第212話 戦いの果てに

 戦場を覆っていた霧が晴れていく。

 暴徒化していた妖魔は、まるでサリス・ダーの後を追うように次々と崩れ落ちていった。

 領主グントラムが空に向かって高々と剣を突き上げ、勝利を宣言した。

 その様子を呆然と見つめていた兵士達は、ややあってから自分たちが勝利したことに気付き、歓喜の声でそれに応えた。その声は瞬く間に戦場全体に伝播し、やがて大歓声となった。


「――おい! おい、しっかりしろ!」


 歓声が鳴り響くなか、よく通る声に呼びかけられ、修介はゆっくりと目を開く。

 視線の先に妖魔の血で汚れたランドルフの顔があった。


「……あれ、ランドルフさん?」


「どうやら生きているようだな」


 ほっとしたように息を吐くランドルフ。


「すんません、気を失ってたみたいです」


「だろうな。むしろあれだけ派手に吹き飛ばされてその程度で済んでいることが驚きだ。魔獣ヴァルラダンの時といいグイ・レンダーの時といい、君のしぶとさは尋常ではないな」


「自分でも毎回よく生きているなと思いますよ……」


 自身のその台詞で修介はようやく状況を思い出した。


「――そ、そうだっ! デーヴァンはっ?! あとアレサ――俺の剣は?!」


 そう叫んで起き上がろうとしたところで左腕に激痛が走り、修介は悲鳴をあげながら地面を転げまわった。


「すぐに神聖騎士が来る。それまでじっとしていろ」


「――そ、そんなことよりもデーヴァンと俺の剣は!?」


 涙目になりながらも先ほどと同じ質問を繰り返す。


「デーヴァンというのはあの巨漢の傭兵のことか? だとしたら心配はいらない。かなりの深手を負ってはいるが命に別状はない。……それと、君の剣はここにある」


 ランドルフはそう言って手にした剣を修介のすぐ横にそっと置いた。


「よ、よかった……」


 修介は安堵の溜息を吐く。そしてゆっくりと右手を動かし、アレサに触れた。

 アレサは修介にしか伝わらない程度に小さく震えてそれに応えた。


「――良い剣だ」


 ランドルフの言葉に修介は頷いた。


「俺の最高の相棒ですから……」


「そうか……。それにしても自分の体をそっちのけで仲間と剣の心配をするとは、ずいぶんと余裕だな」


「余裕じゃないです。全身が……特に左腕が痛いです」


「左腕は間違いなく折れてるだろう。むしろ咄嗟に盾で受けたからこそ、その程度で済んだと言うべきだな」


 修介はそう言われてすぐ傍に落ちている残骸を見た。もはや原型を留めていないそれは、自分の身代わりとなってくれた盾だった。


「名も無き盾よ、ありがとう……」


 盾の残骸に手を伸ばしながら礼を口にした。

 アレサという特殊事例があるせいか、最近の修介は物に対して必要以上に感情移入してしまう傾向にあった。

 そんな修介をランドルフは不思議そうに見ていたが、すぐに神聖騎士が駆け付けてきたので特に何も言わなかった。

 やってきた神聖騎士は修介の左腕を見てすぐに癒しの術を使おうとした。

 だが、修介は「本当に必要な人の為にマナを使ってください」と言ってそれを断り、応急処置だけを受けた。自身の体質の問題もあるが、この程度で癒しの術を使っていてはマナがいくらあっても足りないだろうと思ったからである。

 幸いなことに左腕こそ折れてはいたものの、それ以外は打撲程度で済んでおり、命に関わるような状態ではないとのことだった。神聖騎士はしきりに神の御加護だと口にしていたが、その辺りのことは修介にはピンとこなかった。




「……ところで、戦いには勝ったんですよね?」


 修介はゆっくりと上半身を起こしながらランドルフに問いかける。

 彼がここにいるという事実から聞くまでもないことだとわかってはいたが、それでも確認せずにいられなかった。


「ああ、我々の勝利だ。……まだすべてが終わったわけではないがな」


 そう口にしたランドルフの表情は決して明るいものではなかった。討伐軍がこの後すぐに軍を再編して妖魔の追撃に赴くことが決まっているからである。

 今回の戦で討伐した妖魔は侵攻してきた妖魔の半数にも満たない。方々に散って行った妖魔の群れがまだ残っているのだ。フェリアンの部隊や即応部隊が積極的に狩っていたとはいえ、散った妖魔の全てを追えていたわけではない。放置すれば方々で被害が出るのは火を見るより明らかだった。


