第187話 前例
「それにしても……」
修介はあらためて周囲を見渡して、その異様な景色に息を飲んだ。
精霊の森と呼ばれているくらいだから、てっきり色とりどりの花が咲き乱れ、妖精が飛び回っているような美しい光景を想像していたのだが、実際は空を覆うように伸びた木々の枝が陽の光を遮っているせいで薄暗く、不気味な雰囲気が漂う森だった。
だが、それ以上に修介には気になっていることがあった。
少しでも気を抜くと視界がぼやけ、景色がセピア色の写真を見ているかのように色褪せていくのだ。まるで虚構と現実が入り混じった世界に迷い込んでしまったかのような、不思議な感覚だった。
「想像していた景色と違ってましたか?」
心の内を見透かしたかのように問いかけてくるアイナリンドに、修介は戸惑いながらも「ああ」と頷き返した。
「ここは精霊の力が強く働いていますから、人間の目には少し景色が歪んで見えるかもしれません」
「たしかにずっと見てると頭がクラクラしそうだ」
「なるべく遠くではなく近くにある物を見るようにすると多少は和らぐらしいですよ」
修介はその助言に従い景色を見るのを止め、アイナリンドの顔を見ることにした。彼女は周囲の歪んだ景色を気にした様子もなく平然としている。
「アイナは平気なの?」
「この森に住むエルフ族にとっては当たり前の景色ですから。さっきのは父の受け売りなんです」
その言葉で修介はアイナリンドがジュンの娘であることを思い出した。
「そういや、アイナのお父さんは人間だったっけ」
「はい。父はこの森に迷い込んだところで母と出会ったらしいです。なんだか今の私たちに似てますね」
アイナリンドはそう言って微笑んだ。
その発言に他意がないことは彼女の屈託のない笑顔を見ればわかる。そのことを残念に思わないと言えば嘘になるが、逆に彼女からそういう感情を向けられるのも何か違うな、と修介はひとりで勝手に納得した。
「でも、この森の景観だとあまりロマンチックって感じはしないなぁ」
「母に聞いた話では、最初母は侵入者として父を拘束しようとしたらしいです」
「そりゃまぁそうするだろうな」
「ただ、ご存知の通り父はシュウスケさんと同じで精霊魔法がほとんど効きませんので、母は拘束に失敗したそうです」
「それもまぁそうなるわな」
ジュンも転移者であるなら修介と同様にマナのない体質のはずである。
「そうしたら父は、その……」唐突にアイナリンドの頬がかすかに紅く染まる。「敵意がないことを示すつもりで、いきなり下着姿になって地面に身を投げ出したとかで……」
「それはまた大胆というか馬鹿というか……」
「父に害意がないことは精霊を通じて母も気付いていたので、母はしばらくのあいだ里に隠れて父を森の郊外に匿い、生活の面倒も見てあげたんだそうです。ただ、最初のうちは言葉が通じなくて大変だったとか」
「え、マジで?」
予想外のアイナリンドの言葉に修介は驚く。
言葉が通じなかったということは、ジュンは修介と違って言語ツールをインストールせずにこの世界に来たということだった。
そこまで気が回らなかったのか、それともチャレンジ精神が旺盛だったのかは当人に訊かねばわからないが、自力でこの世界の言語をマスターしたのだとしたら、最初から努力を放棄した修介よりも有能なのは間違いなかった。
「今シュウスケさんが言ったマジデって言葉、父もよく口にしてました。なんでも父の生まれ育った国の言葉だとか……もしかしてシュウスケさんは父と同じ国の出身なんですか?」
「ど、どうだろうね? ジュン――お父さんはどこの国の出身だって言ってたの?」
「とっても遠い国だとしか教えてくれませんでした。いつか私が大人になったら教えてあげるって……」
ジュンもさすがに異世界から来たとは言わなかったようである。
あまり記憶喪失の設定を持ち出したくない修介は強引に話題を変えることにした。
「と、ところで、アイナのお母さんはよく見ず知らずの人間の面倒を見てあげようって思ったよね?」
「なんでもその時の父の姿が群れからはぐれてしまった子犬みたいで、あまりに可哀そうだったから放っておけなかったって」
「まさかのペット感覚……」
修介はジュンのことを哀れに思ったが、自分がシンシアやランドルフと初めて出会った時に犬猫扱いされたことを思い出して大して変わりがないことに気付く。
アイナリンドの母が下着姿で五体投地する奴のどこに惹かれたのかは謎だが、少なくとも言葉が通じない異世界に放り込まれたジュンが世話を焼いてくれたエルフの娘に心を許すのは自然な流れだろう。
ジュンはこの森でエルフの娘と出会ったことで、この世界で生きていく為の基礎を身に付け、生活の基盤を築いたのだ。
そこまで考えたところで修介は気が付いた。
「……そうか、そういうことだったのか」
