第182話 始まりの地

 修介は眼前に広がる雄大な森を前に呆然と佇んでいた。

 精霊の森……そう呼ばれるこの巨大な森は、修介がこの世界で最初に降り立った場所であり、全ての出発点だった。


(あれからもう一年も経つのか……)


 荘厳な雰囲気を纏った巨大な森の姿は一年前と何も変わっていない。

 変わったとすれば自分の方だろう。

 たしかに一年前とは比べ物にならないほど強くなったという自負はあった。四十三歳という年齢の割に未成熟だった精神も、様々な経験を通して多少は鍛えられたような気もする。

 ただ、人間の本質はそう簡単には変わらない。単にこの世界での生き方に慣れただけで、人間的に成長したかと問われると正直あまり自信がなかった。

 それでも、平凡なサラリーマンだった自分が冒険者として生きて再びこの地を訪れたことに、修介は何とも言えない感慨を抱いていた。


「おーい、そんなとこでぼやっとしてないでさっさと始めてくれよ。のんびりしていると日が暮れる前に街に戻れないぞ」


 背後から呼ばれて振り返ると、ナーシェスが自身の足元を指し示していた。


「わかってるよ」


 修介はもう一度だけ精霊の森に視線を向けてから、ナーシェスの元へ歩み寄った。


「さぁ、薬草ハンターと呼ばれた君の力を存分に発揮してくれ」


 ナーシェスが期待に満ちた声で言った。クナルとトッドも修介の一挙手一投足を見逃すまいと固唾を飲んで見守っている。


「そんなに注目されてもな……特に変わったことはしないぞ? 地道に探して地道に毟る。大事なのは集中力と根気。それが薬草採集の極意だ」


「意外と普通なんだね……」


 拍子抜けしたように言うナーシェスに修介は苦笑する。


「そんなもんだよ。そもそも俺が得意なのはアプスラの花の採集だけだ。他のに関しては専門外だから、あまり期待しないでくれ」


「またまたそんな謙遜しなくても」


「いや本当なんだけどな」


 修介が薬草ハンターという称号を自ら名乗ったことは一度もなかったが、ナーシェスがその評判を聞きつけて依頼したとなると、やってることは詐欺に近い。

 依頼を受ける前に申告しておくべきだったと今更ながらに修介は思ったが、アレサのセンサー云々を説明するわけにもいかないので、結局真面目に作業するしかないという結論に至った。


 そういうわけで、修介はかなり集中してカランデュラの採集に励んだ。

 期待に応えたいというよりは、失望されたくないという思いが強かったからだが、人間は案外そういうネガティブな思考に支配されている時の方が成果を上げられたりするものである。

 おまけに、どういう風の吹き回しか、途中からアレサがカランデュラの咲いている場所をさり気なく振動を使って教えてくれたこともあって、修介はナーシェスの期待を裏切らないで済むだけの量を採集することに成功したのだった。


「うんうん、これだけあれば十分な量のポーションを作ることができるよ」


 ナーシェスは集められた薬草を見て満足そうに何度も頷いた。


「ふー、頑張った甲斐があったなぁ」


 クナルがやりきったという表情で額の汗を拭う仕草をする。


「クナルはほとんどサボってたじゃないか」


「そ、そんなことないって」


 トッドの突っ込みにクナルは気まずそうに目を逸らした。

 実際、真面目なトッドは一生懸命に作業していたが、クナルは途中からトッドにちょっかいをかけたり、周辺の警戒をすると言ってはその辺りをうろついたりとサボってばかりいた。

 ちなみにナーシェスは雇い主であるにも関わらず、修介たちと一緒になって採集作業を行っていた。

 訝しむ修介に向かって、「だって、その方がたくさん集められるじゃないか」と当たり前のような顔で答えたものである。


 修介はずっと屈んでいたせいで固くなっていた腰を伸ばそうと、ぐうっと力を入れて思い切り背伸びをした。

 仰ぎ見る太陽はすでに青空高くにまで昇っていた。

 今から出発すれば、なんとか夕方までには街に戻れるだろう。


 ――そう考えた時だった。


 遠くの視界に大きな人影が映った。

 目を凝らしてもう一度見る。

 その正体に気付いて、修介は大声で叫んだ。


「オーガだッ!」


 座って休んでいたクナルとトッドは鞭で打たれたかのように飛び上がった。


「こ、こんな日の高いうちにオーガが現れるなんて……ど、どうするんだい?」


 ナーシェスが慌てて荷物を拾い上げながら問いかけてくる。

 戦うか、逃げるか――修介は決断を迫られていた。

 オーガはパワーはあるがスピードはない。全力で走ればそう簡単に追い付かれることはない。

 問題は、どう見てもナーシェスに体力があるようには見えないことだった。見晴らしの良い場所では、無尽蔵ともいえる体力を持つオーガから逃げ切るのは不可能に思える。だからといって精霊の森に逃げ込むわけにもいかない。

 ならば戦うのか。

 その選択肢を選ぶのには相当な勇気が必要だった。

 見たところオーガは一体しかいないが、こちらは自分以外は新人ふたりと魔力の弱い魔術師ひとりである。戦って勝てるかどうかがそもそも怪しいのだ。


「――シュウスケさん!」


 自分を呼ぶ声で修介ははっと顔を上げた。

 クナルとトットが期待を込めた目で修介を見ていた。

 彼らにとって修介は上位妖魔と互角に戦える凄腕の戦士ということになっているのだ。オーガに後れを取るとは夢にも思っていないのだろう。真実を伝えなかったツケがこうしてやってきたということだった。

 迷っている間にも、オーガは目と鼻の先まで迫ってきていた。

 やるしかない――修介は腹を括った。


「ふたりともやれるか!?」


 修介はふたりに向かって問いかける。


「当然!」「や、やれますっ!」


 ふたりの返事に修介は満足げに頷く。声に怯えはあったが、それ以上の戦意が感じられた。初めてオーガを前にした時の自分と比較したらかなり上出来な反応だった。


「よし、俺が正面から奴を引きつける。ふたりは回り込んで背後から攻撃しろ! 腰が引けてるとダメージを与えられないから、チャンスと見たら全力で行け。いいか、相手は一体だ。お前達なら十分にやれる!」


 修介の言葉にふたりは「はい!」と気合の入った声で応えた。


「わ、私はどうしたらいい?」


 ナーシェスが不安そうに問いかけてくる。

 残念ながらオーガ相手に彼の魔法が役に立つとは思えなかったし、なにより彼は護衛対象である。危険に晒すわけにはいかなかった。


「……とりあえず後ろで応援しててくれ」


「わ、わかった。全力で応援するよ。頑張れ!」


「任せろッ!」


 修介は言うと同時にアレサを抜き放ち、勢いよく飛び出した。

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