第186話 精霊の森
精霊の森に入った瞬間、周囲の空気が一変したように修介は感じた。
重く纏わりつくような空気に不快感を覚えるが、それを気にしている余裕はなかった。背後からトロルが追ってきているのが気配でわかる。
『そのまま奥へ進んでください』
修介はアレサの言葉に従い茂みをかき分けながら森の奥へと突き進む。
これまで人の侵入を拒んできたであろう精霊の森は、なんの当てもなく歩き続けるにはあまりにも過酷な環境だった。大きく隆起を繰り返す足場に、地面を這う大蛇のような木々の根っこが、ただでさえ搾りカス程度しか残っていなかった修介の体力を容赦なく奪っていく。
だが、無我夢中で進んでいるうちに、いつのまにか追って来ていたはずのトロルの気配は消えてなくなっていた。
修介は足を止め、両手を膝について必死に呼吸を整える。
周囲は不気味なほどの静けさに包まれていた。
森の木々は異様に大きく、その幹は何人もの大人が手を繋いでも囲うことが出来なさそうなほどに太い。自分がまるで巨人の国に迷い混んでしまったかのような気分にさせられた。
修介は急に不安になってアレサに声を掛ける。
「お、おいアレサ、本当に大丈夫なんだろうな?」
だが、アレサは何も答えない。
「……アレサ?」
修介の問いに応じたのはアレサではなく、何かが飛来する風切り音だった。
トスッ、と足元の地面に矢が突き刺さる。
「マジかっ!」
修介は慌ててアレサを抜き放ち、近くの巨木の陰に逃げようとするが、その行く手を遮るように再び矢が地面に突き刺さった。
「――動かないでください」
凛とした声が響き渡る。言葉遣いは丁寧だが、有無を言わせぬ強い口調だった。
修介はアレサを構えたまま声のした方向に向き直る。
少し離れた巨木の枝の上に人影が見えた。
遠すぎてはっきりとはわからなかったが、背格好からして少女のようだった。手にしている弓はしっかりとこちらに狙いがつけられていた。
「――武器を捨ててください」
「そいつは断る。大事な相棒なんだ」
修介は間髪容れず要求を跳ね付けた。
返答の代わりに矢が飛んできて再び足元に突き刺さる。それでも修介は身じろぎひとつしなかった。相手に殺意がないことはわかっていたし、何よりも少女の正体に気付いていたからだった。
「最後の警告です。武器を捨ててください。次は当てます」
「そんなおっかないこと言ってないで下りて来いよ、アイナ!」
今度は矢ではなく沈黙が返って来た。
アイナと呼ばれた少女は弓を構えたまま固まっていた。
「……もしかして、シュウスケさんですか?」
先ほどまでの厳しい口調から一転、探るような声色の少女に修介は大きく頷き返した。
「ちょっと会わないうちに俺の顔を忘れちゃったのか? 薄情だなぁ。俺は声を聞いて一発で気付いたぞ?」
「――シュウスケさんっ!」
少女は叫ぶと同時に躊躇なく木の枝から飛び降りる。
修介はびっくりして駆け寄ろうとしたが、彼女の体は着地する寸前にふわっと浮いて、ゆっくりと大地に降り立った。
そして跳ねるように修介の前へとやってくる。
「久しぶりだな、アイナ……といっても数カ月ぶりくらいだから、エルフだとそんなでもないのかな?」
「その辺りの感覚は人間とそんなに変わらないですよ。お久しぶりです、シュウスケさん」
少女はそう言って首を傾げながら愛くるしい笑顔を浮かべた。
彼女はアイナリンドという名のハーフエルフで、かつて修介のパーティと共に上位妖魔グイ・レンダーと戦った仲間だった。
弟を探して旅を続けていたはずの彼女がなぜ精霊の森にいるのか修介は疑問に思ったが、すぐにトロルの存在を思い出して後ろを振り返る。
「――っとそれどころじゃないっ! 複数のトロルが俺を追いかけて森に入って来てるんだ。すぐにここから離れないと!」
慌ててその場から離れようとする修介に対し、アイナリンドは特に取り乱すこともなく平然と佇んだままだった。
