第200話 拉致

「てめぇ、なにしてやがるッ!」


 ヴァレイラは宙吊りになっているサラを見て一瞬で状況を把握すると、テーブルを踏み台にして男に斬りかかった。

 だが、男は少しも慌てた様子も見せずに身体を捻って斬撃を躱す。その拍子に宙に浮いていたサラの体が糸が切れた人形のように床に落ちた。


「サラッ!」


 ヴァレイラはサラの元へ駆け寄ろうとしたが、男が自分に向けて手を翳しているのを見て、反射的に床を転がってソファーの陰に隠れた。

 魔術師が手を翳す場合、その先には魔法の対象となるものが必ずある。対象を指定する魔法は術者が標的を視認している必要があるからだ。状況から侵入者が魔術師であると判断し、咄嗟に視線を切ったのである。


 ソファーの陰に隠れた状態でヴァレイラは素早く思考を巡らせる。

 現状でわかっているのは侵入者が敵であること。そして、相当手練れの魔術師であるということだけだった。

 とはいえ、たかが魔術師ひとりである。魔術師は魔法の詠唱時はどうしても無防備になる。だからこそ戦士の援護が必須なのだ。一瞬で距離を詰めれば、魔法の詠唱が終わる前に片を付けられる――そう判断すると、ヴァレイラは素早くソファーの陰から飛び出し、男に向かって突進した。


 彼女のその判断は間違ってはいない。

 ただし、それは相手がただの魔術師ならば、の話である。

 目の前の男は規格外の化け物だった。


「――ッ!?」


 なんの前触れもなく男の手から轟音と共に稲妻がほとばしった。

 ヴァレイラは咄嗟に剣でそれを受けて直撃を防ぐも、堪えきれずに背後の棚に激突した。飾ってあった調度品が派手な音を立てて壊れ、破片が床に散らばる。


「くそったれ……どうなってやがる……」


 よろよろと立ち上がりながらヴァレイラは吐き捨てる。

 目の前の魔術師は詠唱らしい詠唱をしていなかった。これまで色々な魔術師を見てきたが、そんな芸当ができる奴にはお目にかかったことがなかった。天才と言われるサラでさえ不可能だろう。


 男が再び手を翳した。

 ヴァレイラは予備の短刀を引き抜き、男に向かって投げつけようとした。

 だが、それよりも先に男の手から稲妻が放たれる。その電弧は先ほどとは異なり、蜘蛛の巣のように広がり一斉にヴァレイラに襲い掛かった。


「じょ、冗談だろ……?」


 さしものヴァレイラも剣一本でその全てを受けることはできなかった。


「ぎゃああああぁぁッ!」


 全身を電撃に打たれたヴァレイラはそのまま意識を失った。




「……ヴァル……ぐっ!」


 サラは床に倒れたヴァレイラを見て苦しそうに呻く。叫びたくても、潰されかけた喉がそれを許してはくれなかった。

 男の意識がヴァレイラに向いたおかげで身体は解放されたものの、床に落ちた杖を拾うのが精一杯で、それ以上は何もできなかった。

 視線の先では、男が水晶玉を手に部屋を出て行こうとしていた。

 このままあの男に水晶玉を渡してはいけない――そう直感が告げていたが、思いに反して身体が動かない。いや、動けないのだ。

 それほどまでに男との力の差は歴然だった。


 魔法を発動させるためには、体内の魔力を効率よく大気中のマナに干渉させなければならない。簡単な魔法であれば、杖で魔法文字を描き、口で詠唱するだけで事足りるが、大掛かりな魔法ともなれば、文字通り全身を使って魔力を操る必要がある。

