第201話 隷属

 涎を垂らしたオーガが、たった今殺したばかりのゴブリンの腕にかじりついている。

 キリアンはその様子を眺めながら、ゴブリンの繁殖力が高いのは、オーガの餌になる為なのではないかという下らない考えに身を委ねていた。

 砦を落としてから五日。

 妖魔どもの空腹は限界に達しているようだった。

 近隣の村を襲撃したがる妖魔どもを強制的にカシェルナ平原まで移動させたことで、人間の虚を突くことには成功した。

 その結果、ゴブリンがオーガの餌になってしまっているわけだが、キリアンにはゴブリンを憐れむ感情など微塵も湧かなかった。むしろ必死に逃げ惑うゴブリンの姿は滑稽ですらあり、余興としては悪くない見世物だった。


 そんなキリアンの考えを非難するかのように背後から唸り声が聞こえた。

 そこには、まるで従者のように付き従う一体の妖魔がいた。フォルムは人間に近いが、大きさは人間よりも二回りは大きい。漆黒の肌は光沢があり、まるで金属でできているかのようだった。縦に引き伸ばされたような面長の顔には鼻がなく、その代わりと言わんばかりに大きな赤い目が不気味な光を放っていた。


 サリス・ダーと呼ばれる上位妖魔である。


 数千の妖魔の軍勢はこの上位妖魔が支配していた。その支配力は絶対であり、他の妖魔どもはサリス・ダーに対しておそろしく従順だった。

 それだけの力をこの上位妖魔は持っているのだ。

 弾力性のある皮膚は生半可な武器では傷一つつけられないほど強靭で、戦闘能力は並みいる妖魔の中でも間違いなく最上位に位置しているだろう。

 さらに、サリス・ダーのみが持っているとされる特殊能力は、人間にとって大きな脅威となる代物だった。だからこそ、キリアンはわざわざ大森林の奥深くまで赴いて、従魔の錫杖を使って調伏したのだ。


「そういきり立たなくとも、すぐに獲物の方からやってくる」


 妖魔に人の言葉が理解できるとは思えなかったが、キリアンはそう言ってサリス・ダーを宥めた。

 だが、すぐにサリス・ダーが唸った原因が他にあることに気付く。

 気配を感じて空を見上げると、遥か遠くの北の空に黒い点がぽつんと浮かんでいた。その点は徐々に大きくなり、やがてシルエットがはっきりしてくる。

 それは巨大な鳥だった。

 ドラゴンと見紛うばかりのその大きさに、周囲の妖魔が警戒の声を上げ始める。

 だが、キリアンは慌てることなく巨大な鳥がやってくるのを待ち構えた。無論、その正体に気付いたからである。


 巨大な鳥は頭上で二度、三度と翼をはためかせてから、キリアンから少し離れた場所に着地した。その際に起こった旋風で土埃が舞い上がる。

 土埃が晴れたときには鳥の姿はなく、代わりにひとりの男が立っていた。脇に人間と思しき少女を抱えている。

 それを見た妖魔どもが一斉に騒めきだす。空腹の限界に達している妖魔に人間の、それも若い女を見せればそうなるのも当然だった。

 だが、男は妖魔の存在を気に留める様子もなく、悠然とした足取りでキリアンの元へ近づいて来る。

 サリス・ダーが低い唸り声を上げて前に出ようとするのを、キリアンは錫杖を持った手で制した。それだけでサリス・ダーは大人しく元の位置に戻る。周囲の妖魔どもも、それを見て静かになった。


 その一連のやり取りを薄笑いを浮かべて見ていた男が静かに口を開いた。


「躾はできているようだな、キリアン」


 呼びかけられたキリアンはゆっくりと前に進み出ると、膝をつき、深々と頭を下げた。


「我が主よ……」


「首尾は?」


「すべて滞りなく……これもすべて主のお力があったればこそです」


 キリアンのその言葉に嘘はなかった。

 砦を攻める際、見張りに気付かれずに接近できたのも、男が音を遮断する領域魔法を展開していたからだった。それだけではない。月明かりを遮る為に雲を呼んだのも、砦の壁を破壊したのも、すべてこの男の魔法によるものだった。無論、従魔の錫杖も男から借り受けている物である。

