第197話 イリシッド
傭兵隊が広場に駆け付けると、集会所と思しき大きな家屋がおびただしい数の妖魔に包囲されていた。幸いまだ中に侵入されてはいないようだったが、数匹のオークが扉に棍棒を打ち付けており、家の中から必死に扉を押さえる村人たちの悲痛な叫び声が聞こえてくる。
「細かい命令はなしだ! 妖魔どもを皆殺しにしろッ!」
ダドリアスの号令で傭兵達が妖魔の群れに斬り込んで行く。集会所を取り囲んでいた妖魔の一部がその接近に気付いて奇声を発しながら襲い掛かってきた。
傭兵達は妖魔を次々と斬り倒し、集会所を目指す。
修介もその中に混じって剣を振るった。
無理やり抑え込んでいた怒りが、戦闘開始と同時に激しく燃え上がる。イニアーの言葉を思い出し、頭の中で「冷静に、冷静に」と呪文のように唱えながらも、剣を降る腕に必要以上に力がこもっていることを自覚する。
それでも、乱戦の中で孤立しないよう周囲の傭兵達と声を掛け合い、なんとか連携を取りながら戦うことができていた。
傭兵隊三十名に対し、集会所を囲う妖魔の数はその数倍に及んだ。だが、そのほとんどはゴブリンやオークなどの下位妖魔である。数の上では圧倒的に不利でも、歴戦の猛者である傭兵と下位妖魔とでは戦闘能力に大きな差があった。
特にゴルゾの戦闘力は他を圧倒していた。冒険者としての評判は芳しくなくとも、戦士としてはグラスター領内では間違いなくトップクラスの実力者である。鍛え抜かれた剛腕から繰り出される大剣の一撃は、妖魔の身体をまるで藁で出来た人形のように軽々と吹き飛ばしていく。
この戦場の中心は間違いなくゴルゾだった。
――だが、それ故に彼は狙われた。
「うぐおおおォッ!」
突然、ゴルゾが頭を抱えて呻き声を上げる。そして、いきなり近くにいた取り巻きのひとりに向かって剣を振り上げて襲い掛かった。
取り巻きの男はなんとかその一撃を防いだものの、勢いを殺しきれずに後ろへと吹き飛ばされた。
「ゴルゾさん、なにをっ!?」
もうひとりの取り巻きが倒れた男を抱え起こしながらゴルゾに向かって叫ぶ。
だが、ゴルゾは獣のような呻き声を漏らすだけで応えない。その目は白目を剥き、口からは涎が垂れており、あきらかに正気を失っていた。
その様子を見たダドリアスは「まさか!?」と口走り、血走った目で周囲にいる妖魔を見回した。
彼の予想は最悪な形で的中した。
集会所を囲う妖魔の中に、あきらかにゴブリンやオークとは異なる妖魔が一体紛れ込んでいたのだ。
「――気を付けろ、イリシッドだ! 魔法を使う妖魔が紛れているぞッ!」
傭兵達の間に緊張が走る。
魔法を操る妖魔は決して多くない。魔法を扱えるだけの高い知能と魔力を持った種そのものが少ないからである。
イリシッドはその数少ない種の代表格だった。
体格は人間の大人と大差ないが、粘液でぬめった緑がかった肌や、口の周りに生えた蛸足のような四本の触手、そして二つの突き出た大きな白い目は、まさしく異形の化け物と呼ぶに相応しい不気味さを醸し出していた。
イリシッドのことは修介も訓練場の座学で学んで知っていた。力はたいして強くないにもかかわらず、魔法を操るという一点のみで中位妖魔のなかで最も危険視されている種である。相手の精神に干渉する魔法に長け、抵抗に失敗した者は瞬く間に正気を失い、敵味方の区別なく死ぬまで暴れ続けると言われていた。
ゴルゾの様子を見るに、彼がイリシッドの魔法によって正気を失わされているのは疑う余地がなかった。
「あれってイリシッドを倒せば、正気に戻るんですか?!」
修介はダドリアスに向かって大声で問いかける。
「ああ、前に一度だけ戦ったことがあるが、その時はそれで解除できた」
「……わかりました」
修介は頷き、一歩前に出る。それを見てダドリアスが慌てて声を上げた。
「待て。近づけば君も奴の魔法の餌食になる。イリシッドの魔力は並の人間よりもはるかに強い。対抗魔法もなしに抵抗するのはまず不可能だ。それよりも先にゴルゾをなんとかしないとまずい!」
ゴルゾは人間も妖魔も区別なく、ただ近くにいる者を無差別に襲っており、傭兵達も迂闊に近づけずにいる。なまじ戦闘力が高いだけに、敵側に回るとこれほど厄介な存在はいなかった。
ダドリアスの言う通り、ゴルゾを先に無力化しないことには、部隊そのものが全滅しかねなかった。
容赦なく暴れまわるゴルゾの姿に、修介はかつてヴァレイラの腕を斬り飛ばそうと考えたエーベルトの気持ちが少しだけわかった気がした。
正直いい気味だと思っている自分もたしかに存在していた。
だが、いくら気に入らない奴だろうと、彼にも帰りを待っている家族がいる――それを知ってしまったからには、見捨てるという選択はありえなかった。
その時、正気を失ったゴルゾの視線が再び倒れている取り巻きの男に注がれた。
(まずいッ――!)
