第194話 乱闘

 グラスターの街を発った即応部隊は、妖魔と遭遇することなく初日の夜を迎え、街道から少し外れた平原で夜営を行った。

 傭兵達は騎士団から微妙に離れた場所で各々が自由に身体を休めていた。互いの心の距離がそのまま物理的な距離となって表れた結果である。

 野営地は実戦を前にピリピリしているのかと思いきや、周囲の傭兵達は酒を片手に談笑しており、少し離れた騎士団の方からも時おり笑い声が聞こえてくる。それが普通なのか、それとも即応部隊が特別なのか、初参加の修介には判断がつかなかった。

 修介自身は初めてとなる大きな戦いを前に緊張していたが、精神面では他者に後れを取るまいと杯を片手に野営地を歩き回り、傭兵達に積極的に声を掛けた。

 話しかけられた者は最初こそきょとんとしたが、修介が名乗ると「ああ!」と納得したような声を上げ、笑顔で握手を求めてきた。

 そうして軽く談笑をし、互いの健闘を誓いあう。

 グラスターの冒険者や傭兵で修介の名を知らない者はまずいない。

 傭兵はゲン担ぎをする者が多く、英雄の存在は大抵歓迎される。

 修介はそのことを理解した上で、あちこちに顔を出して愛想よく酒を注いで回った。なんといっても、彼らは戦場では心強い味方になるのだ。

 もっとも、全ての者が修介のことを好意的に受け止めているわけではない。名声を得ている修介を疎ましく思う者も中には当然いた。


「あの臆病者がたいした出世だな」


 その声はあきらかに友好的とは程遠いものだった。

 修介は声の主に心当たりがあった。それもあまり思い出したくない部類の、だ。

 名前を呼ばれなかったのを良いことに修介は無視を決め込んだ。


「おいコラァ、ゴルゾさんが声を掛けてんだ、無視すんな!」


 肩を掴まれ強引に振り向かされる。視線の先には三人の男が立っていた。真ん中の巨漢の男が肉食獣を思わせる獰猛な笑みを浮かべている。

 冒険者ゴルゾと、その取り巻き達だった。

 修介の脳裏にかつて酒場で絡まれた苦い思い出がよみがえる。あれ以来、彼らとは顔を合わせないように注意してきたが、同じ依頼を受けてしまったとあってはこうなるのは避けられぬ運命だったのかもしれない。


「……別に無視したつもりはない。用があるならちゃんと名前を呼んでくれなきゃわからないだろう」


 修介は何の気負いもなくそう言い返した。

 かつてはゴルゾの圧倒的な暴力の前に恐怖したが、グイ・レンダーやマンティコアといった化け物との戦いを経験した今となっては、ただ強いだけの人間に絡まれた程度で心が波立つはずもなかった。


「随分と上等な口を利くようになったじゃねぇか。やっぱり英雄様ともなると、俺らのようなただの冒険者風情は眼中にないってか?」


 怯んだ様子を見せない修介に、ゴルゾはより剣呑な視線を向ける。


「気に障ったのなら謝るよ。用がないならもう行くぞ?」


 そう言って修介は立ち去ろうとしたが、すぐに肩を掴まれ止められる。


「まぁ待てって。これから一緒に妖魔どもと戦う仲じゃねぇか。本番を前に互いに親睦を深め合っておくのは大事なことだ。そうだよなぁ?」


 ゴルゾの言葉に取り巻きたちが「そうだそうだ」と声を上げる。

 修介は小さくため息を吐いた。

 彼の言う「親睦」とやらが仲良く酒を飲むことではないのは明白だった。

 正直、関わりたくなかったが、そう簡単に引き下がらないであろうことは肩に食い込む指から嫌でも伝わってくる。

 因縁と呼ぶほどのものではないが、修介は魔獣ヴァルラダンとの戦いで気絶したゴルゾの代わりに魔獣に槍を突き刺して英雄となった。本来であればその役割を担うはずだったゴルゾにとって、面目丸つぶれな出来事だったのは間違いないだろう。無論、気絶した本人が悪いのだから、文句を言われる筋合いはない。


