り始めていたのだ。

 慌てて傷口を確かめると、あれだけ深かった傷が嘘のように塞がっていた。


「い、いったいなにが起こったんだ……?」


 イシルウェを背負ったままのマッキオが目をこすりながら呟いた。


「こんなことって……」


 アイナリンドも同じように呆然とふたりの兄弟を見つめている。

 シーアにはこの現象が誰によって引き起こされたのかわかっていた。

 デーヴァンが神聖魔法を使ったのだ。

 彼の身体から発した光と周囲に鳴り響いた音……あれらの現象は、シーアが初めて神の声を聴いた時と同じものだった。

 おそらくデーヴァンは意識して魔法を使ったわけではないのだろう。

 弟を救いたいという兄の想いに神が応えたのか、それともただの気まぐれか。いずれにしろ、イニアーの魂が神の元へ向かわず、この地に戻ってきたことだけは確かだった。

 シーアの目から自然と涙がこぼれ落ちる。

 まさしく奇跡だった。

 デーヴァンが空を見上げてばかりいたのは、これまでにも神の声がおぼろげながらも届いていて、それに反応していたからなのだ。

 どの神が声をかけたのかは、当人にしかわからない。ひょっとしたらデーヴァンはそれを神の声だとさえ認識していないかもしれない。

 だからシーアは、彼に代わって天上のすべての神々に感謝の祈りを捧げた。


 いつのまにか、それまで鳴り響いていた戦いの音が止んでいた。どういうわけか魔動人形ゴーレムが機能を停止したようだった。すべての竜牙兵が破片となって床に散らばっている。

 これも神が起こした奇跡なのか。それとも修介が上手くやってくれたのか。

 正解などわかるはずもなかったが、シーアには己の為すべきことだけは、はっきりとわかっていた。

 室内には多くの負傷者が苦しそうに呻き声をあげている。

 ひとりでも多くの命を救う。その為には休んでいる暇などない。


 シーアは魔法の使い過ぎでぼうっとする頭を振ると、今や治療を行う上で欠かせないパートナーとなった魔術師に声をかけようとした。

 ところが、振り返った先に求めた姿はなかった。

 ついさっきまで黙々とマナを供給し続けてくれていたことは覚えている。

 周囲を見渡すと、近くの床に鞄が置かれているのが目に入った。

 まるで好きに使ってくれとばかりに口を開いたままのそれは、間違いなくナーシェスの物だった。


「ナーシェスさん……?」


 シーアの胸に得体の知れぬ不安が広がっていく。

 鞄だけを残し、魔術師ナーシェスは忽然と姿を消していた……。


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