修介は咄嗟に走り出していた。そのまま取り巻きの男達に剣を振り降ろそうとするゴルゾに向かって、横から思い切り飛び蹴りを喰らわせる。屈強なゴルゾを倒すことこそできなかったが、わずかに剣の軌道が逸れたおかげで、惨劇を防ぐことができた。
「こいつらはてめぇの仲間だろうがッ!」
修介はゴルゾに向かって吼える。だが、ゴルゾは当然のようにそれを無視し、殺意をむき出しにして襲い掛かってくる。
強烈な斬撃を素早くバックステップで躱す。
まともにやり合って勝てる相手ではない。魔法で正気を失った者が凄まじいパワーを発揮することは、ヴァレイラの時に経験済みだった。
――そして、その対抗策も。
「まるで盛りの付いた猛獣だな。そんなてめぇに素敵なプレゼントだ!」
修介は懐から残りひとつとなっていた催涙袋を取り出すと、ゴルゾの顔面に向かって思いきり投げつけた。人間相手に催涙袋を使うのは気が進まなかったが、躊躇している余裕はなかった。
催涙袋は荒狂うゴルゾの顔面に命中した。
その効果は
粉末が顔に掛かったゴルゾは大剣を取り落とし、悲鳴をあげてその場に膝をつく。
修介はその横面に容赦なく蹴りを入れて倒すと、呆然と座り込んでいる取り巻きの男達に向かって叫んだ。
「死ぬ気でこいつを押さえろ!」
取り巻きの男達は鞭で打たれたかのようにゴルゾに飛び掛かった。
「あ、あんたはどうするつもりだ!?」
暴れるゴルゾを必死に押さえつけながら、取り巻きのひとりが修介に問いかける。
「あいつをやるに決まってんだろうがッ!」
修介は答えると同時に地面を蹴った。
「――待てッ、シュウスケ!」
ダドリアスの制止の声が聞こえたが、修介はそれを無視する。
以前サラに聞いた話では、妖魔の扱う魔法は人間の魔法とはまったく系統が異なるが、マナを使い、魔力を操るという点は共通しているのだという。
つまり、妖魔の魔法であっても、対象のマナに干渉する状態異常系の魔法は自分には効かない可能性が高い――というのが修介の出した結論だった。魔獣ヴァルラダンの咆哮が効かなかったという実績も、それを後押ししていた。
危険な賭けではあったが迷っている時間はなかった。このまま自分が何もしなければ他の者が魔法の餌食になるだけなのだ。
「うおおおおおォォッ!」
雄叫びを上げてイリシッドに向かって突進する。
だが、そうはさせじとばかりに二体のゴブリンが進路上に躍り込んできた。
「邪魔だッ!」
修介は足を止めずに二体のゴブリンの腕と足をそれぞれ斬り飛ばし、強引に間をすり抜ける。
だが、すり抜けた先にオークが待ち構えていた。
剣は間に合わない――咄嗟にそう判断し、そのままの勢いでオークに体当たりする。
迷いがなかった分、修介の勢いが勝った。
仰向けに倒れたオークに素早く刃を突き下ろして止めを刺す。そして再び走り出そうとしたところで、修介は周囲の空気が一変していることに気付いた。
「これは……」
いつのまにか周囲に黒い霧のようなモヤが発生していた。これがイリシッドの魔法であることは確認するまでもなかった。
黒い霧はまるで意思を持った生き物のように修介へと襲い掛かった。
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