「……アイナ?」
「数匹の妖魔が森に侵入してきたことは把握してます。ですが、妖魔がここまでくることはありませんから安心してください」
「そ、そうなの? たしかに途中からトロルの気配が消えていたけど……」
「この森は精霊たちによって守られているので、里の者以外はここまで入っては来られません」
「でも俺は普通に入ってきちゃってるけど?」
「それはその……シュウスケさんは特別ですから」
「あー、なるほどね……」
修介は一瞬で合点がいった。
マナのない修介は精霊から人間として認識されない。当然、侵入者として扱われることもないので妨害などあろうはずもない。アレサはそのことがわかっていたから精霊の森に入ることを提案してきたのだ。
それならそれでひとこと言ってくれても良さそうなものだが、おそらく単独で無謀な行動を取ったことに対してアレサなりに怒っているのだろうと修介は推測した。
「……ちなみになんだけど、俺を追ってきたトロルはどうなるの?」
「強力な幻覚によって森の中を延々と彷徨うことになります。森の精霊に生命力を少しずつ吸い取られていくので、やがて力尽きるでしょう」
恐ろしいことをさらりと言われ、修介の目が点になった。
「入ったら無事に出てこられないっていう噂は嘘じゃなかったんだな……」
修介のその反応を見てアイナリンドは慌てて手を振った。
「そんなことはありませんよ。人間が誤って入ってしまった場合は手遅れになる前に可能な限り外へ逃がすようにはしていますから」
「可能な限り、ね……」
「その……里には人間を嫌っている者が多いんです。それに明確な悪意を持って森に侵入してくる人間も少なくありませんから……。でも、人間の側からしてみればたしかに良い気分はしませんよね。精霊の力を借りて記憶を消したりもしてますし……」
「ああいや、別にアイナを責めてるわけじゃないんだ。そもそも俺が勝手に森に入ったことに違いはないわけだし」
修介はあらためて勝手に森に入ったことを謝罪した。
精霊の森への侵入は領主によって禁じられているだけで、アイナリンドに頭を下げる必要はないのかもしれないが、先ほどの彼女の様子からエルフ側からも歓迎されないであろうことは想像に難くなかった。
アイナリンドは「シュウスケさんがご無事でよかったです」と言っただけで、修介の責任を追及するような真似はしなかった。
「――それにしてもアイナはよく俺が森に入ったことに気付けたね?」
修介は重くなってしまった空気を変える為、努めて明るい口調で尋ねた。それに釣られるようにアイナリンドの表情にも明るさが戻った。
「精霊たちの様子がおかしかったから様子を見に来たんです。まさかシュウスケさんがいるだなんて夢にも思っていませんでしたけど」
「俺もだよ……っていうか、そもそもなんでアイナが精霊の森にいるんだ? 弟さんを探してキルクアムの街に向かったはずだろ?」
「残念ながらキルクアムの街では弟に会うことはできませんでした。私が到着する少し前までは滞在していたらしいんですが、ほんのちょっとの差で入れ違いになってしまったみたいで……。でも、無事だということは確認できたので、私は一度ひとりで故郷の森に戻ることにしたんです」
「故郷の森って……アイナの故郷って精霊の森だったのか……」
その可能性について修介はまったくと言っていいほど考えていなかった。
アイナリンドの口ぶりからずっと遠くの地にある森なのだとばかり思っていたのだ。蓋を開けてみればグラスターの街からさほど離れていない精霊の森だったというのだから、とんだ笑い話である。
そうと知っていれば別れ際にあそこまで情けない姿を見せなかったのに、と過去の自分を思い返して修介は身悶えするのだった。
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