第205話 乱戦

 突然目の前で起こった惨劇を前に、後続の歩兵達は理解が追い付かず、その足は完全に止まっていた。

 トレヴァーを殺害したサリス・ダーは、そのまま唸りを上げて歩兵隊に飛び掛かると、先頭の歩兵長の首を容赦なく刎ねた。

 続く暴力は止まることを知らず、振り回される鉤爪は紙を切り裂くように鎧を破壊し、肉を切り刻んでいく。サリス・ダーが通り過ぎるところ絶叫が響き渡り、美しかったはずの緑の草原は巻き散らされる血と臓物によって赤く染めあげられた。

 そして、その猛威は歩兵隊だけに留まらず、後方にいる傭兵隊にも襲い掛かった。


「なっ――!?」


 いきなり目の前を走っていた傭兵のひとりが吹き飛ばされ、修介は思わず足を止める。

 現れた黒い妖魔の身体から発せられる暴力の気配は、あの上位妖魔グイ・レンダーを彷彿とさせた。

 グイ・レンダーの時は相手に認識されなかったが故に、その恐怖と正面から向き合うことはなかった。

 だが、眼前の妖魔の目は確実に修介の姿を捉えていた。

 妖魔の太い右腕が大きく振り上げられる。

 剥き出しの殺意を前に、修介はまるで金縛りにあったかのように動くことができなかった。


(殺される――ッ!)


 そう思った直後、いきなり横合いから大剣が振り下ろされ、黒色の妖魔を大きく後ろに下がらせた。


「ぼさっと突っ立ってんじゃねぇ! 死にてぇのかッ!」


 その一喝で、修介の身体は呪縛から解き放たれた。

 声の主はゴルゾだった。


「はっ、さすがの英雄様も上位妖魔が相手じゃビビって動けないってか? この臆病者がっ!」


「ざけんなッ! ビビってねぇ! ちょっと油断しただけだっ!」


 修介は大声で言い返すと、ゴルゾの横に並んでサリス・ダーと相対する。内心では肝が縮み上がっていたが、今はチンケなプライドに縋ってでも戦う時だった。


「待て、まともにやり合うな! 散開して奴の気を散らせッ! とにかく騎兵隊と合流するんだ!」


 すかさずダドリアスの指示が飛ぶ。

 大量の妖魔に囲まれたこの状況で正面から上位妖魔と戦うなど自殺行為以外の何物でもない。修介は迷うことなくその指示に従い、ゴルゾとは逆の方向に走り出す。他の傭兵達も一斉に散開して移動を開始した。

 だが、サリス・ダーはばらばらに移動する傭兵達を飛び跳ねるように追いかけ、容赦なく血祭りにあげていく。その動きは常軌を逸しており、とても普通の人間がまともに相手にできる存在とは思えなかった。


