第213話 悲劇

 領都グラスターの南西部の一角に、高い石壁に囲まれた建物がある。

 雑多な街並みに不釣り合いな白大理石で造られたその建物は陽光を受けて眩く輝いており、見る者にある種の神秘性を抱かせることだろう。

 門をくぐると正面に大きな女神の石像がある。慈愛に満ちた表情で両手を広げている姿は、神というよりは子供を迎え入れる母のようにも見える。

 ヴァースの世界には幾多の神が存在しているが、『女神』と呼ばれているのは生命の神だけである。

 ここは、その生命の神を祀る神殿だった。


 かつて、魔神の王によって滅亡の危機に追い詰められた人類を救う為、ひとりの高司祭がその身に神を降ろす『神降しの奇跡』を行った。その際、生命の神は儀式を行った高司祭の姿を模してこの地に降臨したと伝えられている。

 大きな女神像は、生命の神を賛美すると同時に、その高司祭を称える為の像でもあるのだ。神殿を訪れる者は、誰しもが女神像の前で足を止め、世界を救った神と高司祭への感謝の祈りをささげていく。


 だが、この日神殿を訪れた黒髪の青年は女神像に一瞥もくれることなく、その横を駆け抜けていった。

 青年がこの神殿を訪れるのは二度目だが、一度目の時も女神像の前を素通りしている。ただ、それは彼が無礼なのではなく、この神殿を訪れる時は決まって心に余裕を失っているからであった。


 青年は眉をひそめる信徒たちの視線を気にも留めず、やや乱暴に神殿の扉を開け、中へと入った。

 近くにいた女性の神官は、突然入ってきた青年を見て眉をひそめる。青年の服がかなり汚れていたからだ。

 だが、すぐにその青年が戦地帰りなのだと思い至る。

 つい先ほど、カシェルナ平原に赴いていた即応部隊が帰還したと連絡があり、この神殿からも何人かの同僚が怪我人の治療の為に南門に向かったばかりであった。

 現に青年は鎧を身に付け、腰には立派な剣も下げている。なにより全身包帯だらけの姿は、どうみても戦地帰りにしか見えなかった。


 神官はきょろきょろしている青年に向かって声を掛ける。


「そちらの方、治療をご希望でしたら先にこちらで受付を行ってください」


 すると、青年は駆け足で神官に近づき、いきなり肩を掴んだ。突然の出来事に神官は思わず「きゃっ」と小さく悲鳴を上げる。


「サラ――ここについ先日大怪我をして運ばれてきた女性がいますよね!? どこにいますか!?」


 青年の勢いに気圧され、神官は通路の先を指さしながら「あ、あちらの通路の先にある宿舎の奥の部屋です」と素直に答えてしまった。

 青年は礼もそこそこに通路に向かって再び駆け出す。「ちょ、ちょっと――」という神官の声はむなしく天井に響くだけだった。




 ……カシェルナ平原の戦いから、二日が経過していた。

 戦いを終えてグラスターの街に帰還した黒髪の青年――宇田修介を出迎えたのは、青白い顔をしたナーシェスだった。

 彼は開口一番、修介に向かってこう告げた。

 屋敷が何者かの襲撃を受け、サラとヴァレイラが大怪我を負って生命の神の神殿に運ばれた、と。

 修介はナーシェスの話を最後まで聞くことなく、無我夢中で生命の神の神殿まで走ってきたのである。骨折している左腕が無理に動かしたせいでじんじんと痛みを発していたが、それすら全く気にならなかった。

 そうしてたどり着いた部屋で待っていたのは、ベッドに寝かされているふたりの女性だった。

 金髪の女性は全身に包帯が巻かれ、長い赤髪の女性はまるで死人のように生気を感じさせない顔で眠っている。


「な、なんだよ……何が一体どうなってるんだよ……」


 修介はよろよろとベッドに近づき、力なく床にへたり込んだ。


「シュウスケさん?」


 背後から遠慮がちな声がして振り返る。

 そこには白い神官衣に身を包んだ女性が立っていた。

 女性は名をシーアといい、修介とは輸送部隊護衛の依頼で一時的にパーティを組んだことがあった。優秀な冒険者であり、生命の神に仕える神官でもある。以前、高熱で倒れたヴァレイラを担ぎ込んだ際に治療してくれたのも彼女だった。