「……あんたが俺を気に食わないってのはわかってる。はっきり言って、俺もあんたが嫌いだ。でもだからってここで揉めても誰の得にもならないだろ?」


「得にはなるさ」


「なんだよ?」


「俺がスッキリする」


 ゴルゾはそう言ってにやりと笑った。

 この糞野郎、と修介は思ったが、顔には出さずに努めて平静を装う。

 妖魔との戦いを前に人間同士で諍いを起こして何の意味があるのか。そう問い詰めたいところだったが、彼らのような人種にとっては、それとこれとは問題が別なのだろう。とにかく目の前の出来事に感情が向けられる。刹那的に生きている冒険者や傭兵にありがちな傾向だった。


「付き合ってられるか」


 修介は掴まれている手を強引に振りほどいて立ち去ろうとする。


「そういやてめぇ、最近ヴァレイラのやつと組んでるらしいな?」


 ゴルゾの口から唐突に相棒の名前が出たことで、修介は思わず足を止めた。


「……だったら何だって言うんだよ?」


「いやなに、あの女と組んでよく今まで生きていられたなと感心しているのさ」


「どういうことだ?」


「おいおい、まさか知らねぇでコンビ組んでるのか?」


 嘲るように言うゴルゾに、修介は目で続けるよう促す。


「……本当に知らないみてぇだな。いいか、あの女はな、今までに組んだ相棒をふたりも死なせてるんだよ。しかも、そのうちのひとりとは深い仲で、その野郎はあの女を庇って死んだって話だ。とんだ疫病神って奴さ。俺はてっきりてめぇがそのことを知ったから、ひとりで即応部隊に参加したんだとばかり思ってたんだがな」


「……」


「おいおい、そんな怖い顔すんなよ。こう見えても俺は心配してるんだぜ? てめぇもいつかあの女に盾代わりにされるんじゃないかってな」


 言葉とは裏腹にゴルゾの顔は歪んだ悪意を隠しきれていなかった。


「まったく、あんな色気のねぇ野蛮女のどこがいいのか知らねぇが、世の中にはとんだ物好きもいたもんだぜ」


「ひょっとしたらあっちの具合がよほど良いのかもしれねぇですぜ?」


 ゴルゾの言葉を受けて取り巻きのひとりが下卑た笑みを浮かべて言った。すると、もうひとりの取り巻きの男も声を上げて笑う。


「なるほどな、てめぇもそっちで虜にされたクチってわけ――ブフッ!?」


 言い終わる前に修介はその男の顔面を殴りつけていた。

 男は鼻血を吹き出しながら尻もちをつく。

 それを見たゴルゾが好戦的な笑みを浮かべた。


「へっ、ようやくその気になりやがったか、この軟弱野郎!」


「黙れ。てめぇらにヴァルの何がわかる。俺の相棒を侮辱すんな」


 修介は自分でも驚くほど冷ややかにゴルゾ達を睨んでいた。

 気が付けば、騒ぎを嗅ぎ付けた傭兵達が周囲に人垣を作っていた。「やれやれー」と無責任にはやし立てる者もいれば、賭けを行っている者もいる。その中にはイニアーとデーヴァンの姿もあったが、止める気はなさそうだった。

 もっとも、止められたところで修介にやめるつもりは毛頭なかった。頭の中は、目の前の糞どもを殴り飛ばすことで埋め尽くされていた。


 ゴルゾが雄叫びを上げて突進してくる。

 修介はそれを見ても慌てることはなかった。怒りで昂っていても、目は正確にゴルゾの動きを捉えていた。体が当たる直前、相手の頭が下がった瞬間に素早く横に跳んで、躱しざまに膝に蹴りを入れる。

 ゴルゾはバランスを崩して勢いよく地面に突っ伏した。

 野次馬達から無様に転がったゴルゾに対して容赦ない罵声が飛ぶ。


「このガキがぁッ!」


 ゴルゾはすぐさま起き上がり、憤怒の表情で再び突進してくる。

 修介は同じ要領で躱そうとしたが、今度はゴルゾの方が上手だった。避けようとした修介の腕を掴み、巻き込むように地面に押し倒した。そしてそのままマウントを取ろうと圧し掛かる。

 体格差を考えれば、マウントを取られた時点で勝ち目がなくなる。修介は倒れながらも無理やりゴルゾの肩を強く蹴った。そして地面を転がって素早くその場を離れる。

 だが、先に体勢を整えたのはゴルゾだった。

 強烈な突進を躱すことができず、修介は後方に吹き飛ばされた。


 傭兵同士の喧嘩は、どちらかが降参するか、気絶するまで続けるのが通例である。そして野次馬達は大抵どちらかに賭けている為、決着がつくまで逃がさないように人垣を作り、吹き飛ばされた者を中央に押し返す役割を担う。

