第231話 殺意の獣

「シュウスケさん、すごい……」


 シーアは目の前で繰り広げられる修介と人獣ライカンスロープの戦いを見つめながら呟いた。


「いや感心してる場合じゃないだろう」


 そう突っ込みを入れるイニアーだったが、彼自身もシーアと同じ感想を抱いていた。

 修介は人獣ライカンスロープを相手に一方的に押されながらも、冷静さを失わずに攻撃に対処している。

 その戦いぶりは歴戦の傭兵であるイニアーさえも唸らされるものだった。

 彼が修介に対して抱いている印象は、出会った時からずっと『違和感』の一言に尽きた。おおよそ戦士にはまったく向いていない軟弱な精神の持ち主なのに、誰よりも戦果を上げ、そして生き残る。


 臆病な性格がもたらすものなのか、あの黒髪の青年は死に対する嗅覚が異常なまでに鋭いのだ。そこに天性の反応速度が加わることで、驚異的な回避力を生み出している。

 それは単に経験を積んで成長したという説明だけでは納得できない領域にあると言っていいだろう。腕や足にいくつも細かい傷を負いながら、致命傷だけは絶対に負わないところに、修介という戦士の特異性が垣間見える。


 しかし、いくら回避力が高いといっても永遠に躱し続けることは不可能である。いずれは体力が尽き、躱しきれなくなるのは目に見えている。

 シーアもそれがわかっているからか、修介を援護する為に戦槌ウォーハンマーと盾を構えて一歩前に足を踏み出した。

 だが、途中で躊躇したように動きを止めてしまう。先ほどから同じことをずっと繰り返している。

 あまりに凄まじい攻防に迂闊に手が出せないのだ。下手に介入して修介の集中を乱してしまうことを恐れているのだろう。

 実際、イニアーも、そしてデ―ヴァンも手を出しあぐねている状態だった。


「それならば――」


 シーアが意を決したように手を前に翳した。

 魔法を使おうとしているのだと察して、イニアーは慌てて声を掛ける。


「待った! 忘れたのか? 旦那に魔法の援護は意味がない。旦那の体質は本人から直接聞いてんだろ?」


 シーアはその言葉にはっとする。パーティを組んだその日のうちに、体質のことは修介本人から聞かされていた。


「それよりも兄貴と俺の武器に神の加護を頼む。あれが噂に聞く人獣だっていうなら、並の武器じゃ傷ひとつ付かないらしいからな」


 シーアは心得たとばかりに頷き返すと、言われた通りにデーヴァン、イニアーの順に武器に神の加護を付与していった。


 援護を受けたイニアーとデーヴァンは、人獣を左右から挟み込むように移動する。

 だが、その動きに気付いているだろうに、人獣はまったく気にする素振りもなく執拗に修介だけを狙い続けている。


「俺達は眼中にねぇってか。随分と舐められたもんだな、兄貴!」


 イニアーの呼びかけに、デーヴァンは歯茎をむき出しにして威嚇するように唸った。かなり腹を立てている時の顔だった。


「よし! 兄貴、やるぞッ!」


「がああッ!」


 配置につくと同時に、デーヴァンが咆哮を上げて人獣に攻撃を仕掛けた。イニアーもタイミングを合わせて反対側から斬りかかる。

 だが、人獣は身を捻っただけでふたりの攻撃に空を切らせると、躱しざまの蹴りでデ―ヴァンを後ろに吹き飛ばした。


「くそッ!」


 イニアーは慌てて倒れたデーヴァンのフォローに向かう。

 ところが人獣はデーヴァンを追撃せず、すぐさま修介の方に向き直っていた。


「やろう、本気で俺らは眼中にねぇってのか!」


 同じことを思ったのか、起き上がったデーヴァンが怒りも露わに再び攻撃を仕掛ける。イニアーは慌ててそれに続き、今度はそれに修介も加わった。

 だが、三人掛かりでも人獣の影すら捉えることができなかった。

 次々と繰り出される攻撃を、人獣は常軌を逸した身のこなしですべていなしてみせた。巧みに立ち位置を変えながら一対複数の状況を作らないようにする立ち回りは、ただの獣ではなく、歴戦の戦士のそれだった。