「ちくしょう! このままじゃ前線にたどり着く前に全滅するぞッ! いっそのこと全員で奴を囲んで殺っちまった方が良いんじゃねのか!?」


 ゴルゾがダドリアスに向かって叫ぶ。


「駄目だ! 逆に俺たちが包囲される! それに、あれはサリス・ダーだぞ! お前だってサリス・ダーの恐ろしさは知っているだろう!?」


 そう口にしながらも、ダドリアス自身は足を止めていた。そして、まるでサリス・ダーを挑発するように剣を掲げて雄叫びを上げた。


「ダドリアスさんッ!?」


 ダドリアスの信じられない行動に修介は思わず立ち止まりそうになる。


「止まるなッ! お前たちはこのまま行けッ!」


 その一言で修介はダドリアスが囮になろうとしているのだと察した。だが、それは同時に彼の死も意味していた。


「で、でも――」


「いいから行けッ!」


 有無を言わさぬダドリアスの口調に修介ははっとする。

 より多くの仲間の命を救う為に個人を犠牲にする……戦いにおいて、その無慈悲な選択肢は唐突に突き付けられる。マンティコアとの戦いでそのことを学んだはずだった。

 今ここで足を止めることは、ダドリアスの覚悟を無にする行為なのだ。


「くそったれぇッ!」


 修介はその言葉と共に罪悪感を吐き捨て、再び走り出した。

 だが、サリス・ダーの動きは予想以上に俊敏だった。まるでダドリアスの覚悟を嘲笑うかのように凄まじい速度で進路上に立ち塞がる。

 殺意に彩られた赤い目が修介へと向けられた。


「……上等だ、このやろう」


 逃げ切れないと判断した修介は覚悟を決め、サリス・ダーと向かい合う。

 アレサを握る手がかすかに震えている。これは武者震いだと、必死に自分に言い聞かせた。

 ちょうどその時、馬蹄の轟きが耳に届いた。


「――あれを見ろッ!」


 ゴルゾが指し示した方角を見る。

 そこには土煙を上げて殺到する騎兵隊の姿があった。

 先行していた騎兵隊が戻ってきたのだ。おそらくフェリアンの部隊までの道筋を作り出した後、強引に妖魔の群れの中を旋回したのだろう。

 騎兵隊はサリス・ダーに向かって突撃を仕掛けようとしていた。その怒涛の勢いから、隊長を殺された彼らの凄まじい怒りが伝わってくる。復讐心を滾らせた騎兵隊の突撃は、たとえ上位妖魔といえどまともに喰らえば無事ではすまないと思わせるだけの迫力があった。

 一方のサリス・ダーは猛然と向かってくる騎兵隊を目視した途端、それまでの獰猛さが嘘のように消え去っていた。ゆっくりと振り上げていた腕を下ろすと、代わりに空に向かって大きく吼えた。

 それは、魂を底から震え上がらせるような不気味な咆哮だった。

 叫び終えると、サリス・ダーは修介の方には見向きもせず、悠然と妖魔の群れの中へと姿を消した。


「……た、助かった……のか?」


 修介は大きく息を吐きだした。あのまま戦っていたら間違いなく殺されていただろう。上位妖魔に二度も狙われながら命があるのは幸運以外の何物でもなかった。


「貴様ら何をやっているッ!」


 騎士のひとりがやって来て怒鳴った。即応部隊の副長ルーサムである。


「貴様らはさっさとフェリアン様の元へ向かえ!」


「でも、まだあの黒い妖魔が……」


 修介はサリス・ダーの消えた方角を見ながら言った。


「捨て置け! 優先順位を違えるなというトレヴァー隊長の言葉を忘れたかのかッ!? 今はフェリアン様の部隊と合流するのが先決だ! 向こうはかなりの乱戦になっている。貴様ら傭兵隊の力が必要なのだ!」


 そう言ったルーサムの目は今すぐにでも剣を振り降ろしそうなほどの怒りに染まっていた。目の前で敬愛する隊長を殺された彼こそが最もサリス・ダーを追いたいと思っているだろうに、トレヴァーの意志を守ろうと我慢しているのだ。


「ダドリアス、貴様が歩兵隊の指揮を執れ! 隊長も歩兵長も失った今、騎兵以外で騎士の位を持っているのは貴様だけだ!」


「し、しかし、私は――」


「問答無用だ、行けッ! 後方の妖魔どもは我らが抑える! 貴様らは絶対にフェリアン様をお救いしろッ!」


 ルーサムは言い終えるよりも早く馬の腹を蹴って後方から追ってくる妖魔の群れに突っ込んで行った。

 それを見たダドリアスは苦渋の顔を浮かべながらも大声で叫んだ。


「歩兵隊、傭兵隊! 全員、俺に続けーッ!」


 ダドリアスの号令で即応部隊は騎兵隊を残し一丸となってフェリアンの部隊を襲う妖魔の群れに向けて突撃を開始した。

 先の騎兵隊の突撃によって数こそ減っていたが、それでも立ち塞がる妖魔の数は尋常ではなかった。

 次々と押し寄せてくる妖魔に対して、即応部隊はサリス・ダーの襲撃によってわずかな時間で多くの犠牲者を出していたことや、これまでの疲労の蓄積もあって、あっという間に妖魔の群れに飲み込まれ、乱戦となる。

 そんな絶望的な状況のなか、気を吐いたのはダドリアスだった。彼は精神的支柱であるトレヴァーを失い混乱の極みにあった部隊を身体を張った奮戦で鼓舞し続けた。

 そして、それを支えたのがデーヴァンとゴルゾだった。

 圧倒的な強さを誇る彼らの存在は、味方にとっては希望の光となり、妖魔にとっては悪夢の象徴となった。

 彼らの活躍によって即応部隊は多くの犠牲者を出しながらも、ついにはフェリアンの部隊との合流を果たしたのである。

 気勢を上げながら戦う兵士達。

 だが、いつの間にかその中から修介の姿は消えていたのだった。

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