「シーアさん! ふたりの容態は!? 大丈夫なんですか!?」


 修介はシーアに詰め寄った。


「ここは神殿です。神聖な場所なのですから、お静かに願います。前に来られた時も同じことを言いましたよね?」


「そんなことより、ふたりは大丈夫なんですか!?」


「いいから落ち着いてください。ちゃんと説明しますから」


 シーアは厳しい口調で言うと、ベッドの近くにある椅子に座るよう促した。そして修介が座るのを待ってから再び口を開いた。


「おふたりとも命に別状はありません」


 その言葉に修介は安堵の息を吐き出した。


「――ですが、ヴァレイラさんは全身に酷い火傷を負っています。前回治療したときの後遺症がまだ残っているので、今の彼女にはあまり高度な癒しの術が使えません。なので、完治するまでしばらく時間が掛かると思います」


「わかりました……それで、サラの方は?」


 その問いかけにシーアの表情が一瞬だけ強張った。


「サラさんは――」


「待って……私から話すわ……」


 弱々しい声がシーアの言葉を遮った。


「サラさん、起きていたのですか?」


「枕もとであれだけ騒がれれば嫌でも起きるわよ……」


 サラはやや掠れた声でそう言うと、首だけを動かして修介を見た。


「シュウ……帰ってきてたのね。おかえりなさい」


「あ、ああ、ただいま――って、そうじゃなくて、大丈夫なのか!?」


「見ての通り、たいした怪我はしてないから安心してちょうだい」


 言われて修介はまじまじとサラを見る。たしかに、ヴァレイラと違って彼女には目立った外傷はなさそうだった。


「私は席を外しますね。何かあれば隣の部屋にいるので呼んでください」


 シーアはそう告げ、静かに部屋を出て行った。


 取り残されたふたりの間に微妙な空気が流れる。

 修介は何か言おうとしたが、サラが無事だった安堵と、その場にいられなかった申し訳なさが入り混じって言うべき言葉が思い浮かばなかった。

 結局、先に口を開いたのはサラだった。


「……なんて顔してるのよ。これじゃどっちが怪我人かわからないじゃない」


「い、一応俺も怪我人だぞ?」


 修介は吊るされた左腕を掲げてみせた。それを見てサラは「ふん」と鼻を鳴らす。


「何も言わずに戦場に行った罰ね。むしろその程度で済んで良かったじゃない。ヴァルなんかずっと不機嫌で大変だったんだから」


「目を覚ましたらちゃんと謝るよ。……それと、サラもごめん」


「それは何に対しての謝罪?」


「……色々だ」


「ふーん、色々ね……」


 ジトッとした目で睨まれ、修介は居心地悪そうに椅子に座り直す。


「ず、随分と顔色が悪そうに見えるけど、本当に大丈夫なのか?」


「大丈夫だってば。ちょっと無理をし過ぎて身体がまいっちゃってるだけだから」


 サラはそう言ってかすかに微笑んだ。その弱々しい笑顔は『儚い』という言葉を体現しているようで、嫌でも不安を掻き立ててくる。


「……それで、いったいなにがあったんだ?」


 修介は姿勢を正し、サラの目を見て尋ねた。

 すると、彼女は怯えたように顔をひきつらせ、目を背けた。


「……どうした?」


 だが、サラは何も言わない。


「サラ?」


 もう一度促すと、彼女は絞り出すように言葉を吐き出した。


「……アイナが攫われたの」


 修介は咄嗟に言葉の意味が理解できなかった。


「アイナが攫われた……?」


 自分自身で口にすることでようやく意味を理解した。そして同時に、奈落の底に落ちていくような絶望感を味わう羽目になった。


 サラは何が起こったのか、すべてを語った。

 謎の魔術師が水晶玉を狙って屋敷を襲撃してきたこと。それを阻止しようとしたヴァレイラが負傷し、アイナリンドが攫われたこと。それらを語るサラの声は、聞いている修介が危ういと感じるほどに静かで、冷たかった。