 だが、修介が吹き飛ばされた先にいたのは、ゴルゾの取り巻きのひとりだった。

 本来であれば押し返されるところを、修介は取り巻きの男に羽交い絞めにされた。動けない修介の腹にゴルゾの蹴りが容赦なく突き刺さる。


「ぐふっ!」


 衝撃でつんのめりそうになるところを、強引に引き起こされる。

 周囲の野次馬から「卑怯だぞ!」という罵声が飛ぶが、ゴルゾは気にする素振りもなく何度も蹴りを繰り出した。

 修介は拘束を解こうと懸命にもがくが、がっちりと肩を抑えられているせいで身動きが取れない。


「――このっ!」


 修介が渾身の力で振りほどこうとした瞬間――ふいに拘束していた男から「いだだだだっ!」という悲鳴が上がった。

 振り返ると、デーヴァンが羽交い絞めにしている男の頭を片手で掴んでいた。その向こうでは、イニアーが「あちゃー」という顔で天を仰いでいる。


「ずるは、だめだ」


 デーヴァンはそう言うと、空いているもう一方の手で男のベルトをつかみ、力任せに放り投げた。男は悲鳴をあげながら宙を舞い、幸か不幸か他の野次馬に激突した。


「てめぇなにしやがるッ!」


 もうひとりの取り巻きの男が気色ばんでデーヴァンに殴り掛かる。

 その拳は見事に顔面を捉えたが、デーヴァンは痛がるそぶりすら見せず、逆に男の手首を掴んで捩じり上げた。男は懸命に身を捩って逃げようとするが、デーヴァンは根を下ろした大木のようにぴくりとも動かない。


(サンキュー、デーヴァン!)


 修介は心の中で礼を言うと、デーヴァンに気を取られているゴルゾの顔面に思い切り拳を叩きつけた。


「よそ見してんじゃねぇ! てめぇの相手は俺だろうが!」


「てめぇ、ぶっ殺してやる!」


 憤怒の表情で向かってくるゴルゾを、修介は逃げずに正面から迎え撃った。

 周囲ではデーヴァンの乱入がきっかけで野次馬同士の殴り合いにまで発展していた。元々血の気の多い連中の集まりなのだから、そうなるのは必然と言えた。

 だが、修介もゴルゾもそんな周囲の状況などおかまいなしで殴り合う。

 修介はゴルゾの拳を腕でブロックし、すかさず足を狙って蹴りを放つが、ゴルゾは素早く後ろに跳び退ってそれを躱した。

 互いの間にわずかな距離が生まれる。

 修介は口の端から滴り落ちる血を、袖で乱暴に拭う。ゴルゾも同様に口から血を流していたが、まだまだ余裕がありそうだった。


(さすがに勝てないか……)


 ゴルゾとの体格差は歴然であり、まともな殴り合いで勝てる相手ではなかった。

 それでも修介は引くつもりはなかった。自分でも驚くほど意地になっていた。

 自分がなぜこの場にいるのかも忘れ、目の前の男を倒すことにだけ集中する。

 これ以上は身体が持たない。

 次で決めるという覚悟で拳を強く握りしめ、腰を落とした。


 だが、そんな修介の覚悟は次に放たれた一言で無駄になった。


「――そこまでにしとけや」


 たいして大きくないのに、やたらとよく通る声だった。

 現れたのは即応部隊の部隊長であるトレヴァーだった。その後ろにはダドリアスの姿もある。


「貴様ら騒ぎ過ぎだ。血の気の多い奴は嫌いじゃないが、時と相手は選べ」


 さすがは歴戦の騎士長と言うべきか、一瞬で場が静まった。乱闘騒ぎに興じていた傭兵達は互いの襟首を掴んだまま固まっている。


「で、主犯は誰だ?」


 トレヴァーは鋭い目つきで傭兵達を見回す。それを受けて何人かの傭兵が修介とゴルゾの方へ視線を向けた。

 修介は小さくため息を吐いてから黙って手を上げた。

 絡んできたのはゴルゾだが、先に手を出したのは間違いなく自分である。心情的には被害者だったが、ここで子供みたいに「だってゴルゾが絡んできたから」なんてみっともない言い訳をする気にはなれなかった。


「よし、貴様は俺と来い。それ以外の奴らは解散だ。言っておくが次はないからな」


 トレヴァーはそれだけ告げて、踵を返した。

 仕方なく修介はその後ろに付いて行くのだった。

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