 目の前の男は、その凡庸な見た目からは想像もつかぬほどの強大な魔力を持ち、数多の古代語魔法を操る魔術師だった。

 名をルーファスという。


「あと二日ほどで領主の軍がここにやってくるだろう」


 およそ感情というものを感じさせない平坦な声だった。


「はっ、予定通り半数以上の妖魔を周辺に散らせました。領主の軍はしばらくの間、この地を離れることはできないでしょう」


「その散らせた妖魔どもを熱心に狩っている輩がいるようだが?」


 ラハンの街から追ってきたと思しき少数の騎兵隊がこちらを追い抜いていったことはキリアンも把握していた。

 その騎兵隊は付近の村人たちを避難させつつ、方々に散らせた妖魔どもを各個撃破しているようだった。もっとも、そんな少数の部隊だけですべての妖魔の動きを把握し、対処することは不可能だろう。領主の軍が到着するタイミングでこちらに向かってくると考えれば、それまでは放っておいても問題ないと、キリアンは判断していた。


「所詮は寡兵。さしたる影響はないと思い放っております。目障りだとおっしゃるのでしたら片づけますが……」


「好きにしろ。領主が軍を動かした時点ですでに目的は達成されている」


「はっ」


「俺はこのまま拠点に戻る。街で思わぬ副産物が手に入った。おかげで予定よりも早く事が成就しそうだ」


 副産物とは抱えている少女のことだろう。この状況下で呑気に寝ていられるのは魔法で意識を失わされているからだ。

 キリアンは視線だけを動かして少女を見る。

 そして、その正体に気付いて目を見張った。

 人間と思われた少女はエルフだった。

 たしかにエルフであれば、計画の行程を大幅に短縮できる。滅多に口を開かない主が珍しく饒舌なのも頷ける話だった。


「……とはいえ、ここ数日で少々マナを使い過ぎた。しばし休息を取らねばならんだろう。次の戦いでは前の時のような魔法の援護は期待しないことだ」


「問題ございませぬ。御覧の通り、お貸しいただいた錫杖は正常に機能しております。妖魔どもは忠実な兵となり死に物狂いで戦ってくれることでしょう」


「その割には俺を見る妖魔どもの目には随分と殺気があるようだが?」


 ルーファスの言葉に、キリアンは眉をしかめる。

 従魔の錫杖の仕様を本来の持ち主であるルーファスが知らないはずがない。わかっていてこの魔術師は訊ねているのだ。


「……彼奴等は従魔の錫杖の魔力で強制的に命令に従わされているにすぎません。本心でこちらに従っているわけではございませぬゆえ……」


 そう言ってキリアンはより一層深く頭を下げた。


「――お前のようにか?」


 冷や水を浴びせられたかのようにキリアンの体がびくっと震える。


「どうした? なぜ先ほどから顔を上げないのだ?」


 問われたキリアンは黙ったまま地面を睨みつける。


「今の俺はほとんどマナが残っていない。今の俺ならばお前でも簡単に殺せるかもしれんぞ?」


 その言葉はキリアンにとって蜜よりも甘い誘惑だった。

 たしかに、広範囲にわたって自然に干渉する魔法は多大なマナを使う。ここ数日で主が行使した魔法の数を考えれば、見た目以上に疲弊しているのは間違いない。


 ――今なら殺れるかもしれない。


 そう思った途端、キリアンの心の中で目の前の男を殺したいという欲求が膨れ上がった。地面に付いた拳が小刻みに震える。

 だが、顔を上げるわけにはいかなかった。主の顔を見たら最後、その欲求を抑えきれる自信がないからだ。


「……主よ、次のご命令を」


 キリアンは意志の力を総動員してその誘惑を断ち切った。

 だが、そんなキリアンの見えない努力をあざ笑うかのように、ルーファスは口元を歪めて言い放った。



 その言葉には明らかに魔力が込められていた。

 逆らうことができず、キリアンはゆっくりと顔を上げる。

 視線がルーファスのそれとぶつかった。