「……その魔術師ってのは何者なんだ?」


「わからない」


 サラは小さく首を振った。


「なんでアイナを攫ったんだ? 目的は水晶玉だったんだろ?」


「わからない。ただ……」


「ただ?」


「アイナを連れ去ったのはついでだと思う」


「ついで?」


「あいつはアイナを見て『まさかこんなところでエルフに出会えるとは』って言ってた。最初からアイナを連れ去るつもりなら、そんなこと言わないと思う……」


 修介は、ふざけるな、と叫びそうになるのをすんでのところで堪えた。自分でも気づかないうちに拳を強く握りしめていた。

 水晶玉なんて勝手に持っていけばいい。ついで、なんてふざけた理由でアイナを攫うなど到底許せることではなかった。


「……ごめん、なさい……」


 サラの目からは涙が溢れていた。


「あなたにアイナのことを頼むって言われていたのに……私、守れなかった……」


 サラは喘ぐように言った。口にしてしまったせいで感情の堤防が決壊したのか、堰を切ったように大声で泣きじゃくる。

 その悲痛な声を聞いて、修介は胸が引き裂かれそうになった。

 サラの声が冷たいと感じたのは、起こった出来事を正確に伝える為に必死に感情を押し殺していたからなのだ。妹のように可愛がっていた少女を目の前で連れ去られて平気でいられるはずがなかった。


「ごめんなさい、ごめんなさい」と泣きながら繰り返すサラ。

 修介は彼女を抱きしめ慰めたいと思ったが、それを実行に移すことはできなかった。その資格が自分にはないと思ったからだった。

 それほどまでに心がどす黒い感情に染まっていた。

 大切な仲間を傷つけ、アイナリンドを連れ去った犯人への憎悪。そして、守ると誓っておきながら、肝心な時に傍にいられなかった自分自身への怒り……。この無限に湧き起こってくる負のエネルギーは、然るべき相手に然るべき方法で発散させねば収まりがつきそうもなかった。

 だが、修介はそんな黒い感情を押し殺し、まったく別のことをサラに告げた。


「心配するな、サラ。アイナは俺が必ず連れ戻す」


 サラは涙でくしゃくしゃになった顔を激しく横に振った。


「ダメッ! あの魔術師は普通じゃない! あんな恐ろしい魔法、見たことない! 絶対に相手にしたら駄目よ!」


 サラは修介の服を掴んで必死に訴える。その取り乱しようは尋常ではなかった。よほど恐ろしい目に遭ったのか、目は血走り、全身が小刻みに震えている。


「そんなにやばいやつなのか?」


「魔法そのものの次元が違った……。わたしの全力の魔法を、あいつはまるで虫でも払うようにあっさりと無力化した。私の魔法はあいつにはまったく通用しなかった。私の……私の魔法は……」


 ――児戯に等しい。以前にナーシェスが自身とサラの魔法を比較する際に使った言葉が脳裏に浮ぶ。ナーシェスはサラを天才と評していた。そのサラを圧倒するほどの魔術師の実力がいかほどのものか、修介には想像すらできなかった。


「けど、そんなやばい魔術師なら、なおのことアイナを放っておくわけにはいかないだろう?」


「そうだけど、でも――」


「大丈夫だ。相手が魔術師ならば多少は俺にも分がある。サラだって俺の体質は知ってるだろ?」


 修介は安心させるように言ったが、サラはただ首を横に振るだけだった。


「……わかった。この話はまた後にしよう。今は身体を治すことが先決だ。アイナが帰ってきた時にサラがそんなんじゃ逆に心配されちゃうだろ?」


 修介はサラの手を優しく握って、諭すように言った。

 それで納得したわけではないだろうが、サラは小さく頷くと目を閉じた。よほど無理をしていたのか、すぐに寝息をたて始めた。

 修介は握った手をゆっくり離すと、静かに部屋を後にした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る