第256話 廃嫡

 イニアーは闇の中にいた。

 瞼は開かず、身体も動かすことができない。どろどろのヘドロが溜まった池の底に沈んでいくような感覚が得られるすべてだった。

 これが死ぬということなのか。

 傭兵として戦場で大小多くの傷を負ってきたが、死に瀕するほどの重傷を受けたことは一度もない。

 だが、この感覚は以前にも味わったことがあった。

 あれはいつのことだったか……脳が死を間際にして、どういうわけか過去の記憶を掘り起こし始めた。

 そしてすぐにひとつの記憶にたどり着く。

 それは兄弟が故郷を追われる切っ掛けとなった、十三年前の忌まわしい事件の記憶だった。


 イニアーは今でこそ傭兵としてストラシア大陸の各地を転々としているが、父親が大陸の西にあるザハルト王国の爵位を持つ領主という、れっきとした貴族の生まれだった。

 彼にはふたりの兄がいた。

 長兄のデーヴァンと次兄のジェリアムである。

 ただ、ふたりの兄が正妻の子であるのに対し、末弟のイニアーだけは父が使用人の若い娘に手を出して出来た、いわゆる妾の子であった。


 順当にいけば家督を継ぐのは長兄のデーヴァンである。

 だが、デーヴァンは後継者として大きな問題を抱えていた。

 人前でまともに言葉を発することができないほどの人見知りな性格で、さらにいつも空ばかり見上げて独り言を呟いているという奇行も目立った。そのいかつい風貌も相まって、民から薄気味悪がられていたのである。


 一方、次兄のジェリアムはデーヴァンとは真逆な、社交的で明るい人物だった。

 武勇こそ劣るものの、それ以外のあらゆる面で兄デーヴァンを上回っていた。眉目秀麗な容姿も相まって、周囲の者は誰もがその将来を嘱望した。


「いくら武勇に優れていても、社交性が重要視される貴族社会においてデ―ヴァン様では領主という大役は務まらない。ジェリアム様こそが家督を継ぐに相応しい」


 そう考える者は家臣の中にも決して少なくなかった。

 だが、父はデーヴァンに家督を継がせることに拘った。長兄が家督を継ぐべきという価値観に囚われていたこともあったが、なによりもデーヴァンの持つ武の才能が並外れていたからだった。

 代々、戦場で武功を立てて今の地位を築いてきた武門の家柄である。父にとってその才能は他のすべての欠点が見えなくなるほどに輝いていたのだろう。


 ただ、そうなってくると面白くないのはジェリアムである。

 彼は「ただ遅く生まれたから」というつまらない理由で領地を継げないことに納得がいっていなかった。あらゆる面で兄よりも優れている自分こそが領主になるべきだと、そう信じて疑わなかったのである。

 しかし、父に考えを改める気配はなく、ジェリアムは日々苛立ちを募らせた。そして、その焦燥から生み出された悪意の矛先は、末弟のイニアーへと向けられたのである。


 イニアーはジェリアムから「下賤な血が混じったゴミ」と罵られ、ストレス発散の捌け口にされた。

 大切にしている物を壊されたり、腹や背中など目立たないところを殴られるのは日常茶飯事で、仲の良い友達がある日突然よそよそしくなったと思ったら、数日後に次兄の取り巻きになっていた、といったこともあった。

 もっとも酷かったのは、イニアーが裏庭で密かに飼っていた犬が、ジェリアムに野犬狩りと称して弓矢で射殺されたことだった。

 イニアーは激昂してジェリアムに飛び掛かったが、あっさりと返り討ちにあい、その後に剣の稽古と称して訓練用の木刀で滅多打ちにされた。


 陰湿で執拗な虐めは何年も続いた。

 その間、助けてくれる者は誰もいなかった。

 伝統と格式を重んじる父にとって妾の子であるイニアーは存在しないも同然だった。

 才気に溢れていたら話は別だったかもしれないが、剣術はふたりの兄に遠く及ばず、学業の成績も並以下。強いて言うなら絵画などの芸術の分野で非凡な才能の片鱗を見せていたが、なによりも武を尊ぶ父にしてみれば、そんな才能などなんの価値もない代物だった。ジェリアムの悪行を知ったところで、父はおそらく関心を抱くことすらなかっただろう。