それは修介がずっと抱えていた、この世界に最初に降り立った場所がなぜ精霊の森の前だったのか、という謎が解けた瞬間だった。
ジュンという前例があったからなのだ。
彼がこの精霊の森で生活の基盤を築いたという成功例があったからこそ、修介の時も同じように精霊の森がスタート地点に選ばれたのだ。
もっとも、修介は精霊の森の荘厳な雰囲気に圧倒されて逃げ出してしまったのだから、自称神の老人の心遣いも完全に無駄になったと言えるだろう。確認はしてないが、アレサも起動したら当初想定していた場所と全然違う場所に修介がいたのだからさぞ驚いたに違いない。
もし、いの一番にアレサを起動していたら、最初に出会っていたのはシンシアではなくアイナリンドだったかもしれない――そう考えると、人の運命とはちょっとしたことで大きくに変わるものなのだな、と感慨を抱かざるを得なかった。
「――っと、ついつい話し込んじゃったけど、もしかして俺がこの森の中にいるってのは、あまりよろしくない状況なんじゃない?」
修介の問いにアイナリンドは申し訳なさそうに頷いた。
「そう、ですね……長老に知られたら少々面倒なことになると思います」
あんな物騒な結界が貼られていることからも、エルフにとって人間が招かれざる客なのは明白である。ジュンの存在はあくまで特例であって、ここに長居して良いことなど何もないだろう。
「せっかく久々に会えたからもっとゆっくり話していたかったけど、アイナに迷惑が掛からないうちにさっさと出て行くことにするよ。悪いんだけどどっちに進めばいいかだけ教えてくれるか?」
修介の言葉にアイナリンドは少し考え込むような素振りをした。
そして何かを決意したのか、一度大きく頷いてから口を開く。
「シュウスケさん、あの時の約束を覚えていますか?」
「約束?」
修介は首を傾げながら記憶を掘り起こす。そしてすぐにその約束の内容を思い出して、目を見開いた。
「……まさかとは思うが、一緒に付いて来る気じゃないだろうな?」
その問いにアイナリンドは満面の笑みで頷いた。
「ちょうど良い機会ですので、私は私の冒険の旅に出ることにします。ここに戻ってきたのも元々その準備をする為でしたし」
「た、旅って言っても、俺はグラスターの街を拠点に活動している冒険者であって、いつも旅してるわけじゃないぞ?」
「シュウスケさんの邪魔はしません。私の旅は、まず父やシュウスケさんと同じ冒険者になるところから始めようと思っているだけですから」
「グラスターの街で冒険者になるつもりなのか?」
「はい」
はっきりと頷くアイナリンドに、修介は何も言えずに黙り込んだ。
ハーフエルフである彼女が冒険者になれるのか。それ以前に街に入れるのか。わからないことだらけだった。
「勝手に森を出て行くのはまずいんじゃないの?」
「大丈夫です。長老にはもう許しをもらっています。それに、もともと私たち姉弟にはこの森に居場所はないですから……」
寂しそうに言うアイナリンドに、修介は自分が地雷を踏んだことに気付く。
アイナリンドの父親――ジュンが行方不明なのは修介も知っていたが、彼女の口ぶりから察するに、おそらく母親もこの森にはいないのだろう。そしてハーフエルフの存在は、人間社会だけでなくエルフの里にとっても異端扱いなのだ。
そんな環境下で、ひとり家族の帰りを待ち続けることがどれだけ苦痛なのか、修介には想像もつかなかった。
「ごめん……」
声を落とす修介に、アイナリンドは慌てて取り繕うように手を振った。
「そ、そんな深刻にならないでください。たしかにこの森には嫌な思い出もありますけど、私とイシルにとっては家族と過ごした思い出が詰まった大切な場所ですから、やっぱり嫌いにはなれません。一度この森から離れてみて、それがわかりました。きっとイシルも同じように考えていると思います」
彼女にとって、弟と離ればなれになったことも、旅をすることで故郷の森と距離を置いたことも、そのことに気付けたという点では大きな意味があったのだろう。そして、そこからさらに世界を広げることは、彼女の未来にたくさんの選択肢を与えるに違いない、そう修介は思った。
「……わかった。とりあえずグラスターの街までは一緒に行こう。その先のことは……街に着いてから考えるか」
「はい! すぐに準備をしてきますから、ここで待っていてください!」
言うと同時にアイナリンドは風を纏って木の枝に飛び乗り、あっという間に森の奥へと姿を消した。こちらの気が変わる前に、とでも言わんばかりの素早さである。
修介はアイナリンドが消えた木を見つめながら、小さくため息を吐いた。
「……とりあえずはみんなと合流しなきゃな」
アイナリンドのこれからのことも大事だが、今はそれ以上にナーシェスたちが無事なのかどうか早く確認したかった。
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