 次の瞬間、キリアンの心が激しい憎悪に埋め尽くされた。目の前の男の喉を喰いちぎり、背骨をへし折ってやりたいという衝動が全身を突き破って噴出しそうになる。

 だが、その直後に『この男に絶対の忠誠を尽くしたい』という真逆の欲求が一気に広がり、殺意を上書きしていく。

 殺意と畏敬の念――相反するふたつの感情に翻弄され心がぐちゃぐちゃになる。

 自分の心が自分の物ではないようだった。


 気が付けば、キリアンは大きく肩で息をしていた。ほんの数秒の時間が何時間にも感じられた。暑くもないのに全身から汗が噴き出している。

 その様子をルーファスは酷薄な笑みを浮かべながら見下ろしていた。


「……我が主よ、ご命令を……」


 キリアンは血を吐くような思いでもう一度同じ言葉を繰り返した。

 その態度に興が冷めたのか、ルーファスのキリアンを見る目はぞっとするほど冷たかった。


「……先ほども言ったが、領主の軍が動いたことですでに目的は果たされている。この後の戦いの勝敗など、もはや俺にとってはどうでもいい」


「……」


「お前は己の望みを叶える為にせいぜい足掻くがいい」


 ルーファスはそう告げると再び巨大な鳥の姿となって西の空へと飛び去って行った。

 残されたキリアンはしばらくのあいだ動くことができなかった。

 時間の経過と共に心は落ち着きを取り戻しつつあったが、燻ったままの殺意が未だにじりじりと心を焼いていた。

 弄ばれた――その事実にキリアンは奥歯を強く噛みしめる。

 だが、いま抱いている怒りが本当に自分の感情なのかどうかさえ、もはやわからなくなっていた。




 かつてキリアンは誇り高き人狼族を率いる戦士だった。

 だが、突然現れたルーファスによって一族を皆殺しにされた。

 唯一生き残ったキリアンは己の死を覚悟したが、ルーファスは彼の命を奪うことはしなかった。

 その代わりにひとつの術を掛けた。

 それは『隷属の術』と呼ばれる古代語魔法――その名の通り、魔力によって相手を隷属させる、いわゆる使い魔を使役する為の魔法だった。

 この術の恐ろしいところは、相手の行動を縛りつけるのではなく、術者に忠誠心を抱くよう強制できることにあった。

 魔術師が使役する使い魔とは、魔力によって精神を支配された奴隷なのだ。その強制力は絶対であり、一度術を受け入れたが最後、何人も逆らうことはできない。


 キリアンはルーファスの魔法によって隷属を強いられている使い魔だった。


 無論、幾度となく術に抗おうとした。一族を殺害したルーファスへの憎悪は決して心から消えることはなかった。

 だが、その全てが失敗に終わり、その都度、心が引き裂かれそうになる苦痛に喘ぎ苦しんだ。

 ならば自ら死を選べばいい――そう考え、実行しようとさえした。

 しかし、使い魔に自死は許されない。

 死への欲求は主の為に生きたいという欲求に上書きされるからだ。

 主に逆らおうとすれば『命令に従いたい』という思いに突き動かされ、主に対して強い負の感情を抱けば、畏敬の念が勝手に湧き起こる。

 相反するふたつの感情に翻弄される感覚は、何度経験しようが一向に慣れることはなかった。


 そうしてキリアンの心は長い時間を掛けて壊れていった。

 ともに戦ってくれる仲間も、守るべき家族も、誰も残っていない。

 彼に残っているのは、戦士としての誇りと、人獣としての闘争本能だけだった。


 素晴らしい技量を持った戦士との死力を尽くした戦いの果てに死ぬ――それが使い魔となり果て、心身の自由を失ったキリアンの唯一の望みだった。


 キリアンは領主の軍がやってくるであろう北の空に向かって大きく吼えた。それはまるで狩るべき獲物を見つけた獣の咆哮だった。

 だが、その咆哮が空虚であると、他でもない彼自身が一番強く感じているのだった。

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