 唯一の味方であるはずの母は、父の不興を買って屋敷から追い出されることを恐れるあまり、息子を庇うどころか見て見ぬふりをした。

 長兄デーヴァンに至っては、一度も会話を交わしたことがない赤の他人だった。


 そんな劣悪な環境で真っすぐに育つはずもなく、イニアーは己の立場を理解できる年齢になる頃には、ほとんど屋敷に寄りつかなくなっていた。

 自分に関心を持たない両親に対する当てつけでもあったのだろう。イニアーは街のごろつき共とつるむようになり、窃盗や暴行などの悪事に手を染めた。


 その頃、イニアーが所属する組織は、街を二分する敵対組織との抗争に明け暮れていた。

 ある日の深夜、ふたつの組織はひと気のない郊外で派手に衝突した。

 とは言っても、たかがごろつき同士の縄張り争いである。死人が出れば衛兵が出張ってくることから、滅多なことでは殺し合いには発展せず、せいぜい半殺しまでで旗色が悪くなった方が退く、という暗黙のルールがあった。


 ところが、その日は少し様子が違った。

 相手側に複数の見知らぬ男達が紛れ込んでいたのだ。

 おそらく元傭兵か冒険者崩れの用心棒だろう。金で助っ人を雇ってはいけないというルールは存在しないのだから、別におかしなことではない。

 だが、争いが始まった途端、その男達は常軌を逸した行動に出た。

 突然、敵味方の区別なく襲い掛かり、その場にいたイニアーを除く全員を殺害してしまったのである。

 男達は予想以上の手練れだった。イニアーはろくに抵抗もできず、蹴る殴るの暴行を受けた後、手足をロープで縛られて地面に転がされた。


(腐っても貴族の子ってことかよ)


 自分だけが殺されなかったことから、イニアーは男達の目的が身代金であると推測した。

 だが、あの父が自分の為に金を出すなど、まったく考えられない。金が得られずに激昂する男達に殺される未来が容易に想像できた。


 ところが、その後の展開はイニアーが思い描いていたものとはまったく異なるものだった。

 なんと、しばらくしてデーヴァンがたったひとりでやってきたのである。

 これまでなんの関りもなかった兄がいきなり現れたことに、イニアーは感動よりも困惑した。今の状況はこの愚鈍そうな長兄が仕組んだ茶番なのではないか。そんな疑惑までもが浮かんでくる始末だった。


 だが、拘束されたイニアーを発見したデーヴァンの態度が、その疑惑を真っ向から否定した。


「おとうと、かえせ!」


 凄まじい怒気を漲らせながら、デーヴァンは男達に迫った。

 彼の戦士としての能力は若くしてすでに完成されていた。傭兵崩れが何人いたところで物の数ではない。

 しかし、喉元に剣を突きつけられた弟を前にしているとなれば話は別である。

 男達は最初こそデーヴァンの猛獣のような迫力に気圧されたものの、一切抵抗しないとわかると、目に嗜虐の色を湛えて襲い掛かった。素人相手に一瞬でも気後れしたことでプライドが傷つけられた腹いせか、すぐに殺そうとはせず、満足するまでデーヴァンに暴行を加え続けた。