 魔術師の持つ杖は、それを効率化させる為に必要な道具……いわば魔術師にとっての武器なのだ。

 だが、目の前の男は杖も持たず、宙に魔法文字すら描いていない。ただ手を翳し、短い言葉を口にしただけだった。

 魔術師としての根幹が異なっているのだ。


 ふいに男が足を止めた。


「愚かな……」


 そう呟くと、いきなり何もない空間に空いている手を伸ばした。

 それまで何もなかった空間から、突然首を掴まれ苦しそうに喘ぐアイナリンドが姿を現した。その手に握られていた短剣が、カラン、と乾いた音を立てて床を転がる。


「アイナッ!」


 サラはアイナリンドが姿隠しの魔法を使って奇襲しようとしたのだと瞬時に理解した。そして、それが失敗に終わったことも。

 いくら姿を隠していても、気配が消えるわけではない。しかも、男は周囲に魔力場を展開している。魔力場の中に入れば、当然その魔力は瞬く間に察知されることになる。男の目には、息を潜めて近づくアイナリンドの姿がさぞ滑稽に映ったことだろう。


 男は苦悶に歪むアイナリンドの顔を見て、くくっ、と喉を鳴らした。


「これはとんだ拾い物だ。まさかこんなところでエルフに出会えるとは」


 必死にもがいていたアイナリンドだったが、男が耳元で何かを囁いた途端、急に動きを止め、脱力した。

 男は動かなくなったアイナリンドを脇に抱え、再び部屋を出て行こうとする。


「待ちなさいッ! その子をどうするつもり!?」


 サラは杖を構えて懸命に声を張り上げる。

 だが、男はまるで羽虫でも見るような目でサラを一瞥しただけで、足を止めることはしなかった。


「いかせない――ッ!」


 サラは全身のマナを集中させ、一気に魔力を高める。

 先ほど同様、絡みつくような魔力が詠唱の邪魔をしてくるが、限界まで高めた魔力で強引にそれを振り払った。

 アイナリンドを巻き込む可能性のある攻撃魔法は使えない。ならば、最大級の魔力で麻痺の術を使う。麻痺の術は魔法学院では禁術とされている魔法だが、使えないわけではない。

 男との実力差を考えれば成功率は絶望的に低いだろうが、それでもこのままアイナリンドが連れ去られるのを黙って見過ごすことなどできるはずがなかった。


 サラは巧みに杖を動かし、かつてないほどの速さでいくつもの魔法文字を宙に描いていく。

 だが、それを見ても男は警戒する素振りすら見せない。それどころか、その口元には小馬鹿にしたような笑みすら浮かんでいた。

 その態度に、サラの怒りは頂点に達する。

 そして同時に魔法の詠唱も完了した。


(これならいけるッ!)


 そう思った直後、男が短く何かを呟いた。すると、宙に描かれた魔法文字が、まるで解きほぐされた糸のようにバラバラになってかき消えていた。


「そ、そんな――っ!?」


 限界まで魔力を高めて詠唱した魔法があっさりと無効化された。こんなことは初めてだった。

 失意と大量のマナを失った反動で、サラは崩れ落ちるように膝をついた。


「――お前に本当の魔法を見せてやろう」


 男は無造作にアイナリンドを床に下すと、サラに向けて手を翳し、魔法を詠唱した。

 サラの足元に魔法陣が現れる。その魔法陣から垂直に放たれた黒い光がサラを飲み込んだ。


「ああああああああああぁぁッ!」


 自分のものとは思えない悲鳴が鼓膜を激しく震わせる。

 全身の神経が炎で焼かれているようだった。あまりの激痛に『痛い』以外に何も考えられなくなる。魔法陣から逃れたくとも、魔力による拘束で倒れてのたうち回ることさえ許されなかった。


 意識が飛ぶ直前、男が手を下ろした。

 永劫に続くかと思われた地獄のような時間はそれでようやく終わりを迎えた。

 激痛から解放されたサラは、その場に力なく倒れた。

 かすかに映る視界の先にはアイナリンドを抱えて出て行く男の背中があった。


「ア、アイナ……」


 必死に手を伸ばそうとするも、全身の感覚が失われ、指先ひとつ動かすことができなかった。

 それでも、サラは芋虫のように這って男を追いかけようとする。


「アイナぁ……アイナぁ……」


 嗚咽混じりの声はもはや誰の耳にも届かなかった。

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