「即応部隊はどうなりますか?」


 その問いにランドルフの表情がさらに翳る。


「トレヴァー殿が戦死されたというのは本当か?」


「……はい、あの黒い妖魔に……」


「そうか……。ならば即応部隊は負傷兵と共にグラスターの街に引き上げ命令が出されるだろうな」


「そう、ですか……」


 修介も沈痛な表情で俯いた。戦死したのはトレヴァーだけではない。多くの兵士や傭兵が激戦の中で命を落としているのだ。

 戦場を見渡せば数えきれないほどの死体が横たわっており、それらの傍には持ち主を失った剣や槍がまるで墓標のように地面に突き刺さっていた。

 この凄惨な光景を目にしてしまっては、勝った勝ったと無邪気に喜ぶことなどできるはずがなかった。


「たしかに犠牲は大きかったが、それでもひとつの山場を越えたのはたしかだ。特にあの上位妖魔をこの場で仕留めることができたのはとてつもなく大きい」


 ランドルフはそう言うと、修介の右手に握られたアレサを見た。


「……君がその剣を託してくれたおかげだ。その剣がなければ、私はあの妖魔に勝つことはできなかった。礼を言わせてくれ」


「俺じゃあの化け物を倒せないと思ったから、そうしただけです」


 修介は憮然とした表情で答えた。

 そんな修介を見てランドルフは「ふっ」と小さく笑った。


「……なんすか?」


「いや、すまない。初めて会った頃と比べて随分と成長したものだと思ってな」


「……そうですかね? 正直、自分ではよくわかりません。結局のところ俺はあの黒い妖魔にぶっ飛ばされただけですから……。それに、もし俺が冷静に状況を把握できていたらイリシッドの存在にも気づけたはずなんです。それなのに、俺は……」


 自身の限界を知って勝手に絶望し、下を向いていた。

 一見すると咄嗟の機転で勝利に貢献したようにも見えるが、もっと前の段階でやるべきことを見逃していたに過ぎないのだ。


「……この戦いで後悔を背負わなかった者など誰もいないさ」


 悔恨を滲ませる修介を見て、ランドルフは静かにそう告げた。


「たしかに君には足りてないものがいくつもあるのだろう。だが、妖魔は我々が成長するのを悠長に待ってはくれない。結局、今ある力で最善を尽くすしかないんだ。その結果もたらされる現実は、いつだって非情なものだ」


 ランドルフの言葉は修介にではなく、むしろ自身に向けられているようだった。


「下を向くのは構わない。時には足を止めて休んでもいいだろう。だが、最後は必ず立ち上がって前を向け。生き残った者は志半ばで倒れた者の分まで前に進む義務があるからだ」


「ランドルフさん……」


「……少なくとも君が献身的に戦ったからこそ、助かった命がある。その事実は変わらない。私も含めてな」


 ランドルフはそう言い残し、背を向けて去って行った。




 戦場では未だに多くの兵士達が忙しなく動き回っていた。

 そんななか、修介は地面を見つめたまま身動き一つしていなかった。

 ランドルフの言ったことはおそらく正しいのだろう。

 志半ばで倒れた者の分まで前に進む義務がある――。

 それは死んだ者だけとは限らない。ロイのように怪我で夢を諦めざるを得なかった者や、純粋な才能の有無や体格といった要因で諦めた者だっているだろう。

 自分だけが特別なわけではないのだ。

 そんなことはわかっていた。


 だが――修介は顔を上げてランドルフが去って行った方を見る。

 最強の騎士と呼ばれるあの男は、今回も周囲の期待に応えてみせた。自分が手も足も出ないと思った上位妖魔を倒したのだ。

 彼のような偉大な戦士と比べたら、自分自身のちっぽけな成長に一体なんの意味があるのだろうと考えてしまう。

 サリス・ダーとの戦いで、マナのない自分にはどう足掻いても上位妖魔と互角に戦えるだけの力を得ることが不可能だとわかってしまったのだ。

 その事実が茨となって心に絡みつく。


 ――己の分をわきまえる。

 ――別に最強の戦士を目指しているわけではない。


 いくらそう言い聞かせても、心のどこかでそれを受け入れられない自分がいた。

 サリス・ダーに勝てないと判断し、ランドルフにアレサを託すのがベストだと思ったからそうした。理屈の上では納得していたし、最善を尽くしたという自負もあった。

 しかし、いくら頭で理解し、感情をコントロールできたとしても、感情そのものが消えるわけではない。

 肝心な場面で他人に頼らなければならなかった屈辱。

 大切なアレサを他人の手に委ねたことへの怒り。

 努力ではどうすることもできない体質への憤り。

 それらの行き場のない感情が灼熱の炎となって容赦なく心を焼いていく。


 気が付けば、修介はアレサの柄に額を押し付けて項垂れていた。


『マスター?』


 不審に思ったアレサが小さく声を掛ける。

 修介はそれに応えず、額を柄に打ち付けた。


「……っくしょう……ッ」


 絞り出すような声だった。

 だが、一度口から漏れ出てしまえば、もうその奔流を止めることはできなかった。


「ちくしょうッ!」


 もう一度、アレサの柄に額を強くぶつける。


「ちくしょおおおおぉぉぉッ!」


 修介は絶叫した。

 その声は周囲の喧騒に混じり、意味のない音となって虚しく空へと消えていった。




 王国暦三一六年五月。

 グラスター辺境伯グントラム・ライセット率いる討伐軍は、十数年ぶりに南の大森林から侵攻してきた妖魔の軍勢と戦い、勝利した。

 だが、ごく一部の者だけが、本当の戦いがこれからであることを知っていた。

 そのことを暗示するかのように、ヴィクロー山脈を望む遥か西の空は、未だ分厚い雲に覆われたままだった。



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