 その様子をイニアーは冷めた目で見ていた。

 人質がいるとわかっているのに無策で乗り込んで来た挙句、無抵抗で殴られ続けているのだから救いようのない馬鹿である。

 ひたすら「おとうと、かえせ」と呪文のように繰り返している姿も癇に障った。

 本当に苦しかった時になにもしてくれなかったくせに、いまさらになって兄貴ヅラされる謂れはないとすら思った。


 だが、本当に気に入らなかったのは、そんな兄の枷になってしまっている自分自身の無力さだった。

 イニアーはやけくそとばかりに短剣を突きつけている男に渾身の頭突きをかました。そしてデーヴァンに向かって「俺に構わず全員やっちまえッ!」と叫んだ。

 その代償は高くついた。

 次の瞬間、怒れる男の短剣が胸に埋め込まれていた。

 間違いなく致命傷だった。

 だが、特に後悔や未練はなかった。これでくだらない人生が終わるのか。その程度の感想しか湧いてこなかった。


 だが、胸から血を流して倒れた弟を見て、デーヴァンが激昂した。


「がああああああぁッ!」


 怒り狂ったデ―ヴァンの暴力をただの人間に止めらるはずがなく、男達は為すすべもなく顎を砕かれ、首の骨を折られ、血の海に沈められた。

 そこからのことをイニアーはよく覚えていない。

 ただ、朦朧とする意識のなかで、泣き叫ぶ兄の顔と、温かい光に包まれているような感覚だけは、しっかりと記憶に刻まれたのだった。




 目覚めたとき、イニアーは生命の神の神殿の一室にいた。

 なぜあのまま死ななかったのか。当然の疑問が頭に浮かぶ。

 神官の話では、運びこまれた時には衰弱が著しかったものの、身体には怪我ひとつなかったという。

 さっぱり要領を得ないまま、イニアーは状況の把握に努めた。

 事件のあった日からすでに一週間が経過していた。


 デーヴァンは悪漢どもから弟を救った英雄――とはなっていなかった。


 イニアーが呑気に眠っている間に、事態は最悪な方向へと突き進んでいた。

 デーヴァンは弟を救った英雄ではなく、多くの民を殺害した凶悪な殺人鬼として法の裁きを受ける身となっていたのだ。

 どうやら殺された敵対組織のメンバーの中に街の有力者の息子がいたらしく、その有力者がデーヴァンを息子殺しの犯人として告発したというのだ。

 無論、事実は異なる。

 イニアーは当時の状況を説明し、デーヴァンが正当防衛であることを訴えたが、どういうわけか誰もまともに取り合ってはくれなかった。それどころかイニアーも共犯なのではないかという疑いまで掛けられた。


 いくら普段の素行に問題があるといっても、事件の数少ない生き残りの証言を無視して話が進んでいくのはどう考えてもおかしい。

 自分が利用されたのだとイニアーが気付いたのは、この時だった。

 脳裏に次兄ジェリアムの顔が浮かぶ。あの卑劣で狡猾な男が、愚かな末弟が起こした騒動に巻き込まれた道化としてデーヴァンを排除しようと画策したのだ。しかもそれに失敗したとわかると、今度は社会的に抹殺しようと裏で手を回してきた……。

 おそらくジェリアムと敵対組織は裏で繋がっていたのだ。あの男達を雇ったのも、脅迫状を父ではなくデーヴァンに送るよう指示したのもジェリアムで間違いない。

 何の証拠もないが、あの男ならやると確信できた。

 そしてそれを証明するかのように、次々と事件の目撃者たちが現れては、デーヴァンにとって不利な証言をしていった。

 対人折衝能力に難のあるデーヴァンにそれに抗う術はなく、また、ただの不良少年に過ぎないイニアーにその状況を覆すだけの力はなかった。


 結局、被害者の中に身元不明の者がいたことや、これ以上家の名に傷がつくことを嫌った父が強引に手を回したことで、デーヴァンの正当防衛は辛うじて認められた。

 だが、それで彼の名誉が回復するわけではない。

 むしろデーヴァンの凶暴性が多くの人々の知るところとなった。

 デーヴァンが殺害したとされる男達の死体を検分した役人は、酒の席の酔った勢いで周囲にこう漏らしたという。


「あんな惨い死体は初めて見た。あんなことできるのは人間じゃねぇ……」


 その話は瞬く間に街中に広まった。さらにタイミングを見計らっていたかのように、ありもしない悪評が流されたことで、デーヴァンの評判は地に落ちた。

 それを仕組んだのが誰かは、もはや確認する必要すらなかった。


「誠に遺憾ではありますが、兄上が家督を継ぐことを望む者は誰もおりますまい」


 そう父に進言したときのジェリアムの顔は勝利を確信していた。

 父はその言葉を受け入れ、デーヴァンの廃嫡を決めた。

 そしてデーヴァンは一言も抗弁することなく、それを受け入れたのであった。


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