「……旦那、本当にあれの腕を斬ったんすか?」


「そのはずなんだけどな……」


 イニアーの問いかけに、修介は呼吸を整えながら自信なさげに答えた。

 人獣は前回戦った時とはまるで別人だった。以前のように戦いを楽しんでいるような気配は一切なく、あるのは目の前の獲物を絶対に殺すという剥き出しの殺意だけだった。


 人獣が再び修介を狙って突進する。

 そこへ、ずっとタイミングを見計らっていたシーアが横合いから戦槌ウォーハンマーを振りかぶって飛び込んだ。

 だが、その奇襲も人獣には通用しなかった。

 人獣は瞬時に標的をシーアに変え、左の肘を繰り出した。

 シーアはそれを辛うじて盾で受けたが、体重の軽い彼女は簡単に弾き飛ばされる。

 飛ばされた先は最悪だった。

 宙に浮いたシーアの身体は崖の向こうへと放り出されていた。


「シーアさんッ!」


 修介は反射的に空いている手を伸ばしてシーアの手首を掴むと、振り回すようにして彼女の身体を引っ張った。

 結果、シーアは落下を免れたが、反動で修介が入れ替わるように宙に放り出された。


「旦那ッ!?」


 伸ばされたイニアーの手がむなしく宙を掴む。

 修介は真っ逆さまに崖下へと落ちていく。

 崖はかなりの高さがある。落ちればまず助からないだろう。

 だが、イニアーはすぐに違和感に気付いた。落下している修介の身体が、途中からまるで綿毛のようにゆっくりと下降し始めたのだ。

 はっとして振り返ると、ナーシェスが崖のへりに立って修介に杖を向けていた。彼がなんらかの魔法を使っているのは一目瞭然だった。


「でかした! そのまま離すんじゃねぇぞ!」


 イニアーはそう叫ぶと、視線を人獣へ向ける。修介を助けるにしても、先に人獣を排除する必要があった。


「がああッ!」


 怒り狂ったデーヴァンが、落ちていく修介を見つめたまま固まっている人獣に向けて戦棍メイスを振り下ろす。

 完全に虚を突いた攻撃だったが、人獣は当たる直前で身を翻してそれを躱した。


(あれを躱すのかよ!)


 尋常ならざる人獣の反応速度にイニアーは舌を巻く。

 元々、力技が得意なデーヴァンと敏捷性に優れる人獣とでは相性が悪い。それに加えてこの足場の悪さである。

 だが、傭兵兄弟と呼ばれるふたりにとって、この程度の苦境は何度も経験してきている。相手に応じて戦い方を変える対応力こそが彼らの真骨頂だった。


「兄貴!」


 イニアーはそう叫ぶと、兄の返事を待たずに人獣の真正面にその身を躍らせた。

 人獣は一瞬のためらいもなく爪を振り上げ、それを迎え撃つ。

 直後にイニアーが取った行動は、その場にいる全員の度肝を抜いた。

 彼は持っていた剣をいきなり明後日の方向に放り投げたのだ。

 獣としての本能か、人獣の視線は放り投げられた剣を追っていた。

 結果、動きが一瞬止まった。

 ほんのわずかな隙――だが、弟の意図を理解しているデーヴァンにはそれだけで十分だった。

 イニアーがしゃがみ込むのと同時に、その背後から戦棍メイスを全力で振り抜いた。

 人獣に右腕があったならば、あるいは防げていたかもしれない。だが、左腕一本では逆側からの攻撃に対処することはできなかった。

 凄まじい衝撃音と共に、人獣の右側頭部を戦棍メイスの先端が完璧に打ちぬいていた。

 人獣の身体はボールのように地面を転がり、そのまま大きな岩に激突した。


「はっはぁッ! ざまぁ見ろってんだ!」


 イニアーは地面に寝そべったまま喝采を上げた。

 だが、直後に人獣がよろよろと立ち上がってくるのを見て、その笑みが凍り付く。


「おいおい、あれ喰らって死なねぇのかよ!」


 その時、離れた場所から魔法を詠唱する女の声が聞こえてきた。

 直後に人獣の真上に銀色に輝く網が現れ、その身体に纏わりついた。

 視線を巡らせると、離れた場所で杖を構えるマレイドの姿があった。そして、もうひとりの魔術師――タイグが長い錫杖を構えて人獣へ突っ込んでいく。

 さらにその向こう側には斜面を駆け下りてくる騎士と冒険者達の姿も見えた。


「ようやく騎兵隊のご到着ってか」


 そう安堵しかけたのも束の間、凄まじい咆哮がイニアーの鼓膜を揺さぶった。

 人獣が無理やり魔法の網を引き千切ったのだ。

 人獣は頭部からおびただしい量の血を巻き散らしながらタイグの攻撃を跳び退って躱すと、そのまま身を翻して逃走した。

 タイグは無言でそれを追おうとする。


「追わなくていい!」


 すかさずマレイドの指示が飛んだ。タイグはぴたりと動きを止め、表情ひとつ変えずに彼女の元へと戻っていった。

 まるで猟犬だな、とイニアーは思った。

 とはいえ、彼も人獣を追うつもりはさらさらなかった。

 手負いの獣ほど恐ろしいものはない。追っても無駄だろうし、なによりも他に優先すべきことがあった。

 イニアーはデ―ヴァンらと共にすぐさま崖へと駆け寄る。

 だが、先ほどまで宙にふわふわと浮いていたはずの修介の姿は、どこにも見